第四章:3 幻獣趨牙(すうが)の関わり
「――碧宇の王子が……」
話を聞き終えると、奏は沈痛な面持ちで彼方を見つめた。労わりの色が見える。
「信じられませんが、――でも、事実なのですね。あなたに謀反の疑いあるという事実も、私は初耳です。いえ、天界ではそのような話はなかった筈です」
「だけど、白虹――じゃなくて、奏がこちらへ来てから、何かが起きたのかもしれない」
「それは、もちろんないとは言えませんが。……ですが、私はこちらへ来る前に碧の玉花を訪れました。それが、既に碧宇の王子が天界を離れた後の話です。妹はあなたの帰りを待ちながら、変わらずに過ごしていましたよ。王である緑の院も、あなたの放浪癖について手を焼いているようでしたが、それでも何かを懸念している様子はありませんでした。碧宇の王子は、黄帝の命を受けて異界へ渡られた後なので、もちろん不在でしたし」
奏はそこで言葉を切ると、彼方に問いかける。
「あなたは相称の翼について、黄帝が明かしたことはご存知ですね」
「あ、はい。ここに来る前、兄上が教えてくれました」
彼方は天界で兄が教えてくれた事実を、奏にも語って見た。奏は「玉花にも、その成り行きは聞いていました」と頷く。彼方は強引に自分を羽交い絞めにして頬ずりをしてくる兄を思い出して、既に回復しているはずの肩に痛みを感じたような気がした。そっと切り付けられた処に、手を当てる。
「あの時は、まさかこんなことになるなんて、思わなかったのに」
ぼそりと呟くと、奏は再び労わるように眼差しを細めて、彼方を見つめる。
「私にも、碧宇の王子に何があったのかは判りませんが。私よりも先に、黄帝の命を受けた国の後継者達が鬼門から旅立ったのは事実です。もちろん、碧宇の王子も」
「じゃあ、こちらに渡っているのは、兄上だけではないんだ」
「こちらで相称の翼の行方を追っているのは、各国の後継者となる者達です」
「各国ということは、……継承権一位の後継者が、四人も?」
「相称の翼は、今や世界にとって最優先事項です。その影には闇呪の思惑が介しているとも考えられている。王の次に力在る者をおくるのは当然でしょうね。黄帝の指示に異論が出るはずがありません」
「確かに、そうかもしれないけど」
彼方は座卓に頬杖をついて考える。
奏の教えてくれた天界の様子をなぞってみても、兄が自分に向けた凶行の理由は明らかにならない。とりあえず天界に在る雪が平穏に過ごしていることだけが、心から良かったと安堵できる事実だった。
「天界で僕の濡れ衣が語られていないのだとすると、兄上はこの異界に来てから吹き込まれたのかな。だとしても、誰がそんなことを吹きこむんだろう」
「――気になりますね。よほどの理由がない限り、弟の嫌疑など信じるに値しない筈です。聞く耳を持つはずがありません。それに、例え黄帝であっても、碧の王子を裁くには、それなりに事実を示す必要があります。碧宇の王子のやり方では、暗殺と変わりません。秘密裏に王族を手にかけるなど、考えられませんが」
奏の言葉に頷きながら、彼方はあらゆる推測を立ててみる。けれど、どれもがうまく噛みあわない。
兄である碧宇を、あれほどに豹変させる理由が思いつかないのだ。天界の様子を聞く限り、黄帝が公に彼方を罪人として取り上げた訳でもないだろう。
彼方には、これまでにも何かが狂っているという漠然とした思いがあった。
見過ごしてはならない狂い。
どこで何が狂っているのか。それが形にならない。
けれど、ここに来て急激に、今まで目に見えなかった齟齬が少しずつ形を取り始めたような気がしていた。この異界で自分の目に映った、幾つかの真実。
描かれはじめた輪郭を辿っていくと、彼方は闇呪の立場が気になった。人々に極悪非道な禍と語られてきた事実。それが真実ではないことを、彼方は既に悟ってしまった。
悪の虚像として作り上げられた立場。
今も誰もが疑うことなく、彼が相称の翼を奪ったと信じている。
彼方自身も例外ではない。
けれど、闇呪の罪は、全てが非道であるという噂の延長に作り上げられた役回りなのではないのだろうか。
それとも、自分が既に何らかの罠にかかってしまったのだろうか。
世界を破滅へと導くために描かれた策略に、禍となる闇呪の仕掛けた罠に、陥っていないと言い切れるのだろうか。
判らない。
「あー、駄目だ。考えるだけグルグルする。頭が破裂しそう」
彼方は思考のパラドックスに陥ってしまい、がしがしと髪の毛を掻き揚げる。同じように黙り込んでいた奏も、彼方と同じようなことを考えていたのかもしれない。
「今更ですが、それでも腑に落ちないことが多すぎますね」
奏の目には、白刃の切っ先を思わせる理知的な光があった。彼の中にある膨大な知識によって、新たな事実が何かを導き出すのだろうか。
押し黙ったままの奏を見つめて、彼方はふと不安に駆られた。
奏は彼方以上に闇呪に対する思い入れが強い筈なのだ。
彼方はこちらで出会った闇呪の印象を、かなり肯定的に奏に語ってしまった自覚がある。
聡明な彼の判断を狂わせないかと、少しばかり不安になった。偏った思い入れは、時として真実を見えなくしてしまう。
「彼方。私が闇呪の君に会うことは可能でしょうか」
突然の提案に、彼方はすぐに答えられない。奏は強く思いを語る。
「彼方の話によると、闇呪は白露に関わった出来事を認めたということですが。それでも、私はこの目で白露を救った者が、彼であったのかどうかを確かめたいのです」
奏が現れたときから、彼方には予想できた成り行きだった。闇呪が見境なく相手を切り捨てるような人間ではないことも、これまでの経験から明らかだった。
奏の希望はたやすく叶う。
彼方はそれが正しいことなのか、一瞬だけ判断に迷った。けれど、すぐに自分を裏鬼門まで送り届けてくれた、皓月の金色の体毛を思い出す。
暗がりに在っても、ぼんやりと辺りを照らす輝いた体躯。
霊獣――趨牙。天意を示すという幻獣の関わり。
彼方の迷いを振り切るには充分な存在だった。
自分も彼も歩み始めた第一歩には、幻獣である皓月の導きがあるのだ。自分達の進むべき道は、既に決められているのかもしれない。
いずれ、あるべき処にたどり着くように。
彼方は皓月の示した天意を信じて、憂慮を振り払う。今は迷わず、進むことしか出来ないのだ。
「多分、可能だと思います。僕達の素性は完璧に整えられているので、学院に入ることを不審に思われることはないはずです。ただ、奏の容姿はこちらでは珍しいから、注目を浴びるとは思うけれど。どちらにしても、闇呪が天籍に在る僕達を見分けるのは簡単だし、僕たちが彼を見分けるのも簡単です」
素直に語ると、奏はただ微笑んだ。彼方よりも大人びた容姿は美しく、手を組み合わせるだけの仕草が、優雅に見える。嫌味のない色気を漂わせた灰褐色の瞳。
学院で見る女子生徒は溌剌としていて、いつでも愛でるべきものを追いかけている。彼女達が奏を見て黄色い声をあげるのが、彼方にはたやすく想像できた。
頭の片隅で、冴えない教師を演じている遥――闇呪を思い出す。醜悪であると思い込んでいた予想を裏切り、彼は端正な素顔をしていた。綺麗な横顔を思い出すと、彼方は下手な変装もあながち無駄ではないのかもしれないと、場違いな感想を抱いた。




