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「夏本彩子(たみこ)」

 それは、小さな心の変化だった。


 幼い頃、幼稚園の劇で主役をもらった。

 みんなが私を褒めてくれた。

 嬉しかった。気持ち良かった。

 人から注目されるのが、こんなにも気持ち良いなんて。

 それ以来、私の心に変化が生まれた。

 テレビで見るアイドルと呼ばれる人たちが、身近なものに感じられるようになった。

 もしかしたら、私もあの世界へ行けるのかもしれない。

 あの人たちと同じように、スポットライトを浴びて、私一人がテレビの画面を独占できるのかもしれない。

 私は、あの世界へ行く切符を探した。

 雑誌の広告にあった、芸能事務所のオーディション。

 これだ、と思った。

 だから迷わず応募した。

 とんとん拍子に事は進んだ。

 初挑戦でいとも簡単に受かった。

 今思えば、それは運命が仕掛けた罠だったかもしれない。

 ボイトレ。

 演技指導。

 ダイエット。

 私の可能性を引き出すために、いろんなことが施された。

 私は、声の質が良いのだそうだ。

 だから歌の世界へ飛び込んだ。

 デビュー曲が決まり、シングルが発売され、大ヒットとまではいかないまでも評判は良く、企画されていたセカンドシングル、ファーストアルバムの企画にもGOサインが出た。

 順調だった。


 仕事が増えた。

 新人の売り出しには必要だから、とグラビア撮影もあった。

 見られる事は嫌いじゃない。

 テレビでも。雑誌でも。

 水着は…ちょっと恥ずかしい、かな。

 でも私を見てくれるという事は、私が必要とされているという事。私の居場所があるという事。


 仕事が増えた。

 いろんなところへ行った。いろんな人に会った。

 ファンだという人たちと、握手もした。

 中には、しつこくてヤダなぁという人もいたが、でもみんな私に優しかった。いつでも励ましの言葉をくれた。

 がんばってね、と。


 仕事が増えた。

 学校へはあまり行けていない。

 仲が良かった子たちとも疎遠になりがちだった。

 たまに行けば、彼女たちの話題は誰と付き合ってるか、誰が付き合ってるか、そんな話ばかりだ。

 分からないな、そういうの。


 仕事が増えた。

 自分の意思でどこかに行ったり、自分の意思で何かを言ったりできなくなった。

 疲れた。

 お休みの日はお部屋でバタンキュー。

 気を失い、死んだように眠り、朝がくればまた忙しい日常が、誰かのための日常が来るのだ。


 ある日。

 写真集の打ち合わせという事で訪れた、出版社。

 飲み物を買ってくる、と言って会議室を出た。

 社屋内の自販機に欲しい物がなかったので、外へ出てみた。

 たったそれだけの行動なのに、なんだか少し自由になれた気がした。


 それは小さな心の変化だった。

 あっちの自販機に行ってみよう、そう思って歩き出す。

 ふと目に留まった、ちょっと変わった形のバイク。

 かっこいいなぁ。

 そう言えば、昔の歌って、バイクが出てくるのが多かった気がする。

 バイクかぁ。

 こんなので風を切って走ったら、気持ち良いんだろうな。

 そんな事を妄想してぼんやり立ってたら、声を掛けられた。

 男の子? 男の人?

 なんか人違いだったみたい。

 しどろもどろになってる姿が、なんだかカワイイ。

 年は私と同じくらい、かな?

 このバイクの持ち主だって。

 いいなぁ。


 それは小さな心の変化だった。

 どこかに行きたい。

 いろんなことが積み重なって重たくなった日常を忘れたい。

 そのせいだろう、きっとそのせいだ。

 私の口が、動いた。

 乗せて?

 自分でも分かる。変なこと言ってるな、って。

 誰とも知らない初対面の人の、男の人のバイクに乗せて、なんて。

 彼は、少し困った顔をした。

 当然だ。

 誰とも知らない初対面の人が、女の子がバイクに乗せて、なんて。

 変なコだなって思われたかもしれない。

 でも。

 彼は優しかった。

 こんな私を受け入れてくれた。

 私の望みを、叶えてくれるって。


 バイクは海を目指し、風を切って走る。

 想像通り、いや想像以上だった。

 見慣れた景色が、どんどん後ろへ吹っ飛んでいく。

 嫌なことも何もかも、どんどん後ろへ吹っ飛んでいく。

 このまま進んでいく先には、何かステキなことが待っている、そんな気がする。


 夏の海はステキだった。

 南の海も、海外の海も、撮影と称して行ったことがある。

 でも、誰にも何にも縛られず見る海は、他のどの海よりも輝いて見えた。

 私だけこんなにはしゃいでいいんだろうか?

 せめて飲み物くらい、お礼しないと。

 でも…おサイフを持っていなかった。

 それはそうだ。

 だって着の身着のままで会議を抜けてきたんだから。

 そもそも飲み物を買いに出た時点で、私は無一文だったのだ。

 普段からおサイフから何から、マネージャーさんに任せっきりなのだ。

 だから、つい習慣で…

 情けなくなってきた。

 私は一人じゃ何もできない。どこへも行けない。

 悲しくなってきた。

 やっと自由になれた気がしたのに。

 些細なことで現実をつきつけられた。

 こんなバカなコ、呆れられちゃうだろうな。

 でも、彼は笑って受け入れてくれた。

 それだけじゃない。

 自分を責めちゃいけないって。

 自分に優しくしてって。

 もう、泣きそうだった。

 それ以上に、嬉しかった。

 こんな励ましの言葉、私は知らない。

 みんな私に「がんばれ」、っていう。

 そうか、私、がんばらなくちゃいけないのか。

 でも違う。

 私を私のまま、受け入れる、そんな考え方もあるのか。

 このままそばにいたい。

 私をありのまま受け入れてくれる、彼のそばに。

 だがそうはいかないことを、自動販売機は教えてくれた。

 戻らなければいけない、私の世界。私の日常。

 ありがとう。

 つかの間だったけれど、私に違う世界を見せてくれた、彼に感謝。

 彼のそばは魅力的だけど、戻ると決めたら甘えられない。

 送ってくれると言うけど、私は私の道を自分の足で歩かなくちゃ。

 再び現実が追いついてくる。

 そうだ、電車賃もないんだっけ。

 あーあ。

 もう笑うしかない。

 でも彼は優しくSuicaを渡してくれた。

 今は、彼の好意に甘えさせてもらおう。

 駅で彼と別れ、一人電車に乗る。

 夕方、会社や学校の帰りのお客さんと一緒の電車に揺られる。

 いつもはチヤホヤされる私も、今この瞬間はただの人だ。

 特別扱いされないことがこんなに嬉しいなんて。

 それは贅沢とか思い上がりなんだろうけど。

 日が沈み、夜を迎える街並みを、電車の窓からぼんやり眺める。

 右手に握りしめたSuica。

 そうだ…これはいつか、彼に返さなくちゃ。

 こんなにまで私を救ってくれた優しさに、いつか応えたい。

 だから。これは大事に。大事にとっておこう。

 そして、いつか返そう。

 お礼に優しさを添えて、これを。


 それは、小さな心の変化だった。

 彼に会いたい。

 日常に戻った私は、マネージャーさんにこってり搾られて、がっちり叱られた。

 でも今は大丈夫。

 輝く湘南の海の風景が、私を支えてくれる。

 だから忙しくてもへっちゃら。

 しんどいな、って時には、Suicaを見るのだ。


 ツアーのステージに戻った私は、いつものようにみんなの前で歌う。

 みんなが私を応援してくれる。

 でも、なんだか…

 客席のみんなの声が遠くなった気がする。

 いつもは私の心の中をいっぱいに満たしてくれていたのに。

 今はなんだか…とても遠くに聞こえている。


 彼に会いたい。

 今頃どこでどうしてるんだろ?

 偶然どこかでバッタリ。

 なぁんて。

 少女マンガの世界じゃあるまいし。


 彼に会いたい。

 どうしちゃったんだろう。

 忙しくなると、しんどくなると

 彼の言葉を聞きたくなる。

 彼の声を聞きたくなる。

 彼のそばにいたくなる。

 会いにいけばいいのかな?

 でもそれは無理、ね。

 だって私、アイドルなんだもん。

 週刊誌も芸能レポーターも、みんな怖い。

 あることないこと、みんな洗いざらい暴露する。

 みんな、こんなの読んで、楽しいの?


 昔、身を投げて自ら命を絶ったアイドルがいたという。

 なぜそんなことをしたのか、分からなかった。

 でも、今なら分かる気がする。

 何かあれば、ゴシップという蜜を吸いに虫たちが群がるのだ。

 蜜を吸って、吸って、吸って。

 枯れるまで。

 虫にたかられて生き血を吸われるのはどんな気分なんだろう?

 それが想像できるなら、彼女の気持ちに近づけるんじゃないだろうか?

 でも。

 私は同じ道は選ばない。

 むしろその道を彼女が止めていてくれる。

 だから私は生きていく。


 ある日、事務所の先輩が教えてくれた。

 心休まる教えがあるのだと。


 彼に会いたい。


 そう思うと心がざわつく。

 もしかしたら、そんな教えとやらがこのざわつきを鎮めてくれるかもしれない。

 シューニャデーヴァ。

 インドの言葉で「空っぽの天国」の意だという。

 満たされない思いがあるなら、いっそ空っぽになってしまえばいいのに。


 それは、小さな心の変化だったのだ。


 彼に

 会いたい…

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