第四章:4 深く刻まれた気持ち
冬の訪れを示すように、深夜の外気が冷たい。朱里は寝間着の上に簡単な上着を羽織って、自室から続いているベランダへ出ていた。
今日一日を振り返りながら、色々なことに考えを巡らせる。
放課後に起きた衝撃的な出来事の余韻が冷めないまま、朱里は遥と共に、無事に学院から帰宅した。
遥に刺し貫かれた女性のその後も気になったが、どこか現実感を欠いている。彼女との出会いで明らかになったこと。夢で辿る光景と符号する女性の顔貌。語られた言葉。確かに彼女との出会いは朱里に新たな憂鬱の種を撒いてくれた。
けれど、それ以上に胸に深く刻まれているのは、朱里の語ることを初めから拒絶している遥の態度だった。
泣きたいような気持ちで帰宅すると、麒一と麟華が朱里に一つの提案をしてきた。遥をこの邸宅に滞在させるというのだ。理由を聞いてみると、ただ最善の策であるという。おそらく彼らの世界の事情が関わっているのだろう。朱里に窺い知ることが出来るのはそれだけだった。例え具体的に説明されても、理解できないに違いない。
朱里は理由について、深く追求しなかった。
遥を邸宅に迎えることについて、自分が肯定的であることは否定しない。少し前までなら、小躍りしたいくらい喜んだだろう。けれど、今は自分の中であらゆる事情が交錯していて、手放しに喜ぶことが出来なくなっていた。
複雑な思いに駆られてしまう。
遥の示した拒絶を目の当たりにして。
彼を好きになってはいけないと釘を刺されながら、彼の身近で過ごす日々を強いられる。
傍にあれば、朱里はその立ち位置を変えることが出来ない。既に遥への想いが、すぐに切り捨てられるような簡単な気持ちではないと判っている。
判っていても。
近くにいなければ、いつかこの胸に巣食っている想いが費えるのかもしれない。それが、わずかな希望だった。
出口のない箱庭の中で見つけた隠し扉のように、朱里にとってはわずかに残された逃げ道だったのだ。
一過性の熱病。
綺麗な思い出となって刻まれるだけの初恋。
本当は気持ちを自覚したときから、切ない思い出として終わることを期待していたに違いない。
どこかで綺麗な恋心を思い描いていた自分。
届かない想いに苦悩することも、いつか懐かしい思い出になるだけなのだと。
叶わなかった初恋として、美しい思い出になると。
そんな幻想を抱いていた。
今はもう、綺麗事だけを思い描くことが出来ない。手に入らない想いを追い続けて、自分は奈落の底まで落ちていく。道を踏み外してしまうのかもしれない。
(――こわい……)
遥への想いが。
こんなにも思い詰めてしまう自分が。
胸の奥底に刻まれた罪悪がある。理由が失われたまま、ただ強く。
――この想いは世界を滅ぼす。
手を離さなければ人々を苦しめる。全てが失われてしまう。
朱里は羽織っている上着の前を掻き合わせるように、強く両手に力を込めた。どこからか胸に去来する想い。それは不自然なくらいに、朱里の中に芽生えた遥への想いと交わっていくのだ。何の齟齬もなく、自分の気持ちとして。
深く刻まれている。
(私は……)
その先を考えることが恐ろしくて、朱里は凍えるように身を小さくする。
既に全てが憶測ではなくなりつつある。自分の中にある、たしかな証。
この想い。
(私が、朱桜なのかもしれない)
夢の中で見た光景。朱桜が闇呪に抱く想いは、手に取るように辿ることが出来る。
彼女は闇呪に惹かれていた。自分が遥を想うように。
(……嫌だ)
思い過ごしだと目を逸らしたい。ただの偶然なのだと。
全てが自分の妄想で、何の根拠もない夢を見ているのだと。
(夢を見るのがこわい……)
鮮明な夢はごまかすこともままならないほど、いつか朱里に真実を突きつけるのかもしれない。強すぎる気持ちも、想いと共に湧き上がる罪悪も、輪郭を持たない感情の全てが、形になってしまうのかもしれない。
「朱里ったら」
ふいに背後で呼ばれて、朱里ははっと振り返った。
「麟華、どうしたの?」
いつのまに現れたのか、麟華がベランダから続く開け放したままの窓の前に立っていた。
「こんな夜中なのに、まだ部屋から灯りが漏れているんだもの。ノックしても返事がないから、勝手に入っちゃったわよ」
「あ、ごめんなさい。ちょっと、星を見ていたの」
麟華に夢を見るのが恐いとは言えない。夢で辿る光景が、過ぎた日の出来事だと突きつけられることを恐れてしまう。眠れないのだと素直に言えなかった。
朱里が慌てて取り繕うと、麟華は顔をあげて夜空を眺めてから、目を細めて妹を睨む。
「へぇ、こんなに曇っているのに? 朱里には星空が見えるのね。へえぇ」
皮肉をこめて大袈裟に感嘆しながら、麟華も同じようにベランダへ出てくる。朱里の隣に立って、「こら」と指先で妹の額を弾いた。
「イタッ」
「嘘をつくから、バチを当ててあげたわ」
「もう、私だって色々と考えたいことがあるのっ」
むくれて姉を見上げると、麟華はふっと表情を改める。
「朱里は、黒沢先生がこの家にいるのが嫌なの?」
唐突に聞かれて、朱里は思わずうろたえてしまう。自分の複雑な心境を見抜かれたのかと再び慌てた。
「別に、嫌ということは……」
「だって、朱里の様子がおかしいんだもの。私はもっと喜んでくれるかと思っていたのに」
麟華は残念そうに吐息をついて、ベランダを囲う塀から身を乗り出すようにして、上体を預けた。朱里は遥の滞在を提案された場面を振り返る。既に三人は申し合わせていたようで、遥もただ朱里の様子を見守っていた。
あの時、素直に喜べなかった自覚がある。そのせいだろうか。遥は「すまない」と静かに詫びていた。
朱里は周りに対して思いやりを欠いた態度だったのだと、今更になって反省してしまう。けれど、反省してみるものの、やはり複雑な心境は変わらない。
思わず、麟華にぽつりと漏らしてしまう。
「私、喜んでもいいのかな」
「え?」
麟華は意味が判らないのか、不思議そうに朱里を見た。朱里は秘めていることが出来ず、目の前の姉にぶつけてしまう。
「麒一ちゃんが、先生を好きになっては駄目だって。――でも、私、先生が好きなの」
突然の告白に、さすがの麟華も戸惑っているようだった。すぐに反応がない。朱里はやはり姉にとっても歓迎できない事実なのだと胸が塞ぐ。けれど、一度言葉にすると、想いは更に力を伴って朱里を突き動かした。
「すごく、先生が好き。自分でもいけないって判っているのに止められない。……でも、好きなの。ずっと、傍にいたいと思ってしまう」
麟華を困らせると判っているのに、朱里は想いを語ることがやめられなかった。今まで閉じ込めていた反動なのか、気持ちが急激に上り詰めて涙となって溢れ出てしまう。冗談だとごまかすこともできず、朱里は嗚咽を繰り返した。




