上
王国の辺境。
修道院から少し離れた場所にある古びた建物から、重く鋭い音が響き渡った。
すさまじい衝撃音に驚いた鳥たちが飛び立ち、街中の犬が一斉に吠える。
建物の中では、くの字に折れ曲がったサンドバッグが天井まで跳ね上げられていた。
その光景を目の当たりにした青年が、顎が外れんばかりに口を開けている。
「嘘……だろ……」
青年は長身に逞しい筋肉をまとい、片目を眼帯で覆っている。
残された目の視線が、たったいまサンドバッグを殴った少女に注がれていた。
「ごめんなさい、これ……壊しちゃったみたいです」
修道服を着た少女は青年の視線から何を感じ取ったのか、申し訳なさそうに縮こまっている。
サンドバッグが破れ、中に詰めていた砂や布がこぼれだしていた。
きっとそれを怒られると思っているのだろう。
「神の拳だ……」
「えっ?」
隻眼の青年のつぶやきに、少女はきょとんと目を丸くした。
「これこそが本物の神の拳だ! お嬢ちゃん、あんたなら世界が獲れる!」
「えっ? えっ? えっ?」
突然詰め寄って手を握りしめてきた青年に、少女は思わず身を硬くした。
* * *
――メリス・ヴラドクロウ公爵令嬢、お前の悪行はもうすべてわかってるんだ! 婚約は解消させてもらう!
左、右、左、右。
左のジャブと、右のストレートをリズミカルに繰り出す。
「ジャブはもっとコンパクトに! ストレートのときは脇をもっと締めろ!」
左、右、左、右。
左のジャブと、右のストレートを先ほどの動きをなぞるように繰り返す。
「うーん、どうもメリスはシャドーだと調子が出ないな。ミット打ちにするか」
リングに上がり、アレックスが構えるミットにワンツーを繰り出す。
左、右、左、右。
ミットに拳が当たるたびに、何かが破裂するような音がする。
気持ちがよい。
――メリス様のお顔を見るだけでもう恐ろしくて恐ろしくて……。イログールイ殿下、本当にありがとうございます。
一瞬、ネトリーのわざとらしい泣き顔がミットに重なる。
力のこもった右ストレートがミットを弾き飛ばし、大砲が炸裂したような音がジム内に響き渡った。
「ひゅー、すげえな。手首が引っこ抜けるかと思ったぜ」
私のパンチを受けた手をぷらぷらと振りながら、アレックスが笑う。
アレックスはこの古びたジムのオーナーで、いまは私のトレーナーでもある。
「ごめんなさい、つい力がこもってしまいましたわ」
「謝ることなんかあるか。メリスのパンチは神をも砕く……って、これはさすがに不敬かな」
冗談を言いかけて、アレックスは鼻の脇を指でかいた。
「そうですね。修道女が神を砕くのはいくらなんでも不敬ですの」
「いや、すまんすまん」
そう言って、お互いにくすくすと笑う。
アレックスは私が好き好んで修道院に入ったわけではないことを知っているのだ。
すべての原因は、思い出すのも嫌気がする学園の創立記念日パーティでのことにさかのぼる。
婚約者であったイログールイ王子が、私にあらぬ嫌疑をかけて婚約を破棄したのだ。
その嫌疑とは、同級生のネトリーに様々な嫌がらせをし、あまつさえ階段から突き落とそうとしたというもの。
まったく身に覚えのない罪に抗議をしたが、私の声はネトリーの取り巻きたちの罵声によってかき消されてしまった。
ネトリーは平民出身で上昇志向が強く、多くの貴族子弟に媚を売っては取り入っていたのだ。
その毒牙がついにイログールイ王子の元にまで伸びた、ということなのだろう。
平民に大人気ない嫌がらせを重ねた上に、婚約破棄をされたという噂が立ち、王都には私の居場所がなくなった。
家に閉じこもって泣き暮らしていた私を、父が心配して辺境の修道院へ入れるように手配をしてくれたのだ。
そもそもが言いがかりであるし、数年も経てばほとぼりが冷めて別の良縁も探せるだろうという判断だった。
王子から婚約破棄されたという身の上では、王家から距離を置いている議会派の貴族か、他国に嫁ぐしかないのだろうけれど……。
まるで追放でもされたかのような顛末だったけれど、修道院での暮らしは、思いのほか水が合った。
もともと人付き合いが得意な方ではないのだ。
貴族の令嬢としてはよくないことなのだが、王都の社交界は私には息が詰まるものだった。
父が多額の寄付をしてくれたおかげで、修道院での暮らしに不自由はない。
はじめのうちは本を読んだり、あちこちを散歩して気ままに過ごしていたけれど、それだけでは人間は退屈してしまうもののようだ。
何か仕事がしたいと思い、修道院が運営する孤児院の手伝いを申し出た。
大人の相手は気が詰まるけれど、子ども相手なら心が休まるのだ。
言動の裏を読み、相手の思惑を探るような会話はもうこりごりだった。
アレックスのジムを知ったのはそのときのことだ。
孤児院の横にあり、希望する子どもたちに拳闘を教えていた。
この国、というか大陸の国々では拳闘がとても盛んだ。
婦女子にはふさわしくないものとされているので私は見たことがなかった。
しかし、4年に1度開かれる王都の大会では、それを目当てに各国から集まった観光客で通りが埋まるほどの盛況となることは知っている。
教育の機会も、上流階級とのコネもない孤児たちにとって、拳闘で強くなることは成り上がるための数少ない手段なのだ。
子どもたちが天井から吊るされた大きな棒(サンドバッグ、という言葉はそのとき知らなかった)を懸命に叩いている姿が窓越しに映り、「私も叩いてみたい」という欲求が知らぬ間にわき上がってきていた。
孤児院の手伝いのたびにそうして覗いている姿に気が付かれたのだろう。
アレックスもほんのいたずら心だったに違いない。
修道院の若い尼さんに、ちょっとサンドバッグを叩かせてやろう、程度の気持ちだったのだ。
それが、私自身でさえ知らなかった才能を開花させるきっかけになるだなんて知らずに――