第七章:1 開かれた影脈(みち)
彼方が新たな会話の糸口を探していると、何の前触れもなく副担任の遥が立ち上がった。一瞬にして、宿直室に尋常ではない緊張感が漲る。彼方は寝台に横たわったまま動けず、どうしたのかと声をかけようとして目を見開いた。
遥が素早く虚空に手を這わせ、何かを掴み取ったのが判る。突然の抜刀に声を失っていると、彼は手にした漆黒の刀剣――悠闇剣を迷わず床に突き立てた。
「――影脈を開く」
淡く差し込む陽光で形作られた遥自身の薄い影。艶やかな刀剣は彼の足元に描かれた影を的確に貫いている。彼方があっと声を上げる前に、遥の姿は室内から跡形もなく失われていた。
彼方が引き止める隙も与えぬ素早さで、遥は目の前から立ち去ってしまったのだ。彼方は寝台に横たわったまま天井を眺めて、目の前で繰り広げられた状況を整理した。
「……影脈を使えるって、どういうこと?」
思わず声に出して呟いてしまう。有り得ない話ではないが、彼方はただ驚いていた。
脈を使うためには、それなりの条件を満たす必要がある。彼方には副担任の遥がそれを満たしているとは思えない。呪を以って鬼を制する彼には、脈すらも自由自在に使える力なのだろうか。
あるいは。
そこまで考えたとき、彼方は宿直室の外に人の気配を感じた。ようやく奏がやって来たのだと思うと、闇呪である副担任を足止めできなかったことを悔やみたくなる。ついさっきまで、彼がここにいたのだ。わずかな差で奏と遥を対面させることが叶わなかった。
「彼方、大丈夫ですか」
予想に違わず奏が顔を出した。窺うように、ゆっくりと扉を押し開いて室内へ入ってくる。彼方は虚脱感に襲われながらも、現れた奏に笑顔を向けた。それから悪戯を叱られた子どものように顔を顰めてみせる。
「ごめんなさい、奏。もうちょっとだったんだけど」
奏はさっきまで遥が座っていた椅子にかけて、不思議そうに彼方を見つめる。
「それはどういう意味ですか」
彼方は教室で起きた出来事から、これまでの経緯をかいつまんで語った。奏は彼方の謝罪の意味を理解すると、穏やかに笑う。
「そうですか。ついさきほどまで、ここに彼が」
「うん。僕がうまく引き止めていられたら良かったのに」
彼方が横たわったまま溜息をつくと、奏は表情から笑みを消して呟いた。
「何か起きたのかもしれませんね」
「何かって?」
視線を奏に向けると、彼は何かを考えている風情で室内の一点を見据えている。彼方を見ることはせずに続けた。
「あなたの兄上もこちらへ渡っている。緋国の二ノ宮は残念なことになってしまいましたが、彼女も魂禍となる前には目的があった筈です。その目的はおそらく闇呪の君や、相称の翼に関わることに間違いないでしょう」
「だけど、兄上は僕を狙っていたのに?」
「その辺りの成り行きは、はっきりとはしませんが……」
奏は一瞬黙り込んでから、彼方を見た。
「闇呪の君は影脈を開いたのですね」
「うん、間違いない」
彼方はさっきまでの思考を取り戻す。
脈を使うために、満たさなければならない条件。奏もそれを考えてしまったのだろう。まさかと思ったが、彼方はそれを口に出して見た。
「副担任、じゃなくて……闇呪に翼扶がいるとしたら」
奏は頷く。
「たしかに、影脈を使うことは可能です」
「でも、そんなことあるのかな。闇呪が忠誠を捧げる相手なんて想像がつかない。付け加えて脈ではこの異界から天界に渡れないだろうから、相手もこちらに渡っているということになる」
今までの成り行きを考えると、彼方にも一人だけ思い当たる人物がいる。どんなに闇呪である遥に否定されても、俗物的とも言える一つの考えを拭い去ることができない。
天宮朱里。彼女に対する特別な感情。彼方は思い過ごしではないと感じてしまう。
けれど、朱里が闇呪の翼扶になることは不可能なのだ。彼女はこちらの世界に生まれ、真実の名を持たない。脈を開く以前の問題だった。
脈と呼ばれるものは幾通りかある。
ついさっき闇呪が目の前で開いてみせた影脈。影を介して開く脈。もちろん彼方にも開くことの出来る脈がある。彼方は一度だけ地脈を開いたことがあった。
雪と縁を結び、互いに真名を捧げあってから、初めて放浪癖を発揮したときだ。彼の長すぎる不在に、さすがの雪も耐え切れなかったのだろう。不安に苛まれた彼女の声に呼ばれたのだ。それは即座に脈を開く契機となった。
彼方は脳裏に浮かんだ朱里のことを、すぐに考えから追い払った。
「天籍に在る者で、闇呪が心を捧げるとしたら誰だろう。脈は愛を以って真名を捧げた翼扶か、仁を以って真名を捧げた主君にしか開くことは出来ないわけで……。闇呪には、どっちも想像がつかないけど」
考えをまとめながら呟いていると、ふっと闇呪に憑く守護を思い出す。
闇呪を護るために生まれた黒麒麟。
「奏。もしかすると闇呪は守護に対して脈を開くことが出来るのかもしれない。僕達は守護を持ったことがないから知らないだけで。それに、各国の守護は王に対して霊脈を開くことができるわけだし」
「そうですね。その可能性もあるでしょうが。――しかし、王が守護に対して脈を開いたという話は聞いたことがありません」
過去の事例に造詣の深い奏が知らないのならば、それは有り得ない理なのだろう。彼方は短く唸ってしまう。奏は面白そうに彼方に指摘する。
「闇呪が翼扶を得たと考えるのは、そんなに不自然ですか」
「いや、そういうわけじゃないけど。むしろ、こっちの世界の人物には心当たりがあるくらいなんだけど。天籍に在る者で、なおかつこちらに渡っていて、闇呪が真名を捧げるなんて。そんな都合の良い人いるのかなって」
奏は興味を惹かれたように、椅子から身を乗り出した。
「こちらの世界で心当たりがある人物とは、どういうことですか」
彼方は朱里に関わるこれまでの成り行きと、自分の感じた当てずっぽうな意見を述べた。奏は無駄話であるとは思わないようで、真剣に耳を傾けている。
「天宮に縁のある者ですか。――闇呪に人並みの情があるのならば、恩義を感じても不思議ではないでしょうね。彼はこちらに繋がる鬼門の守役として、本当はこの天落の地にも馴染みがあるのかもしれません」
「うん、まぁ。理由は色々考えられるけど」
奏は小さく笑った。
「彼女のために鬼を呑んで見せたのが、彼方にとっては余程衝撃的だったのでしょうね」
「だって、あれはひどかったよ。思い出すだけで鳥肌が立つ」
寝台に横たわったままでも、体が震えてしまいそうだった。彼方は嫌な光景を追い払うために、固く目を閉じる。奏の落ち着いた声が、一つのことを示唆した。
「天宮の娘はさておき、闇呪の君に翼扶が在るということは、充分考えられるでしょうね」




