第五章:6 非情で酷薄な一面
いたぶるように、女がひゅるりと刀剣を振り下ろした。朱里が咄嗟に目を閉じると、ふわりと風が動く。恐る恐る目を開くと、至近距離に立ちはだかる後ろ姿が見えた。景気の良い音を立てて、彼方が自身の剣で女の刀剣を止めていた。
―――憎い、憎い、憎い、口惜しい。
女の想念が、辺りに充満している。夏美の時と同じように、胸のうちに抱えた女の憎しみが溢れ出していた。
「紅蓮の宮、どうして」
彼方の問いかけには、答えが返ってこない。ぎりぎりと対峙している二人を目前に眺めながらも、朱里には何が起きているのか判らない。夢を見ているのではないかという思いに捕らわれる。
剣を受け止めたまま、彼方がじりじりと間合いを詰める。朱里から女を引き離そうとしているようだが、力では押されているように見えた。
「彼方」
歯を食いしばって耐えている彼方の横顔から、血の気が失われていく。朱里の声に、彼が振り絞るようにして答えた。
「もう、駄目。委員長、この隙に逃げて。僕の剣では敵わない」
言い終わらないうちに、彼方の剣先が粉々に砕け散った。一瞬、その破片がきらきらと輝いて辺りに広がり、音もなく消えていく。
障害物を失った女の刀剣は、再び朱里に狙いを定める。
「委員長、逃げて」
彼方が力なく叫んだ。力を使い果たしたかのように、彼がその場に崩れ落ちる。朱里は咄嗟に彼の上体を抱きかかえるように手を伸ばした。
「――委員長、何して……」
彼方を抱えると、女は小さな獲物をいたぶるように嗤う。目の前に踊り出た獲物を逃さぬように、素早く剣を振りかざした。朱里はその後の衝撃を覚悟して目を閉じる。ぎゅうっと彼方を抱えた腕に力を込めた。
身の縮むような、一瞬の空白。
どっと鼓膜を刺激する鈍い音が響く。覚悟した衝撃は訪れず、朱里はゆっくりと目を開いた。緋色の着物が視界に飛び込んでくる。時間が静止したように、女の姿は剣を振り上げたまま止まっていた。
朱里は一瞬前と同じ光景の中に、艶やかに輝く剣先を見つける。
女の胸元から突き出た刃先。貫いた身体から流れ出る血がくすんで見えるほど、鮮やかな漆黒。
――おのれ、私を阻むか。
女は怒りに高ぶったかのように、白い顔を歪ませた。
「その魂魄を以って、魂禍を祓う」
立ち尽くしたままの女の背後から、よく通る声が囁くように呟いた。
聞きなれた遥の声だった。
朱里は窮地を脱したのだと安堵して、抱えていた彼方から手を離した。力が抜けて、へたりとその場に座り込んでしまう。
「副担任」
彼方も遥の登場に気がついたようだ。立ち上がることが出来ないまま、遥を仰いでいた。
朱里はぽたりと、自分の上に落ちかかってきたものに気がつく。
目の前で、女の身体を貫いた刃先からみるみる血が伝い、朱里の制服に染みを作る。生地越しに肌に触れる血が、たしかに温かい。体温を宿している。
――憎い、憎い。我が一族の汚れ。
鬼面のように恐ろしい形相で、女は凝り固まった想念を吐き出し続ける。朱里は顔を背けたが、零れ落ちる血の温もりが、女が生きた人間であることを突きつけた。
「せ、先生――」
救う方法はないのかと、朱里は遥を見上げた。女が鬼に憑かれているのは明らかである。幼馴染の夏美が救われたように、女を救う術がないのかと考えてしまう。
決して遥の身を犠牲にしたいということではない。けれど、このまま命が絶たれることを快諾することが出来ないのだ。
女が異世界の者である事は間違いがない。だとすれば、夏美とは違う方法で救う手立てがあるのかもしれない。朱里は一縷の希望に縋る思いで問いかける。
「この人は、もう救えないんですか?」
それが遥に対して犠牲を強要しているのだと考えている余裕がなかった。溢れる血の温かさが、朱里に死だけを突きつける。
彼方が労わるような目で、朱里を見つめているのが判った。
「委員長、これは――」
何かを言いかけた彼方を遮るように、遥の酷薄な声が響いた。
「残念ながら、救う価値があるとは思えない。私は正義の味方ではないからな」
朱里の希望を打ち砕くように、突き放した答えだった。彼の無表情さが、女の魂魄を惜しんでいないことを伝える。心が痛まないことを的確に物語っているように感じた。
朱里は遥の非情な一面を見せつけられて、何も言葉にならない。
遥は躊躇うことなく身動きする。身体を刺し貫いた鋭い漆黒に力が込められたのが判った。
「せ、先生、待って」
朱里の悲鳴に、遥の声が重なった。
「――穏やかに、巡れ」
貫いた女の身体を引き裂くように、遥が剣を握る手に力を込める。迷いのない一刀に、女の断末魔の悲鳴が重なった。朱里は固く目を閉じて、ひたすら耳を塞いだ。
再び辺りが静寂に包まれると、朱里の嗚咽だけが響いた。止めようとしても、涙が込み上げてくる。恐れているのか、哀しんでいるのかわからない。仕方がないと判っているのに、気持ちが割り切れないのだ。
朱里は涙に濡れた視界に、ぐったりと力を失った女の亡骸を捕らえた。遥の腕に抱かれて、目を閉じている。
影色に染められていた頭髪が、目の覚めるような緋色に変化していた。紅蓮の炎のように、美しい癖を持つ髪質。閉じられた瞳は、おそらく明るい朱の瞳をしているのだろう。女の素性がわからない朱里にも、そんな想像がついた。
遥に抱き上げられた身体は半身が血に染められている。白い顔は眠っているかのように穏やかで、ただ美しかった。
朱里が涙を拭いながらしゃくりあげると、遥は浅く笑う。まるで女に情けをかけることを嘲笑うような非情さがあった。
「君はあの幼馴染のように、私にこの身を投じて救えと言う」
朱里はハッとして遥を見つめた。彼は感情の読めない表情でこちらを見下ろしている。朱里には女の魂魄と遥の犠牲を秤にかけたつもりはなかった。ただ無我夢中で縋ってしまったのだ。けれど、縋りついたその手は、たしかに遥に身の犠牲を強いていた。そんなつもりではなかったのだと、朱里にははっきりと言い切ることが出来ない。
この上もなく残酷なことを、彼に選択させようとしたのだ。
「残念ながら、私はそこまで優しくない」
彼の声が冷たく響く。朱里は心が凍りつきそうだった。痛みを感じる。
自分がどうしようもない我儘な希望を抱いたのだと判っている。夏美を救うために、彼がとれほどの苦痛を受けたのかも知っている。
あの緋色の髪をした女性を救うことは、誰にも出来なかったのだ。
朱里はそう言い聞かせて見たが、どうしても突き刺さった小さな棘が抜けない。
彼はいとも簡単に見捨てることが出来るのだと。
人の死を嘆くことも、悼むこともない。
魂魄を奪うことに、躊躇いも苦悩も感じない。
非情な心だけが、鮮明に焼きつく。
(だけど、それは、きっと私のせいだ)
既にこの涙は、女の亡骸を悼んでいない。朱里は自分の身勝手さを思い知る。遥の背負う役目の過酷さが、哀しすぎるのだ。朱里は涙を拭って、気持ちを切り替えようと努めた。
遥が負う残酷なくらいに非情な役回り。それは誰でもない、きっと朱里が彼に与えてしまった。
自分のために、彼は心を失っていく。
朱里には彼の非情さを責める資格はない。責める事など、許されるはずがないのだ。
これ以上彼が非道な行いに染まらぬよう、ただ祈ることしかできない。
「委員長、あのさ」
彼方がぐったりと座り込んだまま、涙を堪えている朱里に声をかける。けれど、彼の労わるような声は、すぐに遥の言葉によって遮られた。
「彼方、余計な説明はいらない。それが朱里のためだ」
どこまでも非情な態度だった。彼方はじっと遥を見上げていたが、何かを感じたのか「うん、そうかもね」と呟いたまま口を閉ざした。
やがて見計らったかのように東吾が現れ、速やかに事後処理を行う。全てを東吾に委ね、三人はただ指示に従った。
校舎を出る頃になっても、朱里は二人と言葉を交わすことができなかった。




