第八章:2 遥の罪悪
(あなたを愛しています)
目覚めてからも、朱里は夢の中の余韻に引き摺られていた。気持ちは高ぶったままで、涙が溢れ出る。夢の光景は断片的な成り行きだけを映す。朱里には前後にどのような経緯があったのか判らない。
ただ疑いようもなく示されるのは、彼への想いだけだった。
闇呪の君――遥への気持ちだけが蘇る。それだけが手繰ることを許された記憶だった。高ぶった気持ちを鎮めるように、朱里はゆっくりとした呼吸を繰り返す。涙を拭いながら身を起こすと、まるで何事もなく朝が訪れたように、目の前には見慣れた部屋の模様があった。
朱里は寝台を出ようとして、ようやく現実に引き戻された。長い銀髪と白い衣装が閃く光景が脳裏をよぎる。白刃の剣が不気味なほどに美しく輝き、麟華の喉元に突きつけられていた。
夢の光景に違わず、目の前で繰り広げられていた非現実的な状況。
絶体絶命の危機に陥った出来事が蘇り、一瞬にして朱里の心を捉えた。
「麟華」
思わず姉の名を呟いた。成り行きを追おうとしても、姉がどうなったのか思い出すことが出来ない。助けを乞いながら気を失ってしまったのだと悟る。
朱里は素早く寝台から降り立ち、はっとしたように切り裂かれた筈の足を確かめる。痛みはなく、傷跡を見つけることが出来ない。
「そんなはず……」
短剣で切った筈の掌を眺めても同じだった。まるで全てが嘘であったかのように、刻まれた傷跡がないのだ。朱里は夢を見ていたのかもしれないと、その場に立ち尽くした。
夢が異世界での出来事だけを映すとは限らない。
身につけているのは、馴染みのある寝間着。カーテンを開いても、陽射しは朝の輝きをしていて、まるきりいつもの朝だった。
全てが夢だったのだろうかと朱里は逡巡する。戸惑いを隠せないまま部屋を出ようとすると、扉を隔てた廊下から声が聞こえてきた。
「なぜそのような嘘をつく必要があるのですか?」
響いてきたのは、聞きなれた姉の声だった。朱里は変わらず威勢の良い麟華の声を聞いて、とりあえず安堵する。姉が無事だったのなら、昨日の出来事が夢でも現実でも、どちらでも良いような気がした。部屋を出て麟華の顔を見ようとしたが、朱里は扉を開ける前に、未だに聞きなれない言葉を聞いて思いとどまった。
「主上っ」
その一言で、朱里ははっと我に返る。遥がこの家に滞在していることを思い出した。またしても寝起きそのままの乱れた姿をさらす処だったと、嫌な汗が滲む。朱里は部屋を出る前に着替えようと考えを改めた。
支離滅裂なまま整理されていないが、確かに昨日は土曜日だった。だとすれば、今日は日曜日だ。朱里は私服でいるのなら可愛さを演出すべきかと考え、そんなふうに乙女心が働いてしまう自分が気恥ずかしくなる。
「私と朱里を救ったのは、主上ではありませんか。朱里の傷を癒したのも」
(え?)
扉から離れようと踏み出したまま、朱里は不自然に立ち止まった。芽生えた乙女心がすぐにどこかへ追いやられる。
麟華はどうやら客室である遥の部屋の前で話しているようだった。
朱里は麟華の言葉で昨日の出来事の顛末を悟ってしまう。
遥が救ってくれたのだと、何の疑いもなく受け入れていた。
そう考えると、傷が癒えているのも納得できる。以前、幼馴染の佐和を庇って怪我をした時も、まるで手品のような素早さで傷を癒してくれたことがあったのだ。
朱里はぴったりと扉に身を寄せて、二人の会話に耳を澄ました。
「麟華、声が高い。何度も言うが、それが朱里のためだ」
「納得がいきません」
幸いなことに、遥の声は小さくてもよく通る。麟華は声を高くしているため聞き取るのは容易い。
「とにかく部屋に入りなさい。話は中で聞こう。声が響く」
首尾よく聞き取れていたのも束の間で、扉の開閉の音と共に二人の声が極端に遠ざかった。耳を澄ましても、くぐもった物音のようにしか聞き取れない。
朱里の胸に不穏なものが芽生える。遥の意図が自分の気持ちとはかけ離れたところにあるような気がしたのだ。
朱里は着替えることも忘れて、物音を立てないように部屋を出た。足音を殺して遥が滞在している部屋へ向かう。扉の前で立ち止まると、再び扉に身を寄せるようにして室内の様子を窺った。
「どうして朱里を避ける必要があるのですか」
扉一枚を隔てて聞こえてきた声が、盗み聞きをしているという罪悪感を一瞬にして葬り去ってしまう。朱里は胸を掴みあげられたような息苦しさを感じた。
「避けてなどいない」
激昂している麟華とは対照的に、遥の声は波紋のように静かに響く。
「いいえ、主上の提案はそういうことです。朱里をご自身から遠ざけようとしています。あんなに主上を頼りにして慕ってくれているのに、どうして素直に応えることができないのですか」
しばらく沈黙があった。朱里が固唾を呑んでいると、低い声が明かす。
「朱里がお前達に打ち明けた気持ちを、私も聞いていたんだ」
思いがけない事実に、朱里は体がかっと熱くなった。
遥を好きなのだと、そう双子に語った。その想いをまさか本人に聞かれていたとは思いも寄らない。どきどきしながら、漏れてくる会話を懸命に追いかける。
「何も知らない彼女に対して、私は必要以上に傍に在りすぎたのかもしれない」
「彼女を護るために必要な手段です」
再びわずかな間があった。
「違うんだ、麟華。私の中に、やはり未練があるのかもしれない。自分のものではないと知りながら、それでも傍に在りたいと望んでしまう。彼女を護るということを言い訳にして、関わりを持とうとしていた」
「朱里は、――朱桜の姫君は主上の伴侶です。そう思うのは自然なことです」
「違う、私は朱桜を求めてはいけない。彼女が打ち明けた気持ちを知って、私はようやくそんなことに気付いた」




