第五章:5 紅蓮(ぐれん)の宮
土曜日の授業は午前中で終了する。朱里は終礼が済むと、自習室か図書館へ足を向けてみようかと考えていた。
今日からは遥も副担任として復帰を果たしている。朱里は彼の復職を喜ぶのは自分くらいだろうと思っていたのに、意外と喜んでいる級友の様子に少なからず驚いていた。遥の変人っぽい様子は、一つの個性として生徒達に受け入れられているらしい。授業もどこでそんな知識を仕入れてくるのか、分かりやすいのだ。付け加えて、人当たりの柔らかさが親しみやすいのかもしれない。
遥はいつのまにか、平凡な副担任としての立場を築いていたようだった。
何事もなく半日が過ぎて、朱里は部活へ向かおうとしている幼馴染と挨拶を交わす。夏美と佐和を見送ってから、同じように教室を出ようとすると、背後から声をかけられた。
「委員長」
振り向くと、彼方がいつもの人懐こい笑顔で立っていた。彼は双子の警告を気にしているのか、遥の存在を警戒しているのか、同じ教室にいても必要以上に朱里と関わることはない。けれど、何気なく様子を窺っていると、それは朱里だけではなく、級友の誰に対してもそんな立場を貫いている。人懐こい留学生を演じながらも、明らかに境界線があった。異世界の住人として、こちらの世界に深く関わる事を禁じているのかもしれない。朱里の目には、そんなふうに映っていた。
「どうしたの? 彼方」
朱里は珍しいと思いながらも、少しだけ警戒している自分を無視できない。彼方が朱里に関わるときは、必ず異世界の事情が絡んでいる。夢の中で蘇る光景が、朱里に多くのことを教えた。成り行きは判らないが、不用意に自分の正体が知られてはいけない気がしたのだ。彼方が遥の味方でない限り、馴れ合うことは出来ない。いずれ遥を追い詰めてしまう要素にならないと言い切れない。
彼方が自分のことを、異世界の接点となる天宮の縁者であると認識しているのなら、それで良いと思っていた。朱里は彼方が何を語りだすのかと、恐れてしまう。
「えーと、あのさ。実は委員長にお願いがあるんだけど」
「お願いって?」
無邪気な様子からは、何の深刻さも感じられない。朱里は今までのように気を許して聞き返した。
「副担任、しばらく委員長の家で厄介になるって言っていたよね」
朱里は再び気持ちが張り詰めたが、素直に頷いた。
「うん。まだ調子が万全じゃないみたい。うちには麟華と麒一ちゃんもいるし、何かと都合が良いみたいだよ」
「うん、それはすごく理解できる。でさ、実は副担任に会わせたい人がいるんだ」
「ん? それって、先生の処へ行けばいいんじゃないの」
朱里が指摘すると、彼方は困ったように笑った。
「もちろん、それは判っているんだけど。少しだけ保険をかけておこうかなって。ほら、副担任って、なぜか委員長の言うことを良く聞いてくれるでしょ。だから、委員長の知り合いだって紹介してくれると、少しでも緊張感がなくなるかなと」
朱里は自分の顔が険しくなってしまうのを自覚する。
「それは、彼方の国の人?」
「――うん。きっと副担任も知っている人だと思うんだけど」
「だったら、なおさら私に頼むより、普通に会いに行くほうが……」
遥に得体の知れない人物を近づける気にはなれない。ましてそのために自分が何かを偽るなんて考えられなかった。朱里は潔く、ぺこりと彼方に小さく頭を下げる。
「ごめん、彼方。私は先生に嘘をつけない」
彼方は予想していたのか、食い下がることはなく引き下がった。
「何となく、そう言うだろうなって思っていたよ。委員長は副担任の味方だからね。あ、そんな申し訳なさそうな顔しなくて良――っ」
彼方の声が不自然に途切れた。朱里もぞっと肌が粟立つのを感じる。冷気にも似た不穏な気配が、背後に充満する感覚。
振り返ると、陽光が形作る室内の影が不自然に伸びて蠢いている。禍々しい生き物のように、影はどこまでも膨張を始めた。
「――っ」
朱里は小さく悲鳴を上げた。異様な光景に立ちすくんでいると、彼方が腕を掴む。目の前に立ち上がる巨大な影から遠ざけるように、力を込めて背後まで朱里を引っ張った。
「何の気配も感じなかったのに」
「か、彼方。これは……?」
彼方にとっても異常事態なのだろう。精悍な横顔が強張っている。浅黒い右手がすっと虚空を掻くように動いた。どこから取り出したのか、彼は美しい水面を映したかのような碧色の刀剣を握っている。
いつか遥が漆黒の刀剣を取り出した時と同じだった。
「僕にも何が起きているか判らない。だけど、これは鬼だ。委員長、とにかく下がっていて」
朱里は言われたとおり、更に教室の隅へと後退した。周りを見ると、いつのまにか級友たちは姿を消している。教室に二人だけ残された途端、その異変が起きたようだった。
見上げるほどに肥大した影が、震えるように蠢く。朱里はその闇色の中に、ちらりと緋色が差すのを見た。見間違いかと目を凝らしていると、まるで暗黒の通路から渡り来るように、緋色の着物が現れる。
引き摺るほどの裾を捌き、豊かな袖を持て余すように。
場違いなくらいに艶やかな衣装は、十二単を彷彿とさせた。ずるりと影の中から現れた人影。細かく波打つ黒髪を長く垂らし、艶のない漆黒の瞳でこちらを見ている様は、ひな祭りに飾られる人形のように生気がない。
この上もなく美しく飾られているのに、不気味な女だった。
細やかな癖をもつ長い黒髪は依然として背後の影に繋がり、輝きのない瞳は暗黒を映しているかのように暗い。
「まさか、紅蓮の……、どうして」
彼方が信じられないものを見るように、現れた女を見ている。小さく「紅蓮の宮」と呟いたのが、朱里にも聞こえた。女は剣を翳す彼方の姿には目もくれず、後ろで震えている朱里を見据えている。
赤く塗られた唇が、恐ろしいほど口角を上げて笑った。
「その浅ましき姿よ」
真っ直ぐに朱里を捉えて、女は影に繋がれたままつっと進む。
「この目はごまかせない。その顔貌が、ひどく癪に障る。おまえ如きが、そのような大役を果たせようはずがない」
「紅蓮の宮っ」
彼方が女の前に立ちはだかり、叫んだ。
「一体、御身に何があったのですか。その姿は、一体どうなさったのですか」
彼方の声は、女の耳に入らないようだった。
「丁度良い。一族の汚名、その魂魄で償うが良い。全てを奪われた先代の恨みが、おまえに判ろうか」
罵るように繰り返される言葉が、まるで呪いのように朱里を震え上がらせる。全く身に覚えのない出来事を語られて状況が把握できない。女が正気であるとは思えなかった。
袖に隠されていた女の白い手が、すらりと中空から剣を抜く。血の色のように赤い刃先が、ぴたりと朱里を捉えた。女は高く笑い、教室の端に追い詰められた朱里に近づいていく。
「この憎しみ、おまえに判ろうか」




