第七章:4 共に在るための覚悟
「どれほどの禁を破るつもりだ」
「それは、あなたが自身に問うべきこと」
ゆるりと皓露の皇子が進み出た。これ以上の時間稼ぎはできないと悟る。力の衝突が何をもたらすのか。遥が息を止める。万が一、衝撃が朱里を巻き込むようなことになれば――。
「我が君」
直後、まるで遥の迷いを拭い去るように、新たな声が響いた。
「我らの護りを信じてください。麒麟の目一つでは、我が君の呪鬼を封じるのが限度です。我らの結界で余波を封じて見せます」
参上した麒一の影が、遥の視界をよぎった。麟華に呼ばれ、霊脈を開いたのか、黒麒麟の俊足で駆けつけたのか、どちらにしても心強い援軍だった。
守護が全力で護るのならば心配はいらない。不安は絶たれた。ぐっと柄を握る掌に力を込める。
「皓露の皇子、覚悟されよ」
目の前の皇子を見据えて、遥が鮮やかに踏み出す。躊躇いなく一振りすると、刃先が肩に届く寸前で、皇子が剣を止めた。びりびりと振動が体中を駆け巡り、皇子の美しい顔がひきつるのが判る。遥は彼が自身の太刀筋を止めたことに驚いたが、挑んでくる皇子の動きは鈍い。素早く次を振り下ろし、太刀筋を変えて再び踏み込む。
皇子は辛うじて遥の剣を受け止めていたが、交わす剣圧の違いに気がついたのだろう。距離を取ろうと大きく後ろに飛ぶ。遥が見計らっていたかのように、強く踏み込んで皇子の跳躍に続いた。着地と同時に美しい裳衣の裾を踏んで、皇子の動きを封じる。
「なに……」
圧倒的な動きの差に、皇子の顔色が失われていた。なりふり構わず振り抜かれた剣を、遥はたやすく弾く。交わった衝撃と共に、皇子の刀剣が砕け散った。皓露の皇子は受け止めきれない力に飛ばされて、幾重にも纏った衣装を閃かせながら地面に投げ出される。遥は素早く柄を逆手に持ちかえ、起き上がろうとする背中に迷いなく剣を突き降ろした。
「――っ」
皇子が呻くように悲鳴を発した。白い裳衣の肩から、みるみる血が滲み出る。地面に伏したまま、皇子が低く嘲笑する。
「なぜ仕留めないのです?」
「質問に答えていただく、黄帝の真意を教えていただこう」
「――私が答えるとでも?」
遥は無言のまま、突き立てた刀剣をぐっと斜めに引き倒した。皇子が駆け抜けた激痛に顔を歪める。歯を食いしばりながら、それでも嗤った。深淵を映す瞳に、不穏な気配を感じる。遥の背筋にぞっと何かが這う。皇子は掌に掴んだ黒い玉――麒麟の目を額に当てた。
「深追いしすぎたようです。――霊脈を」
「待てっ……」
遥の言葉が終わらないうちに、皓露の皇子がふっと姿を消した。霊獣だけが持つ霊脈を、いとも容易く開く。麒麟の目による恩恵であるのかは、遥にも判らない。繰り広げられた戦いが嘘のように、辺りはいつもの静けさを取り戻している。
相手にとどめを刺さなかった、自身の甘さだけが残る。赤の宮が語るように、その過信がいつか自分を追い詰めて行くのかもしれない。追手を逃したことを、今後悔やむ日が来るのかどうか、遥には想像することができなかった。
ふうっと緊張を解き、彼は悠闇剣を虚空へ一振りして収めた。出来事を振り返る余裕もなく、脳裏を占める感情に支配される。すぐに踵を返して、遥は朱里のもとへ駆け寄った。
麟華に抱き起こされた朱里の顔から、血の気が失われている。路面に力なく放り出された白い手が血に濡れていた。膝の上から裂けた腿の傷跡が深い。麟華と麒一が止血を施したようだが、彼らには傷口を癒すことができないのだろう。
遥はその場に膝をついて、ぐったりと気を失っている朱里に触れた。
「朱里……」
彼女の頬に触れた指先が震えていることに気付く。封じ込めなければならない想いが駆け巡って、押し殺すことで精一杯だった。
これほど傷つけられても、彼女は決して逃げ出すことを考えなかったのだ。気を失う間際まで、ただ麟華を救うことだけを思い続けた。
「どうして、もっと早く私を呼ばない」
彼女が心から求めてくれるのなら、いつでも影脈は開かれる。
遥は腕を伸ばして、麟華に抱えられた彼女の上体を抱きしめた。鉄のような血の臭気に、ほのかに甘い匂いが混じっている。禁術によって形作られた殻であっても、それを満たす温もりは変わらない。
失うことは出来ない。何があっても幸せを掴み取ってもらわなければ、この先には彼女を苦しめた後悔だけが募ってしまう。
「もっと早く、私を……」
呟きながらも、遥にはそれが我儘な願いであることは判っていた。本来ならば、彼女が遥に縋ることなどあってはならないのだ。必要以上の信頼を得てはいけない。
彼女の内に遥――闇呪への信頼が育つほど、その禁術が解けた時、彼女は心を痛めることになる。決して、禍となる者に心を移してはいけない。
自分に対する朱里の信頼が、それ以上の気持ちに育ちつつあることは、遥も気がついていた。
彼がずっと望んでいた立場。
思い起こせば、愛を以って真実の名を捧げる前から焦がれていた。
けれど。
真実は違う。彼女の想いを望みながらも、彼には決して手に入れられなかった立場なのだ。禁術に犯された彼女は、全ての過去――真実を失っている。そんな状況で愛されることは、過ちではすまされない。悪戯に彼女の想いを弄ぶような真似はできない。
朱里の心が自分に向けられている。
この異界で手に入れた成り行きは、遥にとっては思いも寄らない出来事であり、そして、あってはならない展開だった。
変えることの出来ない運命がある限り。
いつの日か全てが覆される日がやってくるのだ。
世を滅ぼす禍と、それを討つ相称の翼。
どれほど目を逸らしても、いつか形になる。
彼女の幸せは、その先にしか築くことができない。禍を討ちとった、その先にしか――。
遥は固く目を閉じてから、まるで覚悟を決めたように現実を見た。小柄な体を抱いていた腕を解く。
「麟華、麒一。とにかく家に入ろう。彼女を休ませて、殻の受けた傷を癒してみる」
麟華が頷くのを見ながら、彼は労わるように朱里の肩を抱き、もう片腕を膝裏に通した。抱き上げるようにして立ち上がると、朱里の顔がことりと遥の胸に寄りかかる。
遥は足元に倒れているもう一人の人影を見返った。外傷もなく顔色も安定していたが、このまま家の前に放置しているわけにはいかない。
遥は同じように気を失っている涼一を、麒一に託した。守護は異を唱えることもなく、荷物を持ち上げるような素早さで青年の体を抱え上げる。
邸宅の前で事件が起きたのは、人目につかないという点では運が良かったと言えるだろう。麟華が素早く玄関の門を開いた。歩き出しながら、遥はもう一度胸に寄りかかっている朱里の顔を見る。血で汚れた白い顔は無防備に目を閉じていた。
愛しい翼扶。
護ると誓いながら傷つけられたことを、この上もなく悔やむ。もっと早く駆けつけたかったという望みが、遥の内に痕を残す。
求めてはいけないと知りながらも。
それでも、止めようもなく込み上げてくる思い。
もし自分が彼女の比翼であったのなら、遅れを取ることはなかっただろうか。あるいは遡れば、こんなふうに禁術に追い詰めることはなかったのかもしれない。
もしこの身が、彼女に愛されたただ一人の比翼であれば。
考えても仕方のない望みが渦を巻いた。
遥は痛みにも似た感情をやり過ごすように、朱里から目を逸らした。
強欲な思いを封じ込めるように考えを改める。
今はただ、彼女が心から必要としてくれたこと。自分に助けを求めてくれた声。
それだけが、その信頼だけが、自身を、――あるいは決意を支える糧となる。




