第六章:3 日常との隔(へだ)たり
朱里が校庭の片隅をとぼとぼと歩いていると、後ろの方から呼び声がした。あまりにも微かだったので、朱里は空耳だと決めつけて振り向くこともなく正門へ向かう。
「朱里っ、待って」
「朱里ってば。こらぁっ、無視するなぁ」
聞きなれた声が近づいてくる。「朱里」と何度も連発している声は、どこか切羽詰った響きを帯びていた。胸の内はさきほどまでの非現実に囚われていたが、朱里は何事かと立ち止まってすぐに背後を振り返った。
「佐和、夏美まで」
どうしたのという言葉が無意味に思えるほど、幼馴染の二人は必死の形相で駆け寄ってきた。部活動に参加している二人がこんな処に現れるだけでも珍しいのに。
さらに。
佐和は石膏で固められている腕を振り上げて全力疾走しているし、激しい運動を止められている夏美も、活発な佐和に負けない勢いで走り込んでくる。
「ちょっと、二人とも…」
朱里は慌ててやってくる二人に駆け寄った。
「夏美、そんなに走ったら危ないよ。佐和も腕の骨折が悪化するってば」
朱里の危惧をよそに、二人は目の前まで駆け込んでくると「大丈夫?」と声を揃える。状況が呑み込めない朱里に、二人は畳み掛ける。
「朱里が血まみれだったって聞いたから」
「窓硝子が割れて、教室で大怪我をしたって」
朱里の脳裏には、すぐに教室で繰り広げられた一連の事件が蘇った。騒ぎはすぐに噂となり、校内を駆け巡ったようだ。朱里は沈みそうになる気持ちを奮い起こして、とにかく二人に笑って見せた。
「それ、違うよ、二人とも。大怪我をしたのは彼方で、私は同じ教室にいただけ。だから、ほら、どこにも怪我なんかしていないでしょ。大怪我をしていたら、こんな処を一人で歩いていないよ」
「あ、それもそっか」
「良かった」
二人は深く息をついて、力が抜けたかのように頭を垂れる。佐和がすぐに事の真相を聞いてきた。
「だけど、じゃあ、あの人懐こい留学生君は大怪我したんだよね。大丈夫なの?」
「窓硝子が割れたって聞いたけれど、彼方君はそれで怪我をしたの? どうして窓硝子が割れてしまったのかしら」
朱里はどこか後ろめたい気がしたが、東吾に教えられたとおりに答えた。
「それが、突然のことでよく判らないんだけど。……でも、窓硝子が割れて、それで彼方が怪我したのは事実だよ。命に別状とかはないみたいだけど、しばらくは休学するだろうって。本当にびっくりした。私の制服も血だらけになって、さっき着替えたばっかり」
事実を伝えられないもどかしさと、鮮明に刻まれている遥の言動が、朱里の気持ちを暗くする。朱里を案じて駆けつけてくれた二人は、作られた事実を疑うこともなく頷いていた。うまく笑えない朱里を不審がることも無く、事件に遭遇した余韻を引き摺っているのだろうと、労わるように声をかけてくれる。
朱里はこれ以上二人に嘘を重ねることが苦痛で、無理矢理話題を変えた。
「だけど、夏美も佐和も自分の体をもっと労わってよね。ま、佐和が骨折程度で大人しくなるとは思わないけど、夏美の全力疾走にはこっちが焦ったよ」
朱里の指摘には、当の夏美よりも佐和の方が大袈裟に反応した。
「わっ、ほんとだ。夏美も思い切り走っていたよね」
朱里も佐和と一緒に夏美に視線を向ける。夏美は二人の注目を浴びながら、可愛らしく腰に手をあてて胸を逸らせるような素振りを見せた。
「心配しなくても大丈夫。実はね、最近ものすごく体の調子が良いみたいなの。担当の医師もびっくりするくらい。このままいけば、体育の授業に参加する日も近いと思うわ」
「本当に?」
佐和と声を揃えると、夏美は満面の笑みで頷く。たしかに朱里の目から見ても、最近の夏美は溌剌としていた。
「やったー」
佐和と手を取り合って喜んでいると、夏美が「大袈裟ね」と恥ずかしそうに笑った。朱里にとっては、沈みがちな日々に久しぶりに嬉しい朗報だった。
しばらく校庭の片隅で二人と他愛のない会話を続けていたが、朱里が何気なく正門を見ると、見慣れた人影が視界に映る。
高等部の美術教師でもある麟華が、ひっそりと朱里の様子を見守っていた。朱里が巻き込まれた経緯は、既に姉の麟華にも届いているに違いない。
佐和と夏美もすぐに麟華の存在に気付いたらしい。朱里は部活動を抜けてきた二人をこれ以上引き止めているのもどうかと思い、改めて「ありがとう」と笑った。
「誤解だったとはいえ、二人には心配をかけたみたいでごめんね。だけど、部活抜けてまで追いかけてきてくれたのは、嬉しかったよ」
「うん。まぁ、私達も朱里が無事だと判って安心した」
「本当に」
朱里は正門を振り返って、もう一度姉の姿を確かめた。
「麟華が待っているみたいだから、私はもう帰るね。二人も部活に戻って」
佐和と夏美が「うん」と頷いた。
「そんじゃ、そろそろ部活に戻ろうかな。じゃあね、朱里」
佐和がひらひらと手を振る隣で、夏美も「またね」と軽く手をあげた。
朱里が応えるように手を振ってから踵を返すと、しばらくしてから佐和の闊達な声が追いかけてきた。
「朱里っ」
呼び止められるとは思っていなかったので、朱里は驚いて振り返る。佐和も夏美も見送ってくれていたらしく、まだ同じ位置に立っていた。佐和は一呼吸置いてから、思い切ったように続ける。
「朱里さ、何かあったら私達にも相談するんだぞっ」
朱里は小さく「え?」と呟いてしまう。小柄な夏美も、背の高い佐和の隣で同じように声を張る。
「いつでも話を聞くからね」
「――…」
咄嗟にこみあげてきたものを、朱里は奥歯を噛み締めてこらえた。幼馴染の二人には、自分の中を駆け巡っている不安を見抜かれていたのだ。全てを吐き出したい衝動に駆られたが、すぐに思いとどまった。二人を信頼していないわけではない。信頼できる親友だからこそ、巻き込まれる可能性を考えずにはいられないのだ。これまでのように、簡単に泣きつける事情ではないことを、朱里は既に認めてしまっている。
(これ以上、二人に悟られてはいけない)
今までと同じ、何も変わることのない自分を演じ続けなければ気付かれてしまう。巻き込んでしまったら、以前、夏美に影響が及んだように、それ以上に二人を傷つけることになってしまうのかもしれない。
泣きたくなるのをやり過ごして、遠目にも二人に判るように朱里は笑ってみせた。何かを振り切るように、大きく声を出す。
「二人とも優しすぎっ。なんか怪しいよ」
朱里が茶化すと、佐和が「なんだとぅ」と反応した。朱里は笑いながら「でも」と続ける。
「二人のことはいつも頼りにしているよ」
元気良く本音をぶつけながら、朱里は大丈夫だと言いきかせる。こんふうに自分を思いやってくれる、その気持ちを感じるだけで頑張れる気がした。
「もし泣きつくことがあったら、その時はよろしく」
二人の憂慮を吹き飛ばすように、朱里は大きく手を振って見せた。精一杯の演技は効果をもたらしたようで、佐和と夏美は顔を見合わせてから可笑しそうに笑いあっている。
佐和が再び朱里に手を振った。
「よしっ、じゃあね、朱里」
「うん、またね」
答えながら、今度は朱里が立ち去る二人の後姿を見守っていた。真実を語ることの出来ないわだかまりよりも、今は二人の気持ちが温かい。
校庭から二人の姿が見えなくなると、ようやく朱里は正門へ向かって歩き出した。




