泡影
夢幻に生く。
春の太陽、朱の光。山の向こうに沈みゆく。山の端彩る金色消えて、薄闇、影なく忍び寄る。昼と夜とが混ざり合う。薄明。静けさ。酉の刻。
たそがれ。誰そ彼。顔など見えぬ。すれ違ったはヒトの子か。
たそがれ。誰そ彼。わかりはしない。前を歩くはあやかしか。
誰そ彼。声などかけてはならぬ。逢魔が時の始まりに。
三月の終わり。午後六時。
薄闇に呑まれた町並みは、ひどく閑散としている。夕暮れを知らせる鐘の音が、どこからともなく響いてくる。淋しげな、どこか不気味な鐘の音。それは静寂を破るどころか、迫り来る夜をはっきりと引き立てる。
月齢十一・七。空の端っこ。少しずつ丸くなっていく月が、妙に霞んでいた。頼りない月明かりは足元まで届かず、光源を失った町は、くすんだ青に塗り潰されていく。少しずつ、少しずつ。
まるで、水の中。青い海の底に、町ごと沈んでいくような。そんな感覚。空気まで、青い。
こんな時間に出歩くことは、感心しない。それも、たった一人で。学校帰りだから、仕方がないけど。
近道をしようと思って、路地裏を抜ける。静まり返った狭い小道は、人が歩くのを拒んでいるようだった。闇が、重い。
黄昏時に出会った人に、声をかけるのも感心しない。けど、それが小さな子供だったら、仕方がないはず。
小道の端。薄闇に紛れるようにして、小さな男の子がしゃがみこんでいた。小さな両手で顔を覆って、私の方に背中を向けて。
「…どうしたの?泣いてるの?」
迷子かな。そう問いかけると、その子は小さな言葉を返した。
「お姉ちゃん、名前は?」
名を教えるのも、感心しない。出会ったばかりの、見知らぬ人に。誰でも知ってることなのに。
「栢」
知らず知らずに私の口から、自分の名前が漏れていた。地面にしゃがんだ子供の顔が、微かに嗤ったようだった。
「かぁーごーめー、かーごーめ」
嬉しそうな、声。楽しそうな、声。弾んだ声で、歌が始まる。昔遊んだ、かごめかごめ。闇に紛れた少年は、俯いたままで言葉を紡ぐ。
薄明。静けさ。酉の刻。暗みに響く、わらべ歌。
闇。こんなに暗かっただろうか。まるで、籠の中。闇の中。捕らわれたように。逃げられない。
「後ろの正面だーぁれ」
歓喜に満ちた声が、一瞬だけ途切れる。
「栢ちゃん」
短い静寂。その後で。名前を呼ばれた。名前を、取られた。
都市伝説。みたいなものだったと思う。
夕暮れ時の、神隠し。
逢魔が時に出会う人。名前を言ってはいけないよ。すぐに逃げなきゃいけないよ。名前を呼ばれちゃいけないよ。
名前を呼ばれてしまえば、最後。呼ばれた人は、神隠し。
どこにでもある、都市伝説。
彼がいなくなったのは、冬の初めの頃だった。私はあの時のことを今でも覚えているはずなのに。なのに私は自分が同じ立場に置かれたとき、神隠しの噂なんて思い出しもしなかった。これっぽっちも。
彼もそうだったのだろう。神隠しなんて、信じてなかったのだろう。だってこんなの、少しも現実味がない。
空が見える。月のない、夜空。闇の黒と、雲の灰色。濃淡だけで描かれた、無彩色の空。
いつの間に眠っていたんだろう。気がつくと、闇の中にいた。体中に纏わりつくような漆黒は、どこかさらりとしていて、どこか冷たい。
何かが動いた。視界の端で。
何かが聞こえた。微かな声で。
辺りは暗闇。静かな風が、流れるように走っていった。
辺りは暗闇。見えない何かが、流れるように走っていった。
目を凝らしても、姿は見えない。
耳を澄ましても、音はない。
どこか、淋しい場所だった。
立ち上がった瞬間、水の跳ねる音がした。見下ろせば、水鏡。自分の姿が逆さに映る。その周りには、見慣れた町並み。慌てて顔を上げるけど、あるのは暗い闇ばかり。水面の裏側。闇に落ちたとようやく気付く。
今度こそ視界の端を、何かが過ぎった。おかっぱ頭の女の子。
今度こそ耳元に、音が届いた。からからと廻る、かざぐるま。
幼い笑い声をあげ、子供が一人、駆けていく。赤い小袖が翻る。巻き起こる風。かざぐるま。
からから廻るその音に、淋しさ募る。手を伸ばす。
「待って…」
慌てて追いかけようとした。けれど。
「追うな」
静かな声。落ち着いた声。掠れたような、声がした。同時に腕を掴まれる。大きな手。冷たい手。温度の感じられない手。突然のことに、寒気立つ。
「追うな」
もう一度言われた時には既に、小袖姿は消えていた。闇夜に紛れて消えていた。
振り返ると、人影が一つ。自分と同じ年頃の。
藍で染められた、和風の羽織。刈り込んだような短い髪は、くすんだ闇色。顔は、正反対に真っ白な面で隠されていた。
面長な形。天辺の耳。吊り上がった目と、描かれた針金のような細いひげ。狐の面。
両の目元に一筋ずつ、差された朱色が目を引いた。
「誰…?」
考えるより一拍早く、言葉が出ていた。その言葉。自分の言葉に違和感を持ったのは、どうしてだろう。かれを知ってる。確かに知ってる。
吊り上がった目。狐の目。その向こう側に淋しげな視線を感じたのは、どうしてか。
「名前は、教えない。それが掟だから」
掠れた声で、彼は答えた。狐の面には、感情がない。相手の顔も、見えはしない。
「取られた名前は名乗れない。俺も、君も」
狐の面が、言葉を紡ぐ。
「かごめかごめは囲め囲め。捕らわれた者は逃げ出せない」
かごめかごめ。籠の中。闇の中。小さな子供が駆けていく。夕暮れの町にうずくまってた、あの小さな男の子。
「私も、捕らわれた?」
「君はまだ」
狐の面は、頭を振った。そう呟いて、足元を指す。
水鏡。逆さの世界。背中を合わせ。こっちは暗闇。向こうは現。私の影は、現に映る。ふと見ると、狐の姿は映っていない。捕らわれたんだ。完全に。
「籠目を抜ける方法は、誰かの名前を当てること。君の名残が消え去る前に」
足元の影がなくなる前に。
吊り上がった狐の目。その向こう側に温かな視線を感じたのは、どうしてか。
「大丈夫」
静かな声。落ち着いた声。聞き覚えのある掠れた声が、はっきりと耳に言葉を伝えた。
「会ったこと、あるんだよね?」
そう問いかけてみたけれど、狐の面は、答えなかった。肯定しない。否定もしない。目の前に立つお面の男に、どこかで会った気がするのだけど。
「だめ。わかんない」
視線を下げると、水の上。薄らいでいく影一つ。闇に滲んで、淡く溶け出す。
「早く」
目の前で、狐が声を上げる。
吊り上がった狐の目。その向こう側の感情が、読み取れなくて怖くなる。
吊り上がった狐の目。温かくもなく。冷たくもなく。
「早く」
揺らいで滲む、水上の影。狐の姿は映らない。
こわい。
気がつくと、走り出していた。靴底が水面を叩くたび、水の雫が舞い上がる。無彩の空に跳ね上がる。浮かび出る。
「早く。早く」
掠れた声が追ってくる。藍の羽織が翻る。
「早く、名前を」
籠目を抜ける方法は、誰かの名前を当てること。ヒトの名残が消え去る前に。
私は狐を知っている。
「だめ。思い出せない」
知っているけど、わからない。
まるで、記憶を封じられたよう。知った名前が浮かばない。
「名前を」
足元の影が薄くなる。籠目の中に、引き込まれる。
狐きつねよ。あなたはだぁれ?
「暗きより」
掠れた声が、言葉を紡ぐ。落ち着いた声。よく知った声。全力で走る私を追っていても、息一つ乱れていない。
「暗き道にぞ 入りぬべき」
和歌。
上の句の、十七音節。その言葉。記憶の端に引っかかる。
彼がよく、口にしていた。
遥かに照らせ 山の葉の…。
影揺らぐ、水の上。私は足を止めた。
足を止めた私の周りを、狐が回り始めた。くるり、くるりと。円を描いて。
籠目籠目
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った…
「後ろの正面、だぁれ?」
落ち着いた声で、わらべ歌。歌った狐は、私の後ろで足を止めた。
「俺だよ」
すぐ後ろで、よく知った声がした。
「…竟?」
答えた瞬間、地面が消えた。気付いた時には水の中。
目の前で、藍の羽織が揺らめいている。水の中。足元から立ち上る無数の泡が、竟の姿を霞ませる。大きな手が、面長な狐の面を外した。
色白の顔が現れる。見知った顔が、現れる。
「竟。やっぱり、竟だ」
私の目の前に立つ竟は、その口元を緩ませた。どこか悲しげ。淋しい笑顔。
竟がいなくなったのは、冬の初めの頃だった。
どこにでもある、都市伝説。夕暮れ時の、神隠し。
ずっと捜していたんだよ。
「こんなとこにいたんだ。竟」
かごめかごめ。籠の中。
「一緒に帰ろ」
手を差し出す。けれど、竟は応えなかった。
「帰れない」
「何で…」
言った瞬間、竟の手が、私の伸ばした手を取った。
大きな手。冷たい手。温度の感じられない手。生きる力を、感じられない。
「捕らわれたから、帰れない」
籠の中。闇の中。走った水面。水鏡。そこには竟は映らなかった。狐の影は、映らなかった。
現のものではない証。この世のものではない証。
「栢、元気で。気が向いたら驚かせに行ってやるから」
竟は苦笑に近い笑顔を浮かべ、私に向かって手を振った。
「竟っ…」
叫んだ瞬間、足が浮いた。
足元から立ち上る泡に、水面に向かって押し上げられる。反対に、竟は水底に沈んでいった。
闇の底へと伸ばした手。指先は、今は届かなかった。
「いつか、どこかで会えるから」
死にゆくこととは、違うから。落ち着いた声。竟の声。
掠れた声が、言葉を伝えた。
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の葉の月
(終)