記憶にございません
俺たちは新婚ホヤホヤで幸せいっぱいの夫婦だ。そう思ってた。昨日までは⋯⋯
昨日妻と2人でデートをしていた時、俺は確信してしまった。こいつ、浮気してやがる。
ショッピングモールの中を歩いていると、妻が高そうなネックレスをつけていることに気がついた。奮発して買ったのだろうか。
「ネックレス、似合ってるよ」
「ほんと〜? ありがと〜! これけっこう高かったのに、ホントありがとね〜」
高かったのに、ありがとう? 自分で買ったんじゃないのか? 少なくとも俺はそんなものは買っていない。もしかして、誰かと間違えてるのか? ということは、浮気⋯⋯?
この時点では、まだ疑惑の段階だった。問題はこの次だ。昼になったので、俺たちはフードコートのオムライス屋に行ったんだ。そこで彼女はこんなことを言った。
「この前、この白いソースのが好きだって言ってたよね! 私もこれにしようかな〜」
俺がこのオムライス屋に来たのは今日が初めてだ。いったい誰と間違えているんだ。だんだんと怒りが湧いて、取り乱しそうになった。
「お前っ! ⋯⋯ごめん、ちょっと頭冷やしてくるわ」
妻の由美を残して俺はそのまま1人で家に帰ってきた。家の鍵を半閉めにして、外から開けられないようにして昨日は寝た。
そして今目が覚めて、昨日のことが現実だったんだと実感した。由美は俺と浮気相手の男との思い出がごっちゃになっているんだろう。俺はそれがとても悲しかった。
スマホに由美からの着信履歴は無かった。浮気相手の家にでも泊まったか。堂々としてやがる。まだ結婚して2ヶ月だぞ⋯⋯超スピード婚だったから、初めて会ってからまだ半年しか経ってないんだぞ、まったく。とりあえず顔を洗おう。そう思い俺はベッドから起きた。
ドンドンドンドン!
誰かが玄関を叩いている。由美だろうか。
ドンドンドンドン!
違うのか? 知らない人に玄関をドンドンされる道理はないし⋯⋯でも、由美なら電話をかけてくるだろう。
「まだ〜? 何探してんの〜?」
やはり由美だ。しかし、言っていることが理解出来ない。どういう意味だろうか。
それにしても由美は気がついていないのだろうか、昨日自分が失言をしたことに。そのせいで置いていかれたとは思わなかったのだろうか。
「もう10分くらい待ってるんですけど〜! 何で鍵開かないのよ〜」
何を言ってるんだ、本当に。10分どころか20時間くらい経ってるだろ。でもまあ、うるさいので開けるしかないか。
俺は玄関に行き、ドアを開けた。するとそこには、昨日の格好のままの由美がいた。石鹸の匂いがする。風呂には入ったようだ。どこでだ。どこで入ったんだ。
「見つかった? 探し物⋯⋯ってなんで寝間着?」
「いや、さっきから何言ってるんだよ」
今起きたんだから寝間着なんだよ。びっくりすることでもないだろ。それに、探し物の話なんてしてないし、そもそも探し物なんてないよ。
「祐くんこそ何言ってるのよ。さっき探し物してくるって言って家入ったのに、10分後には寝間着で出てきて、意味分かんないよ」
「いやいや、本当に意味が分からないぞ。俺はさっきまで寝てたんだよ。昨日君をショッピングモールに置き去りにして帰って来てから、すぐに寝たんだ」
「置き去り⋯⋯?」
2人の話が噛み合わない。どちらかの記憶がおかしくなっているのだろうか。このままだと埒が明かないので、2人で話し合うことにした。俺が昨日何も言わずに帰って来てしまったのも、もしかしたら何かを誤解していたのかもしれないし。
俺は単刀直入に浮気しているか聞いてみた。由美は強く否定した。じゃあなんなんだそのネックレスは。オムライスのソースの話は。
由美に聞いてみたところ、間違いなく俺に買ってもらったネックレスだそうだ。俺の記憶がおかしいだけだという。オムライスも以前に2人であの店で食べたことがあり、その時に俺が白いソースのものを頼んだと言っている。
俺は考えた。昨日は動揺してしまってあんな行動を取ってしまったが、思えば由美は付き合い始めた頃からずっと俺だけを見ていてくれたように思う。一緒にいた期間は短くとも、俺たちの信頼関係はとても強いものだったはずだ。ということは、俺の記憶がおかしいのだろうか。
だがここまではただの忘れた忘れてないの話だ。問題はこの後の俺と由美の記憶が全く違うこと。俺は昨日ショッピングモールから帰って、ご飯も食べずに寝たんだ。しかし由美は俺が彼女から離れた後、すぐに戻ってきたと言った。
俺はトイレに行っていただけだったそうで、その後2人でオムライスを食べ、夜はホテルでディナーを食べてそのまま泊まったと言っているのだ。そして朝起きると、俺が忘れ物があると言って家に寄って、今に至ると。
百歩譲って俺の脳に何か異常があって、物事を忘れてしまっているとしても、さすがにここまで記憶が違うのはおかしいだろう。
そう思った俺は、ふと子どもの頃に聞いた『ドッペルゲンガー』の話を思い出した。見た目も声もそっくりなもう1人の自分がいて、そいつの顔を見ると死んでしまうという話だ。
俺はそういう都市伝説みたいなものは信じない性格だったのだが、さすがにこれはドッペルゲンガーを疑ってしまう。
「由美、君が昨日一緒にいたのは恐らく俺のドッペルゲンガーだ。そいつになにかされなかったか?」
得体の知れないやつと一夜を共にした由美がたまらなく心配になっていた。
「そんなのいるわけないでしょ。病院行って診てもらおうよ」
「ああ⋯⋯」
そのまま朝イチで2人で病院に行くことになった。絶対ドッペルゲンガーだと思うんだけどな。脳に異常があったとしてもさすがに⋯⋯って、どっちに転んでも救いがないじゃないか。なんてついてない男なんだ、俺は。
病院は老人の憩いの場になっていた。3時間してようやく呼ばれた俺は、いくつか質問を受け、脳の検査をさせられた。
「若年性アルツハイマーでしょう。先程お聞きしたお話でも、探し物があったのにそもそも探していることを忘れてしまったり、配偶者の浮気を疑ってしまったり、これらは代表的な症状です」
頭が真っ白になった。俺は治るのだろうか。死んでしまうのだろうか。大事な人たちのことを忘れてしまうのだろうか⋯⋯
ちなみに、妻の浮気を疑っていたのは『嫉妬妄想』という症状だったらしい。まさかこれも症状だったとは。ショックすぎて、頭がぼーっとしてきた。
「奥様、旦那様は今パニックになられていると思います。奥様もショックかとは思いますが、本人のショックは計り知れません。しっかりと支えてあげてください」
「はい⋯⋯」
その日は薬をもらって帰ってきた。そのうち由美のことも忘れてしまうのだろうか。俺は、あと10年から15年ほどしか生きられないらしい。ほかの認知症とかと比べると長いほうだと言われたが、俺はまだ26歳だ。さすがに早すぎるよ⋯⋯
「じゃじゃーん!」
家に帰って寝ていた俺は、由美の声で目を覚ました。声のする方に行くと、出来たてのステーキがあった。俺を元気づけようとしてくれているのか。そんな妻の浮気を疑っていたなんて⋯⋯
「泣かないで、祐くん。私を疑ったこと後悔してるんでしょ? 仕方ないよ、それも症状だって先生言ってたじゃん! この通り私は祐くんにメロメロだよ〜」
なんて出来た人間なのだろう。人としての器の大きさで由美にかなう人間がいるのだろうか。俺はさらに泣いてしまった。でも、これは嬉し涙だ。
「ありがとう」
「忘れちゃうんなら、毎日思い出作っちゃおうよ! 私も頑張って稼ぎまくるからさ!」
「うう⋯⋯うわあーん!」
「泣きすぎだよ〜!」
俺は本当に幸せ者だ。短い生涯になったとしても、由美に出会えたことでオールオッケーだ。1回でも疑ってしまったんだ。今日からはさらに由美を大事にしていこう。
その日は2人で楽しくステーキを食べ、夜遅くまでゲームをしてから寝た。病名を聞いたショックと夜ふかしとで、心身ともに疲れていたせいかとてもグッスリ眠れた。3時くらいまで起きていたので、朝起きて時計を見たらもう11時だった。すぐ昼になってしまう。
今日は土曜だが、由美はサービス業なので朝から仕事に行っているようだ。ベッドから立ち上がり、顔を洗おうと歩き出す。そういえば、昨日結局顔洗わなかったな。ふとキッチンの方を見ると、机の上にメモが置いてあるのを見つけた。
『冷蔵庫にパフェあるからお昼に食べてね♡』
昼ごはんにパフェって、面白いな。ありがとう、由美。ちょっとどんなのか見てみたいな、冷蔵庫のどこに入ってるのかな。
プルルルル
スマホが鳴った。高校時代の友人の彰久からだ。
「もしもし」
『もしもし、お前さっき俺の家の前走ってたろ。後ろ姿で分かったぜ。どうだ、久しぶりに飯でも行かねぇか? ちょうど昼だし』
もしかして、また徘徊してたのか? 俺は。とりあえず徘徊癖だけはなくしたいな。ましてや走ってるなんて、この調子じゃ体がいくつあっても足りないよ。
「いいね、行こう」
パフェは食後のデザートにしよう。
『お前もう家にいるんだよな? お前がシャワー浴びてる間にお前の家まで迎えに行ってやるよ。10分くらいで着くから、じゃあな!』
そうか、俺は走ってたんだったな。くんくん、うん、臭い。そういや昨日も風呂入らずに寝たな。どおりで臭いわけだ。
朝シャワーを浴びるのなんて久しぶりだな。基本夜だからなぁ。朝浴びるのも気持ちいいもんだな。シャワーを終えた俺は脱衣所に出て体を拭いた。
ピンポーン
彰久め、早めに来たな。待ち合わせは5分前行動がいいけど、人の家に行く時は5分後のほうがいいんだぜ? その家の人が準備出来てないかもしれないからな。現に俺もそうだし。
まあ彰久ならこの裸の状態で玄関開けに行っても問題ないか。一瞬で開けてすぐに彰久を家に入れればいいんだ。
「はーい、ちょい待ち〜」
俺は裸のまま玄関に向かった。彰久、ビックリするだろうな。まさか俺が裸だとは思ってないだろうし。
俺は少し濡れた手を玄関のドアノブにかけた。ドアを開けるとそこには、俺がいた。
なにごともなかったかのように、世界は回っていく。