天国
雲の上に広がった天国のある地域で男は暮らしていた。
彼は非常に真面目で天国でも一生懸命、勉学にはげんでいた。
周りの人間も一目を置き、善人ばかりが集まるこの場所で多くの人の信頼と関心を集めた。
どこぞの何々という男は努力家で優秀で頭のきれる奴らしい。そんな噂が人から人へ伝わり、隣町やその隣の町まで広がった。都会の偉い人やついには天国のとても名高い神様の耳までその噂は届いた。
ある日の朝。あくびをひとつした後、男はいつものように寝間着のまま表に出て、芝生の上に立った赤い郵便受けを確認した。
「ん?」いつも来る新聞の他に便りがなにやら届いていた。
こじんまりとした家にそれらを持ち帰った。泥棒が入る恐れはないので鍵はかけない。椅子に腰かけて手紙の封を開けた。
「あの人、今度お役所に勤めるんだって」
「大出世じゃないか。そんな名誉ある仕事なんて滅多に就けるもんじゃない」
「でもあの人なら納得だ。あんなに優秀な人を他に知らない」
「彼は私たちの誇りだ」
男はそのような羨望の眼差しを受けながら、晴れて花の大都会に上京した。
町の人や都会の人も、天国の人間はほとんど仕事をしていない。のんきにのんびり暮らしている。誰も欲望というものはあまり持っていないし、お金だってこの国には必要ない。
でも役所は違った。
住人の戸籍管理やらインフラ整備。
地球から天国に来るべき人間を申請したり。
地獄の閻魔大王やその部下と色々、確認を取ったり。
段取りを話し合ったり。
天国で困った人があったら親身になって助けてあげたり。
ボランティアには違いないのだが、大変忙しかった。
なんなら天国以外のこともあって、地球であふれている争いごとなどの問題をどうにか解決できないかと考えたり、時には手を差し伸べたり。
地獄で償われる罰はかわいそうではないかと議論したり。仕事は山のように積もっていた。
そんな仕事に取り掛かる役人は軒並み優秀だった。
才能豊かな人間がぞろぞろといた。
みんな親切で思いやりがあって働き者で努力家で弱音の一つも吐かない。
そんな聖人と呼ぶにふさわしい人ばかりだった。男も遅れを取らないように無我夢中で働いた。
連日連夜、寝る間も惜しんで必死に働いた。
周りの同僚は彼と同じくらいかそれ以上の働きぶりだった。
休む間なんてなかった。そうやって働くのが当たり前だった。
男の疲労は日に日に高まっていった。一年以上もそんな生活が続き、疲れ果てて疲労困憊。彼に限界が訪れた。
夜中にひとり黙々と仕事をする彼はふいに手を止めた。仕事はなんとかひと段落出来そうな具合だった。役所の片隅で一人、ふぅ、と息を吐いた。照明が彼の何やら思いつめたような表情をうすぼんやりと照らした。彼は天を仰いだ。
「私はもう駄目です。もう無理です。こんなことがこれ以上続くなんて到底、耐えられません。どうか私を消してください。もう跡形もなくどこからも消えてしまいたいんです」
これを聞いていたある神様が気の毒に思って、彼の願いを叶えてやることにした。
彼の姿は煙のように消えてなくなった。
次の日、このことを知った役所の人間はみんな泣き崩れた。
何故助けられなかったのかと自分を責めた。
この事件は瞬く間に天国中に広がり、大きな波紋を呼んだ。
やはり問題は労働環境にあるとして、役所は職員を増やすことにした。長時間労働の是正が目的だった。ひとりひとりの負担を減らしていく算段だった。
各地からそこそこ優秀な人材を一斉に集めた。しかし期待したような効果は得られなかった。
例えば、役職も管轄も違う8人の就業時間を一時間ずつ減らしたとする。
その一時間分の仕事を8人分、代わりに新人にやらせたとして、8時間で全部終わらないのが普通である。効率の良い体制にはそう簡単にはならない。
そうなるまでには大層な時間を要する。
元々いた職員はどこかぎこちない様子で仕事をするようになった。
それに加えて、そもそもの話なのだが仕事は山積みなのである。
しかも、問題はあらゆるところから湯水のように出てくる。
天国の仕事を片付けても地球の仕事が。
地球の仕事を片付けても地獄の仕事が。
仕事は探せばきりがない。天国の人は良い人たちばかりなので見て見ぬふりなんて出来なかった。
役所はまた職員の増員を決定した。世間では私も力になりたいという人ばかりだったので、その意志をむげには出来ず、希望者には出来るだけ意向に添えるよう配慮した。
世の中は人手不足だ、売り手市場だ、好景気だなんだと大賑わい。結局、天国の住人みんなが役所勤めになって、みんなが毎日毎晩働いた。
とはいえ、いくら善人といえども、中にはどんくさいものもいるもんで、ある日、地獄に落とされるはずの男が手違いで天国にやって来た。
案内役の役人が男について、天国のあらゆる場所を一通り見て回った。そこで男は言った。
「何が雇用拡大だ。何をそんなに浮かれてるんだ。何がそんなにありがたがてぇんだ。ろくなところじゃねえなここは」