野生の死闘
「ブオォオォォ!」
明確な敵意を持って突進してくるイノシシ。
その巨体からは想像できない程の速度だ。
「ちょちょちょ、待ってや!」
間一髪、横っ飛びでその突進を避けた竜司。
標的を失ったイノシシはそのまま後方の一本の木に衝突する。
ドォン!
轟音を立ててぶつかられた木は、無残にもその幹をへし折られてしまった。
勢いが削がれたイノシシはそのまま反転し、もう一度竜司に向き直る。
「いやいや、こんなん出てくるとか思わへんやん、普通……」
誰に聞かせるともなしに、一人ボヤく。
しかし、野性は待ってくれない。
「ブオオォオォ!」
「がっつき過ぎやで、自分!」
もう一度狙いを定め、体当たりを仕掛けてきた。
巨体が一瞬にして加速するそのさまに、竜司の生物としての本能が逃走を強く命令する。
「クッ!」
さっきと全く同じ軌道と速度での単純な突撃。
一度それを目にしていたためか、心の準備は出来ていた。
多少の余裕を持ってその超重量タックルを避ける。
(攻撃自体は単純やけど、肝心の決め手に欠ける……)
相手は竜司の想像を軽く超えたモンスターイノシシ。
いくら仕留めた経験のある相手とはいえ、その時とは格が違う。
(あの時は鼻っ面思いっ切り蹴飛ばしたったけど……)
イノシシは成獣ともなれば、百キロを優に超すこともある。
そんな獣を相手に一発で蹴り殺したというのも過去の武勇伝。
今はそんなパワープレイの通じない化け物だ。
「これしかないか……!」
懐の匕首を抜き、待ち構える。
「来いやケダモンがぁ!」
震える自分を鼓舞するかのように、相手を挑発する。
それが通じたのかは分からないが、再度突進してくるイノシシ。
今まで以上の速度だ。
「っ、ここやあぁ!」
ドスッ!
逆手に構えた得物を深々とイノシシの額へと突き刺した。
手応えあり。
「これでど――」
「ブオォォオォオォォ!」
だが、残念ながら仕留められなかった。
それどころか、そのまま超重量の突進を真正面からモロに喰らってしまった。
「は?」
飛んだ。
跳んだ、ではない。まさに飛んだのだ。
ピンボールのように軽々と弾き飛ばされる。
周囲の景色が高速で通り過ぎていく。
何度かその体をバウンドさせ、ようやく停止した。
「カハッ、ヒュッヒュッー…………」
地面に全身を強かに打ちつけられた。
彼の体内では横隔膜が最大限までせり上がり、平常時の呼吸さえ儘ならなくさせている。
臓腑はグチャグチャに撹拌され、痛みは人体の許容外にまで達するほど。
「おぉぉ……痛ったあぁ……」
叫びたくなるほどの激痛に悶えるが、大声を出せるまでの空気を取り込むことすら困難である。
起き上がれるだけの余裕も残されていない。
(軽トラにどつかれた時でもこんな痛くはなかったで……)
「ブフウゥゥー……」
先ほどまでの猛々しい雰囲気はなくなり、悠然と竜司のいる方へと歩を進めるイノシシ。
イノシシは雑食だ。これだけの巨体なら、一晩でヒト一人くらいキレイに平らげるのも容易いことだろう。
額に刺さったままの匕首を気にかける素振りなど全くない。
(全然効いてへんのかい……ズルいわぁ……)
「スンスン、スン」
注意深く匂いを嗅ぐ。
イノシシからしてみれば争いは終わり、目の前の敵はただの物言わぬ餌として映っているのだろう。
その窮地から逃れられるだけの竜司の気力はもはや尽きていた。
「食う、んやったら……はようせえや…………」
その声に呼応したのかは分からないが、イノシシの大口が竜司の眼前にまで迫る。
あれほどの膂力を誇るのであれば、その強力なアゴは人間の頭蓋骨程度なら造作もなく噛み砕くに違いない。
竜司はただゆっくりと瞼を閉じた。
コツン
「ブオォ?」
コツン
「……何や?」
コツン
小石が落ちる音。
それはすぐ近くで聞こえる。
コツン
「に、兄ちゃん!」
「お前……あのボウズか……!?」
その声は、村に来て初めて出会ったあの少年のものだった。
焦点の合わない視界には、少し離れたところにその少年の輪郭がぼんやりとだけ確認できた。
「何で、こんなトコに……」
「兄ちゃんの声がして……来たら兄ちゃんが倒れてて……に、兄ちゃんを、兄ちゃんを、た、助けなきゃって……」
「そんなんええ、はよ逃げろ……!!」
どうやら、竜司がイノシシと闘っているときの声は村まで届いていたらしい。
少年はその声を辿ってここまで来たと言う。
はっきりとは視認出来ないが、今にも泣きだしそうな声をしていた。
竜司が食われる寸前に見つけ、どうにかしようとイノシシに投石して攻撃していたらしい。
無論、その程度のダメージが通じるような相手ではなかったのだが。
「ブオォォ……」
「ヒッ……!」
開いた口を戻し、巨躯を少年の方向へ転換する。
標的を少年へと変えたのだ。
イノシシにとってはこの上ない僥倖だろう。
今晩は得物が自ら飛び込んできてくれたのだから。それも、二匹。
「ブオォォオォオォォ!」
「うわあぁぁ!!」
高速の猛突進。
凄絶な痛みのイメージが、一瞬にして少年の脳内を一色に染めた。
せめて恐怖を和らげるために目を伏せて。
「待たんかいコラ…………」
しかし何も起こらない。
覚悟した痛みは一向に訪れなかった。
不思議に思い、ばっちりと閉じた目をゆっくり開く。
あわや衝突というところで、イノシシの巨体が止まっていたのだ。
いや、止められていたと言った方が正確か。
竜司が獣の尾を掴んでいたから。
「ガキに手ぇ出しとんちゃうぞコラァ!!」
不思議なくらいに力が湧いてくる。
明らかに人間の発揮できる出力を逸していた。
竜司はイノシシの体を軽々と振り回し、地面と平行に投げ飛ばす。
放られた巨体は木々をへし折りながら転がっていく。
「す、すげえ……」
「よくもまあやってくれたのう」
形勢逆転。
悠然と歩を進める竜司と手負いのイノシシ。
その図はさっきとは真逆の構図である。
しかし、野性の獣は手負いが一番危険なものだ。
「ブオオオォォオォォォオォォ!!」
怒りの咆哮。
そしてこれまでの速度をまた更に上回る突撃。
だが、当の標的は全く動じていなかった。
「チッ、うっさいのう」
一足の間合い。
おもむろに放つ一発の拳打。
技巧の欠片もないただのテレフォンパンチ。
「ブゴォッ!」
けれども、その拳は的確に獣の正中を打ち抜いた。
特有の突き出た鼻が見事に陥没する。
痛みのあまりその場に横たわるイノシシ。
「フゴッ! フゴォッ!」
「安心せえ、これで終いや」
血なまぐさい光景には似つかわしくない程、優しい声で語りかける。
目線を合わせるように膝を折る竜司。
イノシシの胸部に片手をついた。
「フンッ!」
「フゴオォォッ!」
肉体を切り裂き、貫く一突き。
イノシシの体内へとその手を侵入させた。
「どこや……?」
「フッ、フゴッ! フゴオォ!」
「暴れんなや!」
ジタバタともがくイノシシと、その体内で何かを探る竜司。
「えーっと……っ、これやっ!」
「フゴッ! フゴッ!」
「強かったで、お前」
ブチュッ
「フッ……ゴ………………」
心臓を直接握り潰され、息絶える。
抜き出したその手は血でぬらぬらと月明りを反射していた。
「堪忍やで……」
「すげえ……すげえや兄ちゃん!」
少年が嬉々として駆け寄ってきた。
どうやら、あのままずっと観戦していたらしい。
「おいおい、逃げろ言うたやろ」
「だってだって、なんか……こう……すごかったんだもん!」
言葉では言い表せないほどに熱に浮かされていたのだろう。
逃げることも忘れ、両者の戦いに見入っていたのだと言う。
「でも兄ちゃんのおかげでまたいっぱい野菜穫れるよ! ありがとな!」
「おう、それは良か、った……なあ…………」
ドサリ
糸が切れたように、竜司の体は崩れ落ちた。
方言補足
「どつかれた」→「殴られた」、今回の場合は「衝突された」