第六十話 お母さん
「くそっ、隙がないっ……!」
いくら速くても、懐まで飛び込めば一撃を与えられる……そんな甘い考えは、早々に捨て去ることになった。
なにせ、その『懐まで飛び込む』という行為でさえ、調停者相手には不可能に近い。攻撃は目で追えず、一体なにで、どうやって攻撃されているのかも分からない。高速移動で近付こうとしても、その前に阻止されるか、あるいは同じような高速移動で逃げられる。
なにより恐ろしいのは……まるで、こちらの動きを読んでいるかのような的確な動き。もう何度も戦った相手のように、こちらの癖を把握されている感じがする。
(やりにくい相手っ……なんなんだこいつ、ほんとにっ……!)
その仮面の下にある素顔を、今すぐにでも拝んでやりたいところだ。案外、わたしの知っている奴が出てくるかもしれないし。
とにもかくにも、なんとかして隙を作らないと攻撃のしようがない。
幸い、奴の攻撃は直線的。奴の攻撃の前兆さえ見逃さなければ、致命傷は避けることができる。それを利用すれば隙を作ることも不可能ではないはずだ。
問題は……それ自体が罠だった場合か。考えていても仕方がない。
(音も霧も、みんなに迷惑がかかるから使えない……だったらっ)
直後、奴の腕が消える。攻撃を仕掛けてくる前兆だ。わたしはその直線上の大地を抉り、大きな壁を作り出した。わたし一人が隠れるくらいの。
ただの土だ。攻撃を防ぐ能力はない。ただ、奴から一瞬だけ姿を隠すことができる。わたしはその一瞬で、わたしと同じくらいの大きさで人型の氷を作り出し、土壁の左側へ放り投げた。
突然飛び出した影に、調停者の視線が吸われる。その間に反対側から飛び出し、一気に接近した。
奴も氷がデコイだと気付いて、すぐにこちらに視線を向けるが……わたしの方が、一瞬の差で速い。剣を頭上に掲げ、思い切り振り下ろした。神速剣は使っていないけれど、これだけでも岩の塊を簡単に斬り裂けるほどの威力だ。
だからこそ……信じられなかったんだ。
『軽い』
「なっ……!?」
奴は、アーティスを手のひらで受け止めていた。子供の振り下ろした木の棒を受け止めるような、そんな簡単な仕草。それだけで、アーティスは奴の薄皮一枚斬ることなく、その場で停止した。
奴はそのままアーティスの刃を握ると、振りかぶって遠くへ投げる。当然、それを掴んだままのわたしも、道連れで投げられた。
仮面越しにこちらを見つめる視線を感じる。調停者はゆっくりと、投げ捨てたわたしのもとへ歩み寄ってくる。
『弱いな。これほどまでに弱いとは』
「お前っ……!」
『これなら、初めから私が手を下しておけば良かったか』
まずい。力の差がありすぎる。今のわたしでは、こいつには勝てない。
「調停者……あんた、なんでわたしを狙うの? わたしに生きていられると困るわけ?」
『それをお前が知る必要はない』
「『オルタスフィア』……あんたは、『オルタスフィア』の人間だ。わたしに、なにか恨みでもあるの?」
個人的な恨み。前世のわたしを知っていて、わたしになにか強い恨みを持っている。
恨まれるようなことは……それなりにしてきた。世界を救う反面、それを快く思わない人間も大勢いた。
調停者は……答えない。それが肯定なのか否定なのか、わたしには分からなかった。
歩み寄ってきた調停者は、わたしの前で足を止めると、空中に黒い槍のようなものを召喚した。
隙はないが……やるしかない。わたしは全身に力を込め、瞬時に起き上がり、奴に斬りかかった。
「はぁっ!」
全力の一撃は、またも防がれる。剣は左手でいなされ、右手は、わたしの腹部に添えられていた。
なにか嫌な予感がして、腹部に集中して保護すると、奴の右手から、凄まじい衝撃波が放たれる。
「がふっ……ぁっ……」
どれくらい吹き飛ばされただろう。防御の上から貫くほどの威力。なんの予備動作もなく、ただ手を添えた状態から放った一撃が、それほどの威力なのだ。
痛い。吐き気がする。内臓を直接殴られたような痛みだ。この感じ……わたしの『内砕き』に似ている。
見上げると、奴はすでにそこにいた。再びあの黒い槍のようなものを召喚すると、その矛先をわたしへと向けた。
『さらばだ』
避けられない。これは、死んだかもしれない。もうそれを防御するだけのマナも残されていない。
詰みだ。
あとはもう、死を待つだけ。認めたくはないが、わたしには対抗する手段が残されていない。
……死んだ。死にたくはない。お姉ちゃんもお母さんも残して、一人死ぬのは……嫌だな。
空を切る音がする。奴が槍を放った音だろう。わたしは死を前に、思わず目を瞑ってしまった。
そして、少し遅れて——音がした。槍がなにか……肉を貫くような音。しかし、そこに痛みは伴わなかった。
恐る恐る目を開けると、槍は確かにそれを貫いていた。わたしではない。赤いフードに砕けた鎌。お母さんの胸を、漆黒の槍が貫いていた。
お母さんがゆっくりと、こちらを振り返る。口から血が溢れ出し、なにか言いたげに動かされる。
「お母さんっっ!!」
痛みなど忘れ、お母さんに駆け寄る。槍は消滅し、お母さんはその場に崩れ落ちた。
胸から溢れ出す血が止まらない。昨日の傷など比じゃないくらいに酷い傷だ。
「ア……エ……逃げて……」
小声でそう呟かれる。上手く聞き取れなかったが、たぶん、逃げてと言ったんだと思う。
「ママっ!?」
異変を察知したのか、お姉ちゃんもすぐに駆けつける。お姉ちゃんが相手をしていたあの黒いスライムは、まだ五体満足のようだったが、不思議と追いかけてくる気配はない。
「お母、さん……わたしを、庇って……」
わたしが弱いから。奴に隙を見せたから、お母さんは庇ってくれたんだ。
ふつふつと、心の中に怒りが込み上げてくる。こいつらはどうして、どいつもこいつも、わたしたちを殺そうとするんだっ……!
怒りと共に、不思議な力が湧いて出てくる。マナは枯渇し、体力だって残されていなかったはずなのに、なんの抵抗もなく足が動いた。
「お前はっ……お前はぁぁああっっっ!!」
駆けると同時に、地面が爆ぜた。加速している感覚は、いつもよりも激しい。明らかに、わたしの全力を超えていた。
だけど、今は細かいことはどうでもいい。今はただ、こいつが憎い。
「殺す……殺す、殺すっっ!!」
『ちっ……』
何度も、何度も斬りつけた。確かな手応えがある。その証拠に、奴は鬱陶しそうに舌打ちをしていた。
いける。これなら、奴を殺せる。この力がなんなのかは分からないが、こいつを殺したあとなら、わたしの体がどうなろうと知ったことじゃない。
徐々に、速度が奴に追いついていく。奴は剣を受け流すことに手一杯で、反撃の隙もないようだ。
その瞬間。一瞬、奴の輪郭がぶれたような気がした。攻撃の予兆か、とも思ったが、どうにも、ほんの少しの間だけ、奴の動きが鈍くなったような気がしたんだ。
(ここだっ……!)
その隙を縫って、首を獲りにいく。防御は間に合っていない。
獲れた、と思った。
(躱されたっ……!?)
だが、その鋭い一撃は、ぎりぎりのところで躱された。刃は奴の腕を掠め、斬り口から鮮血が滲み出る。
「はっ……はっ……ぁっ……」
躱されたが、効いている。さっきは傷一つ付けることができなかったことを考えると、やっぱりこの力のおかげでわたしの能力が向上していると考えるべきだ。
火事場の馬鹿力なのか、それとも。
流石の調停者も、これには焦ったのか、一度大きく距離を取った。追撃したいところだったが、妨害のために奴が魔法で地面から棘を生やしたことで、後退を余儀なくされた。
「次はっ……殺すっ……」
『ちっ……そういうことか。道理で弱いわけだ』
なんだかよく分からないが、奴も動揺している。やるなら今だ。今しかない。
そう思った直後。またも奴の輪郭がぶれる。さっきのは気のせいじゃなかった。なんだ、あれは。体と世界との境界線が……滲んでる?
『……これ以上は引き戻されるか』
「引き戻される……? なに言ってんの……あんたは、なにを知ってんのっ!?」
奴がなにを言っているのかさっぱりだった。引き戻される、だとか、そういうことか、だとか。
わたしが知らないことを、奴は知っている。もしかすると、わたしがこの世界に生まれ変わった理由や経緯でさえも、奴は知っているのかもしれない。
殺すなら、それを吐かせたあとか。ついでに、奴の仮面の下に隠れた素顔も暴いてやりたい。
『お前がそれを知る必要はない。少なくとも今はな』
「あっそ……だったら、そのまま死ねっ!」
どちらにせよ、殺す相手だ。地面の棘が消えると同時に駆け、一撃で奴の首を獲るべく、力を込めた。
……そして、黒い靄に足を絡め取られ、刃が奴に届く直前、わたしの体はぴたりと止まってしまった。
靄は奴の体にも纏わりついている。これは……このへ来た時と同じ。こいつ、まさか。
「待てっ……逃げるなっ……!」
即座に魔法に切り替え、奴を仕留めようとするが、靄は両手の指にまで纏わりついて離れない。
詠唱……そうだ、詠唱だ。この世界の魔法なら、まだこいつを仕留められる。
咄嗟に言葉を紡ごうと、口を開いた。しかし、もう間に合わない。奴の体はもう半分ほどが消え、残るのは胸から上の部分だけだった。
『……また会おう、アニュエ・ストランダー』
そう言い残して、奴の体が靄に包まれ、消える。同時に、わたしに纏わりついていた靄も消え、解放された。
……もう少しだったのに。この力があれば、奴を殺せたかもしれないのに。どうして……どうして、わたしはっ……。
一気に全身から力が抜け、忘れていた痛みが戻ってくる。あの力の反動なのか、上手く体を動かせない。
調停者がいなくなったことで、辺りを静寂が支配した。その静寂を破ったのは、お母さんの治療をしていたお姉ちゃの叫び声だった。
「お母さんっ……!」
行かないと。もうわたしのマナも残り少ないが、今はわたし自身の体よりもお母さんを助けたい。
動け、わたしの体。わたしを、お母さんのところまで運んでくれ。




