第六章:5 皓露の皇子(こうろのみこ)
激しい痛みに眩暈がするが、ここで気を失ってはいけないと歯を食いしばって気持ちを奮い立たせる。
「涼、どうして? 麟華――」
涼一の突きたてた短剣が、麟華の影を貫いている。まるで影によって縫いとめられたように、麟華はその場から身動きが出来ないようだった。
「どんなに黒麒を呼ぼうが、主に助けを乞おうが届くことはありません。悪しき麒麟も番いでなければ封じるのは容易い。拍子抜けするほどです」
麟華は信じられない者を眺めるように、涼一の暗黒の瞳を見据えていた。悔しそうにぎりっと歯を軋ませる。
「それとも、やはり黄帝が与えて下さった力は絶大なのでしょうか」
「何ですって?」
低く笑う涼一の足元から、影がぬうっと立ち上がる。新たに人影か現れると、涼一がその場にどっと倒れこんだ。この世界に馴染まない長い銀髪が閃く。真っ白な衣装を地面に引き摺り、背の高い男が麟華の前に歩み寄った。場違いなほどに麗しい容姿が、余計に恐ろしげに映る。
「そんな、――皓露の皇子。なぜ?」
愕然と目を見開く麟華に、彼はするりと歩み寄る。依然として短剣は麟華の影を縫いとめていた。美しい顔に笑みを浮かべて、彼は長い袖から白い手を出した。
開かれた掌の上には黒い宝玉のような物が在る。麟華がぞっと体を震わせたのが伝わってきた。現れた男は「ほぅ」と楽しげに呟く。
「さすがに判るのですね。そう、これは黄帝から賜った麒麟の目。輝く体躯の中にある、唯一の闇。これを以って何を成しえるか」
麟華は蒼ざめた顔を男から背けた。成す術がないと言いたげな仕草だった。朱里は何とか麟華を自由にすることはできないかと、激痛に耐えながらずるりと体を動かした。倒れたまま地面に横たわっている涼一が起き上がる気配はない。呼吸をしているか確かめると、翳した掌に息遣いが触れた。
朱里はひとまず彼をそのままにして、更に這いながら進む。あの地面に突きたてられた短剣を抜き取ることが出来れば、麟華は身動きできるのではないかと思ったのだ。麟華が自由になれば、おそらく即座に形勢が逆転するに違いない。
朱里は体を引き摺りながら、男を見上げた。銀髪に似合わない漆黒の瞳をしている。鼻梁の整った顔貌は、どこか酷薄さを滲ませていた。
「私は黄帝の命を以って、悪しき黒麒麟を討伐する」
「愚かなことを、――すぐにその目から手を離しなさい」
麟華のかすれた声がした。彼女は続けて振り絞るように男に向かって叫ぶ。
「いくら皇子であっても、それを手にして狂わぬ筈がない。最大の禁忌を犯してまで、黄帝は何を望まれるか」
「笑止なことを申される。黄帝をそれほどに追い詰めたのは誰なのでしょうか」
「何が言いたいの?」
「麒麟の目は唯一呪鬼を封じる神器。黄帝が望めば守護が差し出す尊き力です。その最大の禁忌を破らせたのは、誰なのかと聞いているのです」
麟華は声もなくうな垂れる。男は「心配には及びません」と優しい声で応じた。
「私の身を案じていただく必要はありません。私は紅蓮殿のような失態は犯さない。自身の中に巣食う嫉妬に呑まれ魂禍と成り果て滅びるなど自業自得です。あの姫宮には相応しい末路かもしれません。しかし、見境のない凶行も少しは役に立ちました。このように主と守護を引き離すことに成功したのですから」
「二の宮が魂禍に、……ひどいことを」
朱里は二人の会話を聞きながら、懸命に這い進んだ。男は朱里に一瞥を向けたが、興味のない仕草で麟華の長い髪を引っ張って顔を上げさせる。
「悪しき定めに縛られていようとも、霊獣であることは変わりません。最大の敬意を払って、その魂魄を討ち取らせていただきましょう。そうすれば、躯が霊獣としての本性を見せてくれるのでしょうか」
すうっと白い袖を振りながら、男が虚空から長い刀剣を引き抜いた。凍てつく銀世界を思わせる白さが、半透明に透き通っている。朱里は自身の体を引き摺って進む腕に力を入れた。
「やめてっ」
這うようにして対峙している二人に向かい、朱里は麟華の動きを封じている短剣に手を伸ばした。
「娘、私はこちらで生まれた者を手にかけるほど非情ではありません。余計なことはしない方が身のためです」
穏やかに言い放ち、男は短剣に触れた朱里の腕を踏みつけた。
「――っ」
短剣の刃先が朱里の掌を傷つける。突き刺さる痛みに顔を顰めながらも、朱里はそのまま短剣の刃を掴もうとして力を込めた。掌から血が溢れ出して、男の引き摺るほど長い白衣が赤く染まる。麟華が激しく首を横に振った。
「やめなさい、朱里。手を離して」
「だって、麟華が……」
裂かれた足の傷から溢れる出血が激しく、朱里は貧血がひどくなっていくのが判る。今にも途切れそうな意識を繋ぎとめてくれるのは、皮肉なことに痛みだった。
「無力な娘」
男は哀れみを込めて呟く。次の瞬間、朱里の胸に強い衝撃が走った。男に蹴り飛ばされて、朱里は短剣から手が離れてしまう。既に負わされていた傷跡から、耐え難い痛みが襲いかかった。かはっと咳き込むと、切れた口の中から血しぶきが飛ぶ。ぐらぐらと視界が揺れて滲みはじめた。すうっと暗く狭窄する視野に、振りかざされた刀剣の白さが飛び込んでくる。
「いやだ、麟華」
朱里は「やめてっ」と声を限りに叫んだつもりだったが、声はかすれて大した悲鳴にならない。色彩を失いつつある沈んだ視界が、溢れ出た涙に濡れている。
「麟華……、いや、誰か、助けて」
朱里は暗転する視界の中で、懸命に声を振り絞る。
「誰か、黒沢先生……」
呟くと、脳裏に鮮やかに彼の姿が蘇った。
いつでも、自分を護るためだけに伸ばされた手。どんなに恐れても、その非情さを哀しんでも、やはり焦がれているのだ。自分は手を伸ばしてしまう。
「……麟華を」
(――助けて、先生)
届かない声を呪いながらも意識が混濁していく。視界が閉ざされると、朱里の世界がふっと暗転した。一面が真の暗闇に呑まれて、目の前から全てが遠ざかって行く。




