37.幸運を呼ぶ刺繍の加護があらんことを
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ほか誤字脱字等をチェックしました
白いストールの片隅に水色の小動物がちょこんと座る。
愛らしい兎の刺繍が無事、完成した。瞳の色は明るいオレンジ色。今まで縫った中でも屈指のかわいさだ。
うっ……ちょっと気に入っちゃったかも。渡したくないという気持ちが生まれるくらい、上手にできちゃった。
午前の公務が始まる前に領主の執務室へ。仕事の準備を始めたフェイリスがいるはず。
ノックして部屋に入ると。
「お姉様助けて!」
いきなり妹ちゃんに抱きつかれた。
「ど、どうしたの突然?」
「わたくし……怖くて……」
「なにが怖いのよ?」
「エドワード王に、フロストヴェールの領地運営事業計画書を提出しなければいけませんの。これでノースゲートとも肩を並べる立派な運営ができると証明するために!」
「それは……大変ね」
エドワードはバカに違いない。けど、きちんと教育を受けているから書類の数字くらいは読める。
自分自身のことは顧みないけど、他人に対しては厳しいことが言えてしまう人だった。
不備があれば指摘して、いくらでも難癖をつけてくるかも。
裏を返せば、完璧な書類を提出できれば、正統な婚約破棄の理由になる。
国王の要請は「北方三領の安定」だもの。
泣きじゃくったような赤い目でフェイリスが私をじっと見つめる。
「自信ありませんわ」
「だったらアルヴィン君に代筆を頼んでみたらどうかしら?」
「頼みました! けど、断られました! あの方は心に鬼を宿してますわ!」
相当なスパルタっぷりを発揮してるみたい。意外だった。私の前では庭を駆け回る仔犬みたいなのに。
「私からも頼んでみようかしら?」
「うう……それもダメだとアルヴィン様には釘を刺されてますの」
私が考えつくようなことは、彼も想定済みか。
「じゃあ、一緒に考えましょう。計画書」
悲しげな顔で少女は首を左右に振る。
「わたくし独りの力で書き上げるようにと言われましたの」
「なるほどね。アルヴィン君は貴女に誰の力も借りず、自分の領地を守れるようになってほしいんだと思うわ」
「重々承知です! だから失敗できませんわ! なのに……わたくし……できるかどうか」
落ち込むフェイリスを片腕でぎゅっと抱きしめてから。
「はい、これ。フェイリスが幸せになれるよう、おまじないをしながら刺繍したから、元気を出して」
後ろ手に隠しておいたストールを彼女に手渡した。
白い雪原の隅っこにちょこんと座る水色兎。
妹ちゃんは目をハートマークにして釘付けだ。
「きゃああああああああああ! かわいいいいいいいいい! これ! このうさちゃんはもしかして、わたくしですか!? ですよね!? そうですわよね!!」
「え、ええ。気に入ってくれたみたいで嬉しいわ」
「一生大事にしますね! ううん! わたくしだけではもったいないですわ! フロストヴェール家の家宝にして、子々孫々代々延々綿々と受け継いでいきましてよ!!」
「そ、そうね。そのためにもお家断絶なんてことにならないように、書類をしっかり書きましょうね」
「お任せあれですわ! お姉様の愛が縫い込められたこの刺繍があれば、どんなにつらいことでも……何度心が折れようとも、必ず二度三度何度となく立ち上がって見せましてよ!」
なんだかわからないけれど、ともかく元気になってくれてよかった……かな。
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覚悟が決まれば自覚が芽生える。
なんてことがあったのか、フェイリスは領地運営の事業計画書を自力でまとめきった。
読ませてもらったけど、初めて書いたとは思えないくらいしっかりしている。
これも教育のたまものってやつね。
アルヴィン君は「人を育てるのってやりがいがあって楽しいですねリリア先輩!」って、笑顔で言うけど、その裏でフェイリスがいっぱい泣かされたんだろうな……と、思うくらいには、本当によくできた書類だった。
さらにレオナルドとアルヴィンが精査して、ぐうの音もでない内容に磨き上げたそれを、なんと黒獅子様が直接王都に届けることになった。
ちょっと……ううん、かなり心配。
まだ日が昇る前に、旅支度を済ませたレオナルドがフロストヴェールの屋敷の前庭に馬を引いてくる。
「お気をつけて」
「見送りありがとう。アルヴィンとフェイリスは連日、この書類を作るために徹夜続きだったろうし、寝かせておこう」
二人は今、やっと久方ぶりの夢の中だ。
「そうですね。けど……レオナルド様だって毎日フロストヴェール領内を奔走なさっていらしたのに」
「馬で駆けるのは好きだからね。それに私ならノースゲート領からドレイク領に続く橋を無事に渡れるから」
フロストヴェール領からノースゲートを経由しないで王都に行くには、山林を抜けてミラディス川の流れの穏やかな場所に出て、橋の無い大河を小舟で渡らなければいけない。
馬と一緒となればなおさら難しい。
街道を離れた山野は魔物も野盗も出る危険地帯だ。単身で踏破できるのは護衛騎士ギャレットくらいなもの……とは、黒獅子様の冗談だった。
冗談じゃないかもしれないけど。
ともかく――
王都までの道のりは、正攻法の安全なルートを通るのが、もっとも早い。
表向きはノースゲートも門を閉ざすようなことをしていないけど、仮にフロストヴェールから王都に使者を出した場合、ミラディス大橋で足止めされるかもしれない。
無事通過できるのは、エドワード王に私の監視や説得を命じられたレオナルドだけ。
王に報告のついでという体裁を整えてのことだ。諸々、レオナルドが王都では上手く立ち回るというけれど……。
頭では理解してる。きっと、大丈夫って。けど、それでもやっぱり……心配。
レオナルドは私の頬をそっと撫でた。
「そんな悲しげな顔をしないでリリア。せっかくの美人が台無しだよ」
「わ、私はそんなに……美人だなんて……」
「栗色の髪も瞳の色も、顔立ちだって素敵さ」
「もう、こんな時に」
青年は惜しむようにゆっくり手を離す。温もりが触れられた場所に残った。
「王都には私の配下もいる。エドワードの周辺の情報も持ち帰るよ。前から調べさせていたこともあるしね」
「そんなことよりも、貴男が無事に戻ってくれるだけで十分ですから……」
「もちろんさ。あとはエドワードに君のことも話さないとね」
「わ、私のことも!?」
「ああ。君を懐柔しつつあるから、あと一年ほど時間をかけたいとね。今、焦って事を起こせば今日までの説得がすべて水泡に帰す……と。もちろん、君と私が通じ合っていることなんて、愚王は気づかないだろうさ」
「一年……ですか?」
「なに、心配はいらないさ。一年後にまた引き延ばしをする。せっかく一年かけて土壌ができたのに、すべてひっくり返すんですか? とでも言えば、損をしたくない一心でエドワードは延期する。そういう男だ……ただ」
レオナルドはあご先をそっと指で挟んで思考のポーズをとった。
恐る恐る訊く。
「なにか気がかりなことでもあるのですか?」
「……あの男だけなら手玉にも取れるが、王妃シャーロットがね。幼い頃から親交があったわけでもなく、君が追放された夜、突然お披露目されたのだよ。正直、情報が足りない」
「レオナルド様にも知らないことってあるんですね」
「私をかいかぶりすぎだ。知らないからこそ、間者をシャーロットの故郷であるガーディアナ王国に潜り込ませている」
王妃シャーロットはセリア王国の隣国、ガーディアナの姫君だった。
政略結婚。両国が結ばれたことで、ガーディアナは後背を気にすることなく、国境線を接する異教徒の国家――インペリオン帝国と対峙できている。
地政学的にみると、セリア王国にとってガーディアナは楯だ。
青年は続けた。
「ともかく、この書類と私の弁舌があれば、フェイリスの婚約は白紙撤回になるだろう。大きな魚が小さな魚を丸呑みにすることはあっても、ほぼ同じ大きさの魚同士であれば、そうはならないのだからね」
「エドワード王は応じるのかしら?」
「可能な限り、シャーロット王妃のいないところで話を進めるよ。エドワードはポーカーが好きだ。男同士の勝負だと言えば、きっと乗ってくる。もちろん、接戦の末負けてやるさ。酒も入れば気持ち良く快諾するだろう」
「すごいですねレオナルド様って。このまま王位も手にしてしまいそう」
「君の心だけは奪うことができないけどね」
「……よしてください」
「冗談のつもりはないし、諦めてもいないさ。けど、ルール違反だったね。すまない。成し遂げるまで、胸に秘める約束だった」
真顔で言われると、正直……困るし揺らいでしまう。
レオナルドはハンカチを取り出した。
「君と離れていても、この刺繍がきっと私に幸運を運んでくれる。そうだろう?」
「え、ええ。そうですとも」
え? もしかして……気づかれてるの!?
「では行ってくるよ! 私が帰るまで良い子にしているんだ」
「ご武運……ではないかもしれませんが、安全を祈願して待ってますねレオナルド様」
馬の鐙に足を掛け、颯爽と騎乗すると青年は朝陽とともに旅立った。
結局、刺繍の秘密にレオナルドが気づいているのか確認できなかった。




