第三章:1 禁じられた恋
全ての授業が終了してからも、朱里は教室に残ったまま放課後を過ごしていた。昨日までは学校が終わると一目散に帰宅していたが、今日はそんな気分になれない。幼馴染の佐和と夏美が、久しぶりに教室で放課後を過ごしている朱里を、散々からかってくれた。彼方がほのめかしてくれたように、二人は朱里の副担任に対する思い入れを恋と結び付けようとしていたようだ。
夏美と佐和の誤解――とも言えないが――は、既に二人の中で出来上がってしまっている。朱里がどんなに否定しても焼け石に水なのだ。
副担任の為に帰宅を急がなくなった朱里に対して、二人は「冷たい」と的外れな感想を漏らすほど思い込みを完成させていた。
朱里は二人の追求に戸惑ったが、今は親友の妙な詮索すらもありがたく思える。彼女達と賑やかに過ごしていると、出口のない迷路を彷徨いそうになる気持ちが紛れてくれるからだ。
二人はさんざん朱里を肴にして盛り上がった後で、はたと時計を見て仰天すると、慌てて部活動へ行ってしまった。夏美はついに家庭部へ入部したようで、楽しく放課後を過ごしている。佐和も骨折した腕を吊りながら陸上部に顔を出して、出来うる限りの雑用をこなしているらしい。
二人が教室から出て行くと、朱里は独りきりになってしまった。他に教室に残っている生徒はいない。時刻は既に五時を刻もうとしている。朱里は慌てて教室を出て行った二人を思いながら、小さく笑ってしまう。
下手な芝居だと思ったのだ。
幼馴染の二人には、落ち込んでいる自分を見抜かれていたのだろう。こんな時間まで部活動を後回しにして相手をしてくれたことが何よりもそれを証明している。
朱里は親友に心の中で感謝しながら、開け放したままの教室の窓から校庭を見た。 走り回っている運動部の喧騒が聞こえてくる。
秋も深まり、夏のように陽が長くない。暮れなずむ校庭の向こう側に、見事な夕焼けが広がり、上空には澄んだ夜色が深くなりつつあった。
朱里は自分の席についたまま、頬杖をつく。
(佐和と夏美には、意地をはらなければ良かったかな)
落ち込んでいると気付きながらも、朱里に深く問う事をしない親友。二人は沈む気持ちを引き上げるように、ただ話題を振りまいて笑ってくれる。
幼い頃からの付き合いで、朱里が心地良く感じる距離感を知っているのだろう。もちろんそっとしておいてくれる配慮にも限度はある。とくに佐和は堪え性がないので、あまりにも煮え切らないと勢い良く暴かれてしまうが、それはそれで、いつも絶妙のタイミングだったりするのだ。
朱里は机に突っ伏すようにして、顔を伏せた。
誰かに全てを打ち明けてしまえれば、胸に広がる翳りが晴れるだろうか。
(先生のこと――、だけど、何をどう話せばいいのか分からない)
異世界の介入。
それだけで俄かには信じがたい話になってしまう。
遥や彼方とありえない体験をした朱里ですら、途方もない夢物語ではないかと思う時があるくらいなのだ。
全てを語ることはできない。
(説明できないけど。……でも)
せめて普通の片想いを語るように、うまく話をまとめることはできないだろうか。朱里はこれまでの成り行きを思い起こして、先生に恋をしただけの生徒の物語を捏造してみようと試みる。
(でも、どうして……)
ぐるぐると不毛な想像を続けていると、朱里はふと引っ掛かりを感じた。
(どうして、こんなに苦しいんだろう)
こんなにも心を奪われてしまった。
遥を好きになってしまったことが、苦しいのだ。
まるで取り返しのつかない罪を犯すかのように、ただ想う事すら許されない。
絶対に黒沢先生を好きになってはいけないのだと。
麒一の警告が、暗く渦巻いている。
自分の中に芽生えた想いが恐ろしい罪過である気がしたのだ。
遥への想いは、ただそれだけで罪。
決して誰にも打ち明けてはいけない罪。麒一の背中がそう語っているように思えた。それが憂鬱の始まりだったのだろうか。
それとも、もっとずっと、前から――。
朱里にはうまく説明できない。形にならない憂慮。自分を戒める何かが在って、それが苦しくてたまらない。苦しいのに、なぜそれほどの罪悪があるのか、何がいけないことなのかが分からないのだ。
自分では、覚悟を決めていたつもりだった。遥への気持ちを自覚したときから。
この恋は叶わず破れる。切ない思い出にしかならない。
遥は異世界の住人。
何らかの大きな確執に関わり、既に恋人――伴侶とも言うべき人がいるのも知っている。朱里はいずれ叶わない思いに苦しまなければならない。必ず涙する日が来るだろう。
そんなことは百も承知だった。
遥に出会った時から、朱里の中で鳴り続けた警鐘。彼を取り巻く影を知りながら、それでも朱里は想いを寄せてしまった。
この想いは、報われない結末に向かって進み始めたのだ。始まりと共に覚悟は出来ている。
なのに、禁じられる想い。苦しんでいる自分。
どんな覚悟をしていても、想うことすら許されない。
好きになってはいけない。
(どうして、――わからないよ)
何がいけないのかが、わからない。
遥を想う。たったそれだけの気持ち。
芽生えることが、抱くだけのことが、なぜいけないことなのか。
(違う、――本当は)
本当は判っているのかもしれない。かすかな予感。それを認めることが恐ろしい。
朱里は目を閉じて胸の内奥を探る。
遥の世界に関わる何らかの確執。彼を滅ぼす力。
――相称の翼。
(もし、私が――)
ありえないと思いつつも、胸の内で膨張してゆく予感。
まるで異世界の光景を映しているかのような、鮮明な夢を見る度に。
ゆっくりと、確実に、不安が高まる。
朱里は息苦しさを感じて顔をあげた。深呼吸をして気持ちを落ち着ける。教室を見回すと、現実に引き戻される自分を感じた。しんとした教室。朱里は彼方の席で視線を止める。
本当は彼方に彼らの世界の経緯を聞いてみようかと考えていた。何かが明らかになっていくことを恐れながらも、このまま中途半端な憶測で不安になっているのもどうかと思ったのだ。けれど、気合いをいれて登校してみると、残念ながら彼方は欠席だった。病欠ということだったが、朱里には彼らの世界に関わる事情の為だろうかと思えた。
ふうっと息をついて、朱里は教室から窓の外へ視線を移す。夜に呑まれていく、移り変わりの激しい空を見た。
彼方の欠席を残念に感じつつも、朱里は彼から何かを聞き出すことは出来なかったのかもしれないと思いなおす。彼方は双子から、何かを語ることを口止めされている。
朱里には窺い知ることのできない真相。
「家に、帰りたくないな」
机に顔を伏せて、朱里はうな垂れる。いつまでも帰宅を渋っているわけにはいかない。うだうだと教室で時間を潰していたかったが、辺りは急激に夜の闇に支配され、部活動の喧騒も遠ざかっていく。やがて生徒の下校時刻が過ぎると、教師達が意味もなく残っている生徒を追い出しかかるのだ。
朱里はそろそろ見回りが訪れるかもしれないと、溜息をついてから席を立つ。改めて辺りを眺めると、夕闇に沈みつつある教室がひっそりと恐ろしげに迫ってくる。途端に怖がりの自分が舞い戻ってきた。怖さに駆られて、すぐに校舎から出たくなる。
鞄を掴んで教室を出ようとすると、廊下から足音が聞こえてきた。朱里は一瞬、怪奇的なものを想像して立ち止まったが、すぐに見回りが訪れたのだと思いなおした。
足音はどんどん近くなり、ついに朱里の視界に人影が映る。
開かれたままの教室の扉から、こちらを見ている。辺りは暗さを増していくが、また人影を見分けられる位には闇が淡い。
朱里は知らない教師だと思ったが、じっと見つめているとどこかで見覚えがあるような気もする。高等部を担っている教諭の数は少なくない。他の学年の担当教師ならば、通りすがりに見た事くらいはあるだろう。
姉の麟華に劣らず、立ち尽くす姿勢が凛としている。はっきりとした色合いは判らないが、飾り気のない洋服をまとい、毅然とした面持ちの綺麗な女性だった。纏めるように結われた髪を朱く感じるのは錯覚だろうか。朱里は女性の肩から胸元へと落ちかかっている一束の髪をじっと眺めてみるが、夕闇の昏さが色目を曖昧にする。長い髪には、巻かれたような美しい癖があった。
朱里は教師であることを疑いもせず、勝手な居残りを注意されるのだと、ただ小さくなっていた。
「どうして、このようなことに……」
するりと一歩を踏み出し、現れた女性が朱里に近づいてくる。麟華ほど長身ではないが、朱里よりは背が高い。暗がりでも、近くに寄ると表情が見て取れる。生徒を注意するような厳しい色はなく、何かを悼むように眉を寄せていた。
朱里はどんなふうに声をかければ良いのかわからない。女性は朱里から視線を逸らすように、固く目を閉じた。
「やはり先途は変えられない」
呟く声は苦しげで、わずかに震えていた。女性がもう一歩朱里に歩み寄る。差し出された手が朱里の手を取る前に、教室に新たな声が響いた。
「――赤の宮」




