雪のぬくもり
約束
夜明けを前にして、村は白と黒の二色に色分けられていた。自分の視覚の色彩を奪われてしまったかのようだ。
黒い影となった家々に白煙る雨が静かに降り注いでいた。
雨音と自分達の息遣いしか聞こえてこない。あんなにも賑やかだった村が嘘のように静寂に包まれていた。悪趣味なオブジェのように黒色の塊が道に転がっている。それは焼け焦げた村人だった。焼け焦げた臭いが喉の奥でいがらむ。
村は壊滅していた。この惨状を前にしてシルアは声を発することができなかった。かつて自分もチャペルのナンバーとしてあまねく者に死を振りかざしてきた。死はありふれたものだった。だが、「堕天」を迎え、能力を失ったときから死とは遠ざかっていた。自分と近しい者が惨殺された現実を理解するのは難しかった。
瞬間、エフィが走り出していた。この惨劇をもたらした元凶を追ったのだ。シルアは分かっていた。エフィが帝都の派遣部隊を追うことを。そして、それを自分が止めようとしないことも。無力感に苛まれる。
シルアはチャペルの子だった。それもナンバー1を冠する者として恐怖の存在・・・恐怖そのものだった。誰もシルアに意見できなかった。誰もシルアを止めることが出来なかった。しかし、堕天を迎えたとき、シルアは全ての能力と権威を失った。
能力を失った者に対しチャペルは無慈悲だった。「殉教」・・・死の宣告を牧師から受けたとき、シルアには何の感情もわかなかった。
そうか、死ぬのか。自分がかつてチャペルの子として振りかざした死を、今度は自分が受ける。因果応報。死が怖くないと言えば嘘になる。でも、自分に生きる価値がなとすれば、この無慈悲な世界では死んでいるのと同じことだろう。自分が世界に向けた死を、自分は甘んじて受けようと思う。そう、それが正しいのだ。無力感と諦めがシルアを包み込んだ。
「殉教」の儀式が執り行われる前日、あの子がシルアの前に現れた。チャペルのナンバー6・・・エフィだ。シルアの弟・・・血の繋がりは無い。エフィの姉はシルアが暗殺した。チャペルの中ではありふれた死の一つだった。能力者同士が殺し合う。それは能力者の力を高める儀式の一つだった。ナンバーを冠するため、共にチャペルで育った家族と殺し合う。エフィの姉もその内の一人だった。
シルアの能力「現象変化」は世界の法則を書き換える。「エフィの姉を殺した女」を「エフィを助けるシルアという姉」と変換した。エフィはそれを信じた。シルアもそれを演じた。何故、そんなことをしたのか。戯れに近かったと思う。もし、エフィが姉の敵を取りにシルアを暗殺しようとしても、それは決して叶わなかったろう。腕力、暗殺の技術ならシルアを超える者はいたが、能力でいえばシルアを超える者は一人もいなかった。ナンバー達の教師たる牧師でさえも。
ナイフで頸動脈を掻き切ろうと、弓矢で心臓を貫こうと、毒薬を喉に流そうとも。その現象を書き換えられる。死の寸前、シルアは世界の法則を歪めてしまう。それは神の御業かもしれなかった。そう、シルアは世界を支配していた。その力が強大過ぎたのかもしれない。十九歳の誕生日を迎える前に能力を失った・・・「堕天」した。
エフィは街道を走っていた。冷たい雨が髪を濡らし、白い息が口から漏れる。
村人達の顔が思い浮かぶ。彼らに一体何の罪があったのだろうか。
小さな村。信仰により自分達二人を救ってくれた。パンをくれた。寝る場所を提供してくれた。辺境をさまよう二人を理由も聞かず、迎え入れてくれた。自分達は貰ってばかりだった。その恩を返すことはできない、もう二度と。
村を一時離れるよう言われた。
ここは獣神魔術を信仰する村だった。
「魔導」により文明を築いた帝都ヴァルハド。
「能力」により民を導く教国セフィロート。
その二大大国に属さず、「信仰」により俗世と離れた暮らしを送る獣神魔術同盟。二人がたどり着いたのは、辺境に偏在する同盟の村の一つだった。
村は帝都ヴァルハラの派遣部隊の侵攻を受けていた。帝都ヴァルハラは教国セフィロートとの大戦を繰り返しながら、辺境への侵攻を進めていた。辺境には魔導の源「血の泉」が出現する。その力を利用できれば、能力者達との戦いが有利となる。村に「血の泉」の兆候を魔導器具が探知した。魔道への「改宗」を迫り、辺境を併呑していたが、獣神連盟も抗戦を続けていた。村の獣神魔術を使う獣神官が何度と無く侵攻を防いできた。村人は豊かな暮らしより、信仰に殉じていた。派遣部隊からの甘言と恫喝が繰り返されていた。そんな中、エフィとシルアの二人が村にたどり着いた。
初めは、帝都派遣部隊のスパイかと疑われたが、村の長老兼年老いた巫女がその疑惑を打ち消してくれた。巫女は二人を受け入れた。村に暮らし始めて、一ヶ月が過ぎようとした頃、巫女は言った。
「この村で暮らさないか。信仰に身を捧げないか。」
それは耳を疑うような話だった。第十次神落戦争が終わり、世界は貧困と荒廃に覆われていた。食料、資源の余裕はどの国、街にも無かった。それなのに身元も素性も分からない二人が村で暮らせる。「能力者」を伏せていればいい。二人の心は揺れた。
老巫女は二人の素性を深く詮索しなかった。ただ一言、
「村を数日離れて考えてみてくれ。もし、決心したならば獣神フェンレラはそなた達を迎え入れよう。」
と告げた。巫女には一抹の不安があった。数日前、帝都派遣部隊から「改宗」を迫る通告があったのだ。村の獣神魔術の使い手、三人の獣神官の力により、村は何度と無く派遣部隊を撃退してきた。今回も侵攻を阻止できる。村人はそう思っていた。だが、その派遣部隊の中に国家魔導士が派遣されていた。その悪魔に感づいたのは巫女一人だけだった。
「獣神の信仰を持つと決めたならばまた、この村に戻ってきなさい。」
巫女は二人に路銀と食料を与えた。獣神の信仰を持たない無関係の者が戦闘に巻き込まれることを巫女は受け入れられなかったのだろう。二人は迷いつつ、村を後にした。その日の夜、二人は轟音と村の方角を赤く染める夜空に戦慄した。巫女の予感は当たった。
帝都派遣部隊は闇の中から現れた。帝都の三つの頭を持つ蛇を模した旗を翻し、村の西方から「改宗」を通告してきた。宣戦布告に対し、三人の獣神官が前に出た。
帝都派遣部隊の魔導銃の一斉射撃を獣神官が作り出した障壁が跳ね返した。獣神官は無用な戦闘を好まない。戦闘を中止するよう大音声で告げたが、派遣部隊は銃撃を止めなかった。獣神官は拳を固めた。獣神官の拳は派遣部隊の魔導楯、重装備を紙屑のように蹴散らした。二百名近い兵士が三人の獣神官に浮き足立った。いつもの小競り合いかと巫女は胸を撫で下ろした。そのとき、派遣部隊から赤色のマントを羽織った一人の男が進み出た。男は魔導防具や魔導兵器も身に付けていなかった。獣神官と比べたら子供にしか見えない優男だが、その持つ力・・・魔力は桁違いであった。薄らと浮かべた笑みは友好的なものではなかった。これから起きる殺戮に酔いしれていたのかもしれない。
獣神官は「信仰」の力を込めた拳を魔導士に繰り出した。岩石をも破壊するその拳を魔導士の華奢な右手が止めた。いや、正確には魔導士の右手に生み出された「魔力」が、獣神官の拳をはじき返したのだ。数歩退く獣神官に魔導士は「魔力」を解放した。
魔導士の赤色のマントに獣神官が包まれたかと思った。獣神官の苦痛の叫びが上がるより早く、その巨体が赤色の炎に包まれた。転げ回る獣神官を覆う炎を消火しようと村人が駆け寄った。水をかけようとも、布で打ち消そうとも、炎は弱まらなかった。
火の粉が村人の手に触れる。まるで生き物のように炎が村人の体に乗り移った。悲鳴を上げて駆け出した拍子に別の村人にぶつかった。その一瞬の接触が次の犠牲者を生んだ。
エフィや「力」を持つ者は見えていただろう。魔導士の背中に羽が広がっているのを。それは魔導士の「力」の証。魔導士が力を行使するとき、その背中に翼や羽が具現する。魔力の強さ、系統によってその形は様々だ。今、派遣魔導士の背中にはトンボのような虹色に光る網目状の羽が揺らめいていた。
その大きさ、禍々しさに村の巫女は撤退を決断した。しかし不幸にも村人の信仰がそれを邪魔した。前線に立つ獣神官を見捨てることができなかった。村の男達は農具や木の棒を手に駆け寄った。魔導士は両手を差し出し、「魔力」を解放した。対象を焼け尽くすまで消えない「不浄の炎」が村人を襲った。駆け寄った村人を包み込む猛烈な火柱が村を赤く染上げた。
「逃げるのじゃ。」
年老いた巫女の小さな体からとは思えない大声が村人を動かした。女子供を巫女が村外れまで導いた。村の裏手に広がる森まで逃げれば敵の目を拡散できる。その一縷の望みは銀色の鈍器が貫いた。やせ細った巫女の体が突如、闇夜に浮かび上がった。村の裏手に潜伏していた兵士の長槍が巫女の腹に突き刺さっていた。女子供の口から悲痛な悲鳴が発せられる。そこからは狂気の旋律が醸し出す悪魔の宴となった。何かに取り憑かれたように兵士達は無抵抗な村人を殺戮した。
闇夜に咲く赤い花弁。そこから臭い立つ血煙。何かもが狂っていた。何もかもが不条理だった。この夜の惨劇をひた隠そうとしていた漆黒の闇の中にぽつりと炎が灯った。その点々とした赤い飛沫は惹かれ合うに集まり、ついには村を覆った。魔導士の作り出した炎が家を崩し、人々を消し炭と化し、生き物の痕跡を焼き尽した。この世界から静かに村一つを消し去った。
エフィは闇の中を走っていた。漆黒の中に赤色の残光が手掛かりとなった。魔導士、能力者、獣神官達が「力」を行使したとき、その痕跡がこの世界に残る。しかし、それは上位者にしか探知できない微かなものであった。
エフィは焦土と化した村にその跡を見つけた。帝都ヴァルハドの派遣魔導士・・・上位者の仕業。そうでなくてはあの優しい三人の獣神官が負けることがあるだろうか。
腹を空かしたエフィとシルアにパンを分け与えてくれた獣獅官バーク。
ベッドをあけ、自分は納屋で寝た獣馬官ラルー。
村に戻って来てくれと温かい眼差しを送ってくれた獣鷲官ファルダ。
三人の遺体は村の中央にあった。初めそれは黒い石像ににしか見えなかった。悲鳴が上がる前にエフィはシルアの目を覆った。見てはいけない。人間の所業とは思えない光景がそこにあった。巫女の姿もあった。獣神官の前に首だけとなって無造作に転がっていた。その体からは赤色の燐光が漂っていた。「魔力」の残り香がエフィの瞳には映っていた。
エフィの肩から鞄が落ちた。鞄の中から何の考えも無く、二つの銀色の塊・・・短剣を引き抜いた。それを手にしたとき、もう駆け出していた。シルアの「駄目・・・」という漏れ出た声を耳にしたが、エフィの意識には届かなかった。封印されていた感情・・・殺意がエフィを飲み込んだ。あのチャペルで刻み込まれた感情、技術、そして「能力」が解放されていく。
帝都ヴァルハドの派遣部隊は村から5キロ程離れた街に駐留していた。もともとはこの街も帝都、教国、同盟のも属さない街であったが、数年前、帝都の「改宗」によりその自治を委ねていた。その街の中央に総指令本部の建物があった。ヴァルハドの紋章をあしらった国旗が揺れた建物の中では祝杯が上げられていた。
「さすが派遣魔導士殿だ。我々が手を焼いていたあの村を一瞬で一掃してしまった。」
「そう、魔導士殿の魔力で我々部隊の武器も増強され、獣神官達異教の輩を殲滅できた。」
「これでやっと、あの村に眠る「血の泉」を採掘でき、帝都に献上することができます。」
この街の指令官達があの赤いマントの男、派遣魔導士を賞賛していた。おべっか以上に恐怖の表情がうかがえた。帝都は、辺境の支配・・・「改宗」でその勢力を広げていたが、時として教国や連盟と交戦することがある。教国の「能力者」や連盟の「獣神官」がいるとき、帝都は「魔導士」を派遣する。派遣魔導士一人の力は地方都市の軍隊に匹敵するといわれる。派遣魔導士の機嫌を損ねれば、どんな扱い受けることか。「魔力」を持たない司令官など家畜並の存在と見なされ、帝都に報告もせず、「断罪」という死刑に処せられるだろう。派遣魔導士・・・サリールは何もこたえず、うっすらと笑みを浮かべるだけだった。圧倒的な破壊活動の余韻に酔いしれていたのかもしれない。ふいにサリールは窓の外に視線を送った。
感じる。何かが忍び寄って来ている。それは「力」を持つものの存在。これは「能力者」の気配だ。
高さ3メートルの壁が街を囲っていた。街への入り口は南北に一カ所ずつあり、その南の街門の両脇には二人の警備兵が立っていた。その二人の警備兵が街門に近付く者に気付いた。一見して少年しか見えない、その男は真っ直ぐにこちらに向かっていた。旅の者か? いや、それにしては身なりが軽装だ。両手に何か鈍い光る物を持っている。それが意思を持った瞳のごとく煌めいた。それを認識したのが警備兵の最期だった。男の振りかぶる動作すら認められず、警備兵の眉間に短剣が突き刺さった。
相方が仰向けに倒れた。悪のりした夢を見ているかのようだった。背後では勝利に酔いしれる喧噪がひっそりと感じられる。深夜まで続いた宴はまだ終わりそうにない。眼前には冷厳たる死が迫っていた。男は足音も立てず近付き、警備兵の眉間に突立った短剣に手をかけた。引き抜くと同時に、男はもう一人の警備兵の首を横一閃に薙いだ。
男・・・エフィの頬に赤い飛沫が飛んだ。それを拭おうともせず、エフィは街門を潜った。赤色の燐光が街の中央へ続いているのが見える。獲物はそこにいる。
異能なる力を持つ者ならば見えるであろうか。エフィの肩口に昆虫のような長い二本の足が突立っていた。今にも這い上がってきそうだが、その本体はエフィの背中に隠れていた。能力者の証・・・「発現」。
エフィの視線を受け止めるように派遣魔導士は窓の外に目を向けた。魔導士が身震いするように胸を反らすとその背中に虹色に光るトンボの翼が生まれた。
「侵入者だ。」
サリールが告げた。それを冗談として一笑に付すことはできなかった。「翼」を持つ者の力の強大は計り知れない。その魔導士が何かを異変を感じたのだ。司令部幹部が慌てて部屋を出て行った。
街の闇の中をエフィが歩いていく。緊急警報を知らせるサイレンが街中に鳴り響いていた。隣村を壊滅したその夜、宴の最中のサイレンは訓練にしか思えないだろう。だが、中央道路を歩くエフィの背後に無造作に打ち捨てられた兵士の遺体を見て、それが訓練でないことが分かった。半紙に黒い墨が広がるように街を禍々しさが蝕み始めた。
闇の中から兵士達の首を切り裂いていく。反撃しようにも繰り出される槍や剣は暗闇を貫くだけだった。エフィの短剣が鈍く光る度、兵士は赤い花弁を散り乱し、大地に倒れていった。
死の数が膨れ上がるにつれ、エフィの心にも高揚感が溢れてくる。それは止めようの無い欲求であった。それと同時にエフィの背中から昆虫らしきものが這い出ようとしていた。一見、それは長い足のようだが、それは金属でできていた。美術品を思わせる精巧な昆虫の足が一本また一本とエフィの肩で蠢いていた。その本体はまだ姿を現していない。エフィの背中にひっそりと隠れている。だが、その足の大きさからすれば、それはかなりの巨大な生き物だろう。
エフィの暗殺術も徐々に変化が見られた。暗殺とは隠密を旨とし、静と暗の中で最大効果を発揮する。しかし、今、エフィは姿を隠そうともせず、悠然と通りを歩いていた。警備兵達にエフィの姿を視認させた。敵は一人。それも屈強な戦士では無く、貧相な少年。安堵が嘲りに変わり、兵士達はエフィを包囲し始めた。
兵士達が一斉に矢を放った。その矢がエフィに達する寸前、宙に縫い付けられた。見えない糸に絡めとられていた。エフィが腕を振る。その矢が世の法則を無視して、射出方向へ返される。矢を放った警備兵の眉間、喉、胸に「ストンッ」と小気味の良い音と共に吸い寄せられた。
警備兵の一軍が槍を突き出した。エフィは跳躍した。そしてその場に停止した。エフィの爪先は細い糸を踏んでいた。その糸の上を駆け抜ける。警備兵の背後に飛び降り、短剣を一閃させた。警備兵の首に赤い花が咲く。
人間離れしたエフィの動きに警備兵が浮き足立った。逃げ出そうとした警備兵の足を糸が絡んだ。瞬間、警備兵の体が宙に吊り上げられた。上下逆さになった警備兵の首をエフィは無造作に薙いだ。
それは蜘蛛の巣に引っかかった哀れな虫達の姿のようであった。エフィの背中から奇妙な生き物がせり出してきた。果たして、それを生き物と表現してよいか。金属でできた蜘蛛であった。その八本の足は全て鎌のような鋭利な刃物であった。蜘蛛には似つかわしくない大きな顎が「キチキチキチ」と噛み音を立てていた。
能力者・・・この世界の法則を捩じ曲げる者。魔導士に唯一対抗できる存在だった。帝都に封印されている始祖オールディーヌを女神と崇め、この世界からの解放を訴えている。能力者はチャペルという組織に編成され、教国セフィロートの最大の武力部隊だった。
能力者の特徴と言えば、この異形なる物を憑依させることだろう。「能力」を発現させるとき、体に異形なる「虫」を宿らせ、その未知なる力を借りる。魔導士がその背中に翼を生やし、天使と崇められるのに対し、能力者はその禍々しさに堕天使と恐れられていた。
魔導士サリールはエフィの背中に潜む蜘蛛の姿に驚きと共に喜びを感じていた。能力者を抹殺することができれば、中央への更なる評価につながる。
街の司令塔からサリールが飛んだ。魔力により優雅に宙を滑空し、通りに降り立った。
「魔導士か。」
気配、魔力、何よりその背中で煌めく翼にエフィはサリールの正体を見極めていた。
「何故、こんな所に能力者がいる?」
サリールの質問にエフィはこたえない。無感情とも言える冷たい視線をサリールに向けているだけだった。この魔導士が村を殲滅させたのか。あの優しい村人達を皆殺しにした。それだけ分かれば、あとはどうでも良かった。
「能力者がここにいる理由はどうでもいい。異端者の村一つとおまえの首を献上すれば、中央の評価も上がるだろう。お前には感謝する、だから死ね。」
サリールは言い終わると同時に右手を差し出した。「力」が解放される。右手に生まれた光は赤く変色し、炎となり、更に剣の形となって放出された。炎の剣はエフィーゼの足下に突き刺さった。瞬間、地面が爆発し、熱と爆圧が撒き散らされた。逃げ遅れた兵士達が巻き込まれ、いとも簡単に、兵士の体が四散した。
エフィーゼは背後にあった建物の屋上にいた。右手に握られた糸を操り、十メートルの高さを一瞬にして移動していた。爆炎と地響きが渦巻く地上に立つサリールを見つめていた。
サリールの背中に生えた翼が広がり、虹色に彩られた。更なる力の解放だ。村一つ壊滅した魔導士の力は強大であった。サリールの組み合わせた両手の前に、剣の形をした炎が八本生まれた。それがエフィーゼに飛来した。
『ドンッ、ドンッ ドンッ』
爆音と共に建物に穴があいた。レンガで組まれた壁が紙屑のように吹き飛んだ。
屋上にエフィーゼの姿は無い。
「隠れても無駄だ。」
サリールは両手を頭上にかかげた。三つの赤色の球体が空に飛翔した。
「行け。」
両手を振り下ろすと球体は意思を持ったかのように建物の裏側に降り注いだ。地響きが立て続けに起きる。
これが魔導士の力。物理法則を無視し、力を無尽蔵に生み出す。この世界に思うがままに干渉する。派遣魔導士の力は中央国家魔導士から見れば中の下のクラスだ。国家最上位、六元魔導士となれば一国の軍隊に匹敵する。
地方の街や村一つをつぶすことなど派遣魔導士にとっては苦も無い作業だった。地水火風の力の中でも炎の破壊力は群を抜いていた。
街壁、建物が爆発によって崩れ落ち、逃げ遅れた兵士は炎に包まれた。炎が街を飲み込み、陽炎が街樹を覆っていた。
サリールは陽炎の上を翼をはためかせて、街を見下ろしていた。陶酔感が空中に溢れている。『力』を持つ者は、その力に酔いしれやすい。力の制御ができず、破壊に飲み込まれてしまう。
こんな辺境の街一つ消滅したところで誰も気にも留めないだろう。中央への報告より、今はあの逃げ惑う虫・・・能力者の捕縛の方が先だ。辺境をさまよう能力者など力はたかが知れている。能力者を一人抹殺すれば、派遣魔導士の任も解かれ、国家魔導士に配属されるかもしれない。栄誉と富が約束される。あの虫を生け捕りにしたいが、どうにもあの能力者はすばしっこい。こうなれば四肢を吹き飛ばし、半死でも構わない。
「面倒だ。」
サリールは両手を頭上に掲げた。『ファイヤースノー。』力ある言葉を結んだ。サリールの頭上に赤黒い靄が生まれ、街を覆い始めた。その靄から雪のような結晶が降り注いだ。雪と違うのは、それば赤黒い色だった。一つ一つの結晶は小さくとも、その破壊力は強烈だった。降り注ぐ赤い雪に触れた兵士は燃え上がり、無機物の建物は熱で燻された。街の人間も兵士にも容赦の無い攻撃だった。サリールにとって魔力を持たない人間は、人として認識されていなかった。家畜が人の犠牲になることに何の疑問を持たない考えに似ていた。
「全て燃え尽きろ。」
サリールはとどめの一撃を解放しようと、振り上げた右手を振り下ろそうとした。その瞬間、右手に微かな痛みを感じた。右腕に一筋の血が滲んでいた。
細い糸が絡まっていた。鈍く光る糸はサリールの腕から地上に伸びていた。その先に、いつの間に現れたか、エフィが佇んでいた。感情の無い暗い眼差しを向けていた。
「何だ、こんなもの。」
サリールは無造作にその糸を振りほどこうと右腕を振り払った。瞬間、いともあっさりと右腕は切断された。
「うわーーー。」
腕の断面から赤い血が溢れ、サリールの口から悲鳴が漏れた。サリールは憎悪と困惑の入り交じった視線を地上にいるエフィに向けた。
恐怖にサリールは背筋に寒気を感じた。恐怖を感じたのはいつのころだろうか。そう、あれは五年前の第十次神落戦争の時だ。六元魔導士とチャペルのナンバーの戦闘が各地で繰り広げられた。その戦争を間近で目の当たりにしたとき、力の差に恐怖で身動き一つできなかった。あのときの戦慄のように体が寒くなった。
「ひっ」
短い悲鳴と共にサリールは上空に高く逃げようとした。しかし、そこは巣の中だった。サリールの羽が糸に絡まった。サリールの視界に無数の糸が広がっていた。さながら蜘蛛の巣に引っ掛かった憐れなトンボのようであった。サリールがもがくほど美しい羽が散乱していく。痛みは無くとも恐怖が全身を凍り付かせる。
何だ、この力は。おかしいだろう。辺境の能力者ごときに自分が負けるはずが無い。打開策を見出そうとするサリールの目がエフィの手に釘付けになった。糸を操るエフィの右手の甲にイバラの蔦で紡がれたような紋様が浮かんでいた。『?』と読める。それは噂に聞いたことのあるナンバーの証だった。
サリールは混乱した。意味が分からない、いや、理解したくもなかった。六元魔導士に唯一対抗できる力を持つ者。教国の武力組織の最上に君臨するチャペル。そこに属する十三人の能力者を『ナンバー』と称する。その四番目の堕天使が、何故目の前にいる。
サリールは理解した。自分など初めから敵う相手ではなかった。自分は弄ばれていた。暗殺を旨とする能力者は一瞬で勝負をつける。それなのに目の前の能力者はサリールに力を出し尽くさせていた。その力は能力者には全く届いていなかった。
エフィは軽く目を閉じた。サリールの頭上から何かが降って来た。それは金属の蜘蛛だった。その衝撃に糸が解け、サリールは蜘蛛と共に地上に叩き落された。地上に落ちたサリールの手足はあらぬ方向に曲がり、一部は破断していた。だが、執拗なまでに蜘蛛はサリールの背中に覆い被さっていた。蜘蛛が求めていたのはサリールの羽だった。蜘蛛の口が『バキッバキッバキッ』と音を立てながら貪り食らう。
薄れゆくサリールの視界に影が差し込む。能力者はやはり感情の無い瞳でサリールを見下ろしていた。その手に無骨な剣が握られていた。
「がっ がっ がっ」
許しを請おうとするサリールの言葉は声にならなかった。そのサリールの首筋にエフィは無造作に剣を深々と突き刺した。しばらくの間、痙攣していたさリールの体が動きを止め、死を迎えた。サリールの背中の羽も消失した。羽を食い尽せなかった蜘蛛は恨みがましそうにエフィに視線を向けたが、サリールの体から離れ、エフィの背に戻った。八本の足を毛繕いするように舐め回す。
サリールの死と共に街を覆っていた炎も消えた。街に戻った静寂の中に押し殺した息遣いが聞こえる。恐怖と安堵の入り交じった視線をエフィは感じていた。生き残った兵士達の視線。
「助かった。」
一人の兵士が吐息混じりに呟いた。魔導士は自分達もろともこの街を破壊しようとした。敵か味方か分からないが、あの能力者は魔導士を倒してくれた。目の前で繰り広げられた惨劇に心が麻痺していたのか、数名の兵士がエフィに駆け寄った。
「ありがとう。」
兵士達はエフィの跪いた。敵を示さないよう引き攣った笑顔を浮かべていた。エフィは視線を下ろし、一瞬の間を置いて、剣を横に振るった。街を救った英雄に助命を請おうとしていた兵士の体が硬直した。エフィは更に剣を振るった。頸動脈を刈られた兵士達が前のめりに倒れていく。
「助けてくれ。」
「お願いだ。命だけは。」
「何でもする。だから助けてくれ。」
静かな夜に悲痛な叫びがこだました。その声に能力者は手を止めた。能力者とはいえ人間だ。言葉が分かれば意思疎通できる。必死な思い・・・助命は届くはず。兵士達は叫び続けた。
「家族がいるんだ。」
一人の兵士の声にエフィはビクリッと体を震わせた。
「そうだ、俺にも妻や子供がいる。」
その声に視線を向ける。エフィの両手から剣が抜け落ちた。思いは届いたか。エフィはゆっくりと歩み寄った。許されたのか。手を伸ばし、手を握ろうとした兵士の首に細い糸が巻き付いた。
「がふっ。」
兵士の気道は一気に塞がれた。そのまま兵士の体は宙に飛んだ。
「あの村人達も許しを求めただろう。」
首を吊られた兵士が宙でもがいていた。悪趣味な芸術作品のように一体、更にまた一体加わっていく。
「あの罪の無い村人達をお前達は殺した。」
エフィの冷たい声は兵士達の耳に届いていただろうか。逃げ出そうとした走り出した兵士達が崩れ落ちた。足が膝の辺りから無くなっていた。蜘蛛の巣に引っ掛かった兵士の足は奇麗に痛みも感じさせず切断されていた。
「お前達の許しはあの人達に届くのか。」
崩れ落ちた兵士達の体が宙に飛んだ。首を吊られ、もがき苦しむ兵士をエフィは見向きもしなかった。それを慈しむように見ているのは金属の蜘蛛だった。糸を張り巡らせた巣の中に獲物が増えていく。それを嬉々とするように蜘蛛のあぎとがカチカチと夜の静寂に響いた。
「わーーーーーーー。」
街に残っていた人間達が我先にと街門へ走り出した。もうこの街は終わりだ。魔導士、能力者が現れた時点でこの街は終焉を迎えていたのだろう。街門を通り抜けようとした兵士達の首がポトリッと落ち、その体は前のめりに倒れた。血液を滴らせた糸が街門の入り口に張られていた。
何という鋭利さか。人間一人を軽々と吊るす強靭さと骨をも両断する鋭利さを兼ね備えている。これが能力者の持つ力の一端だ。
「くそー。」
ヤケクソになった兵士達はおのおのの武器を糸へ振り下ろした。剣や斧が弾き返された。あるいは鋼でできた武器が粘土のごとく切り落とされた。
兵士達は他の門、もしくは外壁へ駆け寄ろうとしたが、そこにも糸が鈍い光を放っていた。糸が街を包囲していることに気付き、兵士達は絶望に叩き落された。乾いた金属音が街路に響いた。兵士達が武器を地面に投げ捨てた。もう、残された道は一つしかない。兵士達は街の中心地へ駆け戻った。そこには無慈悲な御遣いが立っていた。
「お、お願いだ。助けてくれ。殺さないでくれ。」
五百名近くいた兵士は戦闘に巻き込まれ、蜘蛛の巣の餌食となり、街の中心地へやって来られたのは数十名しかいなかった。能力者は俯いていた。表情は読み取れない。兵士達は許しを請おうと跪いた。差し出した指先がポトリッと落ちた。その許しを拒絶するように糸が張ってあった。細い糸だが、分厚い壁のようだった。
「助けてくれ。許してくれ。」
狂ったように叫ぶ兵士達。なおも迫る糸。それは背後にもあった。
「一生をかけて罪を償う。」
「その許しはあの村人達に届くのか。焼かれて死んでいった子供達にも同じことが言えるのか。」
静かにエフィは問う。誰に向けられたものかは分からない。半狂乱となった兵士達にエフィは言葉を噛み殺すようにして言った。
「・・・死をもって償え。」
エフィは右手を堅く握った。手の平から血が滲ほどに。糸が兵士達の首を切り落とした。そして生存者は誰もいなくなった。白煙る夜空に金属の蜘蛛がキバを鳴らしていた。この世の矛盾を嘲笑うように。
約束を破ってしまった。もう二度と暗殺はしないとチャペルを抜け出すときたかったのだ。暗殺を捨て、人として生きていく。
シルアは能力を失った。生きている意味は無い、存在価値が無いと言った。エフィはただ願った。自分と一緒に生きてくれと。初めて愛した人だった。出会ったとき、シルアは気高き暗殺者として、ナンバーを冠していた。ナンバーを受ける前の自分を救ってくれた。それは単なる思いつき、出来心だと言った。それでも良かった。奴隷だった自分はチャペルに買われ、消耗品のように暗殺者としてふるいに掛けられた。昨日まで友だった者達を殺していく。心が壊れそうだった。こんな生に何の意味があるのだろうか。能力者として蜘蛛が具現したとき、暗殺の螺旋から抜け出せなくなった。そんなときシルアに命を救われた。そして決めた。この人の為に生きようと。シルアは孤独だった。ナンバー?を冠し、魔導士達と死闘を繰り広げていた。
六元魔導士とナンバー達の戦争を目の当たりにした。凍て付いていた思われた心が恐怖に震えた。その数々の戦争で、魔導士もナンバー達も数を減らし、国が幾つも滅んだ。その最前線でシルアは戦い続けた、孤独に。
第十次神落戦争が終わったとき、突如シルアが堕天した。チャペルの裁定牧師は言った、「我が姫のもと、天に召そう」と。それは能力者達が崇める始祖オールディーヌに身を捧げる・・・死ぬことを意味していた。今なら分かる。能力者がその力を失い、野に放たれれば、帝国の格好の餌食となる。捕獲されればチャペルの内情が明るみとなる。組織機構、ナンバーの能力が判明すれば、チャペルは弱体化する。「天に召される」。その響きは心地良かった。殉教という始祖に仕えることだけを信じて、歴代のナンバーも闇に消えていった。他のメンバーが犠牲になるなら気にも留めていなかっただろう。愛する者がその運命を辿るなら話は違う。
「ここから抜け出そう。」
天高い幽閉所でエフィはシルアに告げた。
「無謀な話ね。」
チャペルからの逃走はナンバー達からの追撃を受ける。組織全てを敵に回すことは光の見えない、終わりの無い逃亡だった。
幽閉所の鉄格子から手をエフィは手を差し伸べた。握ってくれ、この手を。君が掴んでくれれば自分は何もいらない。シルアは俯いていた。エフィはナンバー?を授けられていた。安定した生活を手に入れた。あの奴隷のような生活から聖職者の地位を捨てられようか。それを奪う権利を私には無いとシルアは思った。
『カラーーンツ』
幽閉上に響く乾いた金属音。シルアが目を上げた先にエフィはいた。二人の前にあった鉄格子が無くなっていた。もし、シルアの能力が残っていたならエフィの背後から放たれた糸が見えていただろう。刃物より鋭い糸が鉄格子を切断した。エフィの背から金属の蜘蛛が躍りだした。
幽閉所に設置された警備システムがけたたましい警報音を鳴り立てた。数秒もしない内に警衛兵が集まってくる。この状況を見れば、弁解は許されず、二人とも処刑だろう。
私は・・・。逡巡と決断に揺れ動くシルアの手をエフィが引き上げた。堅く手を握りしめ、「行くよ。」とエフィは告げた。
それからの旅は地獄だった。何度と無く死んだ方がましだと思った。休まる時間は無く、追っ手の襲撃は連日のように続いた。日に日に増す能力者達の実力。最も殺害能力の長けたナンバー5が出現したとき、二人は死を覚悟した。断罪の丘での死闘とナンバー5の暴走。もし第十次神落戦争・・・始祖オールディーヌの崩落が無ければ旅は終わっていただろう。崇める女神いなくなり教国セフィロートは存続していたがチャペルは崩壊した。魔導士の帝国が勝利を収めたが、あまりにも犠牲は大きかった。世界の四分の一が手の付けられぬ土地となった。貧困、略奪、無秩序が世界を覆った。二人は死を偽装し、世界の片隅に消えた。
それでも安寧の日は迎えられなかった。暗殺だけに特化した子供には生きる術が無かった。能力を使い異端システムに感知されれば魔導士に捕縛される。能力者が生存していることが発覚すれば間違いなく教国の追撃が始まる。使いたくても使えぬ能力のジレンマの日々にエフィーゼも疲弊した。
そしてあの日もこんな冷たい雨が降っていた。
「姉さん、大丈夫?」
歩くのさえやっとというシルアにエフィは振り返って言った。もう二日も水しか口にしていない。疲労と空腹で思考さえ覚束なかった。
「・・・大丈夫よ。」
あてどの無い旅だった。街から街、村から村へ。辺境を彷徨い続けた。二人は姉弟として旅を続けていた。身寄りの無い少年少女は目立った。親類を頼りに帝国を目指している。そんな嘘を信じる者はいなかったが、二人を構う余裕が人々には無かった。戦争の混乱と物資の困窮が人々の心を荒廃させた。二人は迫害と排斥の扱いを受け、一カ所にとどまることを許されなかった。
優しい子だ。私など足手まといでしかない。かつて一度だけこの子を助けた。エフィがナンバーになる前だ。それを恩義に感じているか分からない。あの日以降、この子は自分を慕っている。だが、それももう限界だろう。ナンバーと戦うより今のこの旅の方が厳しい。空腹と寒さがこれほど厳しいものだとは思わなかった。もう一日でも続けばこの子も音を上げるだろうか。自分を見捨て、チャペルに帰還するかもしれない。それもいいだろう。「堕天」という絶望を味わい、束の間の光を見た。その光が儚く、小さかっただけだ。光はいつしか闇にのまれるものだ。
手に暖かみを感じる。いつの間にか立ち止まっていたらしい。自分の手をエフィが握っていた。顔を上げるとエフィが弱々しい笑みを浮かべていた。ぎこちない。安心させようとする感情がそこにはあった。
能力を失い初めて人の優しさに寄り添うことができた。能力者として暗殺に溺れていたのだろう。私にとって人は殺し、殺される存在でしかなかった。そこには何の感情はなかった。感情を自分は持っていないと自分は思っていたが、私は感情を押し殺していたのだろう。人を殺す罪悪感に私は耐えられなかっただけだ。時として触れる人の優しさや助けに狂おしくなるときがあった。いつ果てるとも無い旅。諦念の私の生き様。最後にそれが分かっただけでも上出来ではないか。
鉛のように重たい足を持ち上げ、一歩を踏み出そうとした。エフィの手がこわばった。シルアの手に力を込める。エフィの視線がシルアの頭上を越え、自分達が歩いて来た方を向いていた。
敵襲? 何かがこちらに向かってくる気配を感じた。シルアは堕天したときから能力も魔力も感知できなくなっていた。シルアが読み取れるのは物や人の気配くらいだ。エフィの顔に緊張がないことことからそれが敵襲でないことが分かった。
数秒後、道の先に黒い影が生まれた。自動旅走馬車だった。規則正しい蹄の音を立て、四頭馬が豪奢な馬車を引いていた。豪奢な作りから帝国の貴族のものだろう。こんな辺境を旅しているなど物珍しい。馬車は二人に気付くこともなく通り過ぎって行った。一瞬、馬車に取り付けられた窓から中が見えた。品の良さそうな家族・・・両親と二人の子供が笑い合っていた。暖房設備が完備され、防寒着も身に着けていない。そこには自分達とは無縁の世界が広がっていた。
敵襲でないことが分かった安堵と空腹でシルアは腰を下ろしてしまった。あの小さな世界では飢えというものは存在しないのだろう。
「姉さん、ちょっと待ってて。」
腰を下ろした所が丁度木の根元だった。背中を木に預けると疲労と眠気で意識が遠のきそうになった。何故、エフィがここを離れるのか気にも留めなかった。俯いた頭に手を置かれたとき、シルアは引きずりこまれるようにして眠りに落ちていた。夢を見たかもしれない。どんな夢だったかは覚えてはいない。
「・・・姉さん。」
呼ばれていた。夢と現実の区別がつかない。少しでも空腹と疲労を忘れられる夢の中に沈んでいたかった。
「姉さん。」
再びエフィに揺り起こされる。まず目に入ったのはエフィの笑みだった。自分に気遣ってくれているのか、大丈夫とこたえようと自分も笑おうとした。そこで違和感を覚える。エフィの手に光る物があった。見たこともない、眩しい光を放つ金貨だった。チャペルでは貨幣は必要なかった。必要な物はチャペルが用意してくれた。逃走の旅を始め、世間では食べ物を買うのにお金が必要だと初めて知った。生きる術の無い自分達は金貨など持ったこともなかった。それを今、エフィが手品のように手にしていた。
「これでパンが買えるね。」
喉が鳴った。違和感を飲み込んでしまえば、欲望を満たすことができる。エフィの手の平にのった金貨があれば、街で食事や宿に泊まれ・・・満たされた生活が送れる。でも、目にしてしまった。エフィーゼの手が血塗られていることに。小さな飛沫が頬に付いていた。エフィーゼの全身から血の臭いがした。
シルアはエフィーゼを押し退けるよにして、走り出した。嘘であってほしい。何かの間違いであってくれ、そう願わずにいられなかった。すぐに息が上がった。疲労で足がもつれそうになったが、走り続けた。その途中、何故か見知らぬ人々の顔が思い浮かんだ。
金を持たず、食べ物を買おうとしたとき、店主に「金がねーなら、どっかへ行け。」と怒鳴られた。途方に暮れる自分達に、「仕方がねーな。」とぶつくさ文句を良いながら余り物のパンを放ってくれた。
戦争孤児の弟妹という嘘を知っていたのに見逃してくれた警衛兵の老人。「見つかるんじゃねーぞ。」と門を通してくれた。
魔導教会のシスターは孤児達に食べ物を恵んでくれた。自分達の食事さえやっとだというのに。
本当に世界は自分達に厳しかったか。ずっと苦しめ続けたか。そんなことはない。理不尽に死を振りかざしていた過去を持つ自分達にも優しくしてくれた人々がいた。それに背を向け続けたのは自分達の方だった。
緩い丘を登り終えたとき惨劇が広がっていた。オートモーターの旅走馬車が横転していた。馬車は鋭い刃物で切られたかのように両断され、中身が散らかっていた。子供が飽きたオモチャを放り出すように。その中に遺体があった。すれ違った家族とその護衛にあたっていた専従魔導士達。馬車と同じように体が分かれていた。小雨でできた水溜りの中に黒い物が広がっていく。まるで黒い沼が馬車を飲み込んでいくようであった。
シルアは嘘であって欲しい現実を目の当たりにして、その場に崩れ落ちた。これはエフィの能力だ。あの金属蜘蛛が作り出す糸は強靭で、切れ味は鋭い。人体はもちろん鉄や魔導石でできた物質をも切り裂く。
枯れたと思っていた涙が零れ落ちた。自分達の境遇にしか泣けないと思っていたが、今は他人の為に涙が頬を伝わった。
「あーーーーーーーー。」
絶叫とも嗚咽ともつかない心の叫びが喉を押し広げた。
「どうして、どうして、どうしてなの。」
言葉が繋がらなかった。この理不尽な死に抗議するように地面を叩き続けた。シルアの華奢な手は堅い地にあたり、すぐに皮が剥け、血が滲んだ。涙で歪んだ視界に影が差し込んだ。途方に暮れるエフィだ。どうしてシルアが泣いているんか。どうしてこんなにも困っているんか分からない様子だった。もう一度金貨を差し出す。エフィはただシルアにお腹一杯食べて欲しいだけだった。ただ温かい部屋で寝て欲しいだけだった。シルアに笑顔を浮かべてほしいだけだった。
だが、今のシルアには理解できなかった。猛烈な怒りが込み上げてくる。
「何故、殺した。」
能力が使えたならエフィを瞬殺していただろう。存在そのものをかき消していたかもしれない。今はエフィの胸元を締め上げることしかできなかった。
「どうして、どうしてだ。答えろ。」
エフィの胸を叩いた。何度も、何度も。
気付くとエフィは泣いていた。緑色の瞳に涙が溢れていた。どうして喜んでくれなかったのか。能力を使ってオートモーターを両断した。一瞬にして家族も魔導士も暗殺した。そこに何の感情も湧かなかった。こんな辺境とはいえ、異端システムに感知される可能性があったかもしれない。魔導士や能力者が近くにいたかもしれない。それでも構わなかった。エフィから見て、シルアは限界だった。
「・・・・どうして?」
「・・・・喜んで欲しかった。」
エフィは正直に答えた。
「私が喜ぶと思った? 人を殺してまで。」
「お金があれば食べ物が買える。」
「私はいらない!」
シルアはエフィの手から金貨をはたき落とした。
「人を殺してまでお金はいらない。」
シルアはエフィを睨みつけた。ナンバーを授けられたときだったならシルアの背後に赤黒く光る樹木が生えていただろう。それは樹木ではなく人間や動物の肉体の一部でできた木の形に模したものだった。『再生と絶望の始まり』という名の能力。
「どうして私なんかの為に人を殺すの。」
「どうして?」
エフィは疑問で返した。理由も無く人を殺すのか。かつてシルアもそうしていた。その矛盾さえも苛立ちとして感じる。
「私なんか死んだって構わないだろう。誰も気にも留めない。」
「嫌だ、死んだら嫌だ。」
「死んで当然なんだ。能力も無い。何の役にも立たない。お前の足手まといにしかならない私なんか本当はいない方がいいんだ。」
「違う。死んだら駄目だ。死んじゃ嫌だ。」
エフィが涙声で訴えた。
「どうして?」
何度も繰り返すシルアの質問。それにエフィは答えた。
「好きだから。シルアを愛しているから。」
陳腐な言葉に聞こえた。でも、それが真実なのだろう。悲しみと優しさが複雑に入り交じった感情が胸に広がった。
私は身勝手な女だ。能力を失い、生きる望みを無くした。存在価値が無いと良いながら死ぬのが怖かった。ナンバー、魔導士に襲われたとき、恐怖に身が竦んだ。食べ物が無く、明日も何も無い、死んでしまうと思うと胸が苦しくなった。
私は必要とされていた。私を愛してくれている人がここにいる。あの日、暗い幽閉所でエフィの手を握ったのは間違いではなかった。しかし、愛しているという言葉を表現するのに誰かの命を奪っていいはずはない。
元はと言えば、自分の弱さに原因があったのだ。エフィに頼り、その優しさに寄生していた。エフィに暗殺をさせ、自分がそれを責める権利などない。能力を失った自分にできることはエフィを人に導くこと。
その為に、私は強く生きなければならない。その覚悟が私にはあるの?
シルアはエフィに手を差し伸べた。立ち上がらせようとするエフィの手をシルアは力強く引き寄せ、地面に押し付けた。
覚悟はできた。私はエフィと一緒に生きる。
シルアは腰に差したチャペルで使用していたナイフを引き抜いた。そのまま躊躇無く、振り下ろした。ナイフはエフィの手とその上に重ねたシルアの手を貫通した。焼くような鋭い痛みが脳を揺らした。
「ぐっ」
シルアは痛みに呻いた。エフィもそれを感じていたが、チャペルの訓練で痛みそのものは遮断していた。エフィはシルアの手から溢れる血に動揺していた。
「血が、血が出ているよ。」
「エフィーゼ、これが痛み。」
苦痛に歪んだ顔をシルアは上げた。
「傷つけば人は血を流す。傷つけられれば人は痛みを感じる。皆そう、私だけじゃない。あなたも、そして今ここに倒れている人達も一緒。だから誰かを無闇に傷つけていい権利なんて無い。自分達の為に誰かを犠牲にする生き方なんかない。」
シルアとエフィの手から血が溢れ、地面に吸われていく。それ以上にエフィが殺した遺体の周りには血の滲みが広がっていた。もうあの家族達は痛みすら感じられないのだ。
「エフィ、ごめんね。私なんかの為に。でも、もう大丈夫。私は大丈夫だから。私も生きていくから。だから、もう誰も殺さないで。」
シルアは精一杯の笑みを浮かべた。エフィを安心させる為に。
エフィは泣き続けた。分からなかった。どうしてシルアが自分達の手を傷つけたのか。どうして人を殺してはいけないのか。今、分かるのはシルアが願っていることだ。人を殺さないこと。シルアが生きる決意をしてくれたこと。でも、それが嬉しかった。シルアはただ生きているだけだった。苦しいとも、楽しいとも、何も言わず歩き続けていた。生きる望みを無くした、感情を無くした生き物だった。今、シルアは強い目をしていた。
「うん。もう誰も殺さない。」
「・・・ありがとう。」
シルアは左手でエフィの頬に手をやった。その顔を自分の胸に抱き寄せた。エフィはシルアの胸で泣き続けた。シルアも泣いていた。二人の手はナイフで繋がったままだった。それは絆だった。二人の強い絆となっていった。
それからの記憶は二人とも曖昧だった。二人は寒空のもと、体を凍えさせながら遺体を埋めた。飢えと疲労で体は言うことを効かなかった。簡素な墓石を置き終えたとき。崩れるように眠りについた。お金は一銭も取らなかった。金貨一枚あれば当分の間、食べ物に不自由しなかったろう。それでも手をつけなかった。
翌朝、目を覚ましたとき、雨は降り続いていた。シルアは横で眠るエフィの寝顔を見つめた。まだ子供だ。こんな子供が魔導士と死闘を繰り広げ、チャペルの能力者を撃退し続けた。もし、人が願いだけで強くなれるというなら私も願わなくてはいけない。誰の為でもない。自分自身の為に強く生きるのだ。誰にも頼らない。能力者ナンバー1はここにはいない。人間シルアが生きている。この子・・・エフィと一緒に生きていこう。だが、人をあんさん津する生き方はいらない。
シルアはエフィの寝顔に軽く口づけした。
二人は生きる為にもがき続けた。働いてみた。見よう見まねで人の生活に溶け込んでみた。生きるのは楽ではなかった。でも、怖くはなかった。能力者からも魔導士からも自由だった。
旅を続けた。
世界の果てかと思う北の海岸にたどり着いた。
人々の優しさに触れた。
高き山々から昇る朝日を見た。
傲慢な人間達から迫害を受けた。
鬱蒼と茂る森の木々の下で嵐をしのいだ。
村祭りで慣れない踊りを二人で躍った。
足が重たかった。今まで暗殺してきた人々の怨嗟に絡み付かれたようだ。約束を破った。シルアと約束したのに。両手に持った剣が重たい。能力者として生きるのをやめたが、この件を捨てることはできなかった。この件はシルア・・・ナンバー?から渡されたものだった。ナンバー?になったとき、ナンバーの証しとして授剣された。その思い出・・・絆だった。
それが今、重しとなった。この剣を捨てたなら自分の犯した過ちは消えてくれるだろうか。この手に付いた血の固まりが、この体に染み込んだ血の臭いは消えることはない。
体が震えた。寒さではない、怖気でもない。肩越しから漂う気配。あの機械蜘蛛が這い上がってきそうな気がした。力ある者は力に溺れるときがある。圧倒的な力の行使に酔いしれる。能力者として抗たい欲求だった。その自制に体が震えた。
もう自分は暗殺者ではない。エフィは救いを求めるように顔を上げた。だが、そこには救いの光は無かった。咎人を苛むような細い雨が降り続けるだけだった。
どこをどう歩いたか分からなかった。帰る場所は一つしか無かった。帰りたくはなかったがエフィの足はそこに向かっていた。
焼け焦げた臭いがまだ残っていた。薄明かりの朝日が差し込み始めた村はその惨状を浮き彫り出していた。その村の前にシルアが立っていた。雨はいつの間にか止んでいた。
「・・・・・。」
シルアの無言が痛かった。言葉厳しく責めてくれたならどれだけ楽だったろう。
「・・・許せなかった。村の人達を殺したあいつらを許せなかったんだ。だから・・・だから・・・。」
エフィは俯いて言葉をつぐんだ。暗殺した・・・シルアとの約束を破った言い訳を口にした。それでもシルアは無言だった。一歩、シルアは足を進めた。ぬかるんだ地を歩く足音が近寄って来る。
「だから、殺した。沢山の人を殺した。」
血が滲む程、剣を握りしめていた。その俯くエフィの頭をシルアはあの時と同じように胸に抱き寄せた。
「いいんだよ、もういいんだよ。」
シルアは許しも、認めもしなかった。ただ、エフィを力強く抱き続けた。
シルアの匂いがした。何かを考えなくてはいけなかった。何かを償わなければならなかったはずだ。でも、今はこの温もりの中に埋もれていたかった。この微睡みの中で静かに眠りたかった。
(おわり)