第二章:4 夢と現IV
風に煽られて、はらはらと赤い芳葩が舞う。前栽に植えられた朱桜の巨木。
純白の幹は眩しいほどに白い。舞い散る花びらの赤さが、さらに増した。
彼女は簀子縁に座し、袖を垂らすように広欄に手を乗せていた。美しい巨木に魅入っていると、背後で衣擦れの音がする。
「朱桜の君は、ここがお気に入りなのね」
訊き慣れた声は麟華だった。彼女は巨木から視線を移し、声の主を振り返って屈託なく笑ってみせた。
現れた麟華は白い小袖に黒の長袴という軽装で、颯爽と座っている彼女の前まで歩み寄って来る。
「いつもこんな処まで出てきて、じっと眺めているんだもの」
「はい。緋国の渡殿にもこれと同じような巨木があって、よく眺めていました。綺麗だし、少し懐かしいです」
嬉しそうに麟華に理由を語ると、彼女は少しだけ戸惑いがちに続けた。
「だけど、こんなに綺麗な花の名を愛称にするのは、私にはもったいない気がします」
巨木を眺めていると、彼女は更に気後れがした。麟華は彼女の遠慮がちな台詞を一蹴する。
「あら、姫君にはとってもお似合いよ。姫君を見て、すぐに朱桜を思い浮かべた主上のお気持ちがよく分かるわ」
「え? 主上って……、朱桜と言うのは、麟華がつけてくれた愛称じゃなくて?」
思わず問い返してしまうと、麟華は明るく笑った。
「私にそんな素晴らしい感性があると思う?」
「だけど」
麟華に示されたことを理解すると、彼女はぱっと頬を染めた。袖で隠すように顔を押さえながらも、そんな筈がないと首を横に振った。麟華の主である闇呪には、そんなふうに呼ばれたことがないのだ。名を呼ばれる以前に、顔を合わせることがないのだから、単に機会がないだけだとも言える。
彼女はおろおろと麟華を仰いだ。
「更にばらしてしまうと、この朱桜の巨木をここに植えたのも主上の計らいによるものよ」
「え?」
「姫君が故郷を思って寂しくならないようにと」
素直に受け止めて喜んで良いのか分からない。彼女は躊躇い、すぐに甘い期待を切り捨てた。闇呪がそのように振る舞うのは、自分を思いやってのことではない筈なのだ。形だけの婚姻であっても、后として相応しい待遇をしておこうという考えに他ならない。彼女はすぐにそう結論づけた。
それでも、胸の内に芽生える温かな想いは無視できない。
緋国に在る時も、同じような気持ちになったことがある。彼女は闇呪に与えられた気持ちに記憶を重ねた。
故郷である緋国。
唯一、彼女の癒しとなったのは、渡殿から眺めることが出来た朱桜の巨木だった。
他の姫宮とは違い、彼女には誰も住まうことのなくなった寝殿を与えられていた。緋国の王座は中宮という位にある。赤の宮と呼ばれる女王が君臨する内裏。他の姫宮はその内裏に局を持ち、政を行いながら華やかに暮らしていた。
彼女は内裏に関わることを禁じられていたが、時折参内することがあった。
内裏を訪れると、真っ先に視界に入ってくる朱桜の巨木。正殿の前庭に咲き誇る大木の美しさは、宮家に生まれながら、臣下の如き扱いを受けていた彼女を慰める、唯一の光景だった。
赤の宮の住まう宮殿。
内裏の正殿をくぐることが躊躇われ、彼女はいつも巨木を仰いで立ち尽くしてしまう。
その時。
――このような処で何をしているのです。
突然、背後からかけられた声。供を連れずに、赤の宮が立っていた。美しい癖を持つ頭髪は目の覚めるような朱。緋衣を纏い、表着と裳の裾を優雅に操って、するりと歩み寄ってくる。彼女は幼いながら、すぐにその場に平伏して詫びた記憶がある。女王はそれ以上何も語らず、振り返ることもなく、するすると引腰を這わせながら正殿へと姿を消した。
麗しく美しい中宮。笑ってくれたこともなく、優しくされた記憶もない。
覚えているのは、凛とした横顔の気高さだけ。
けれど、その出会いから数日後、彼女の住まう寂れた寝殿に朱桜の巨木が飾られた。突然、移植された大木。
女官に経緯を聞くと、内裏からの命令であることだけを教えてくれた。
まるで人目を忍ぶように、奥まった渡殿の前に植えられた朱桜。決して、前庭で華やかな姿を晒すことがないように。
彼女はすぐに贈り主の配慮を感じた。
朱桜の巨木が見せる美しい景色は、蔑まれ、憎まれるべき姫宮には不似合いな光景なのだ。あからさまに庭を飾られると、分不相応の扱いであると糾弾されてしまう。
全ての成り行きに対する配慮。
彼女は赤の宮の仕業であると、漠然と感じた。内裏の前庭に在る朱桜の美しさに魅せられていた自分。それが唯一の慰めであることを、中宮はあの一瞬に察したのかもしれない。
中宮のこれまでの振る舞いを思い返す。
毅然と気高い女王。笑ってくれることも、優しく接してくれることもない。
けれど、他の姫宮達のように、悪意を以ってひどい仕打ちをすることはなかったと気付く。それは女王として、宮家の禍根に捕らわれないという意志の表れに過ぎないのかもしれない。自分を思いやっての振る舞いではない。分かっている。
それでも、贈られた朱桜の巨木は、彼女の慰めとなった。
緋国に在る意味を見出せなかった彼女にとって、中宮に芽生えた畏敬の念は心の礎となったのだ。憎まれるだけの宮家から逃れようとする、弱い自分を殺してくれた。
思い出の花びらと違わず、はらはらと赤い芳把が舞う。
緋国と同じように。
彼女は巨木に想い出を重ねながら、闇呪の気遣いを在り難く噛み締める。朱桜の花は、たしかに故郷の懐かしい光景を映してくれる。
「闇呪の君にお礼がしたいけれど、私に何かできることはありませんか」
与えられた想いに居ても立ってもいられず、思わず麟華を見た。彼女はその後ろから、見慣れた人影がやって来るのを見つける。
「麟華は秘めるということが出来ない性分だね」
新たに広廂に現れたのは麒一だった。白い狩衣の前を開いたまま羽織るように身につけている。黒い指貫の裾から足先が見えた。低い位置で結った黒髪が、無造作に背に垂らされている。
麟華と良く似た面差しで、彼は穏やかに笑っていた。
「朱桜の姫君。麟華の語ったことは、どうか内密に」
「秘密、ですか」
「我が君には、あなたに優しくできない理由がある。あなたも我が君に心を許すような発言は控えたほうが良いでしょう」
現れた麒一は淡々と語る。彼女は首を傾けた。
「どうしてですか」
「あなたを悪意から護るためです」
「悪意?」
麒一が頷くと、傍らの麟華が「いいのよ」と声をあげた。
「朱桜の君は、何も案じることなどないわ。私達や主上には甘えてくれて良いのよ。私は姫君が主上を慕ってくれるのなら、とても嬉しい」
「心外だね、麟華。私だって我が君を想う姫君の気持ちは嬉しい。ただ、細心の注意が必要だと言っているだけだよ」
言い争う二人を宥めようと、彼女は慌てて立ち上がる。色鮮やかな袿や単の裾を捌いて広廂を進もうとすると、ひときわ強く風が吹いた。前栽に植えられた朱桜の巨木が、いっせいに赤い花びらを降らせた。それは彼女の視界をいっぱいに占めて、広廂に降り注ぐ。
中空に舞う花びら。それは儚く、切ないほどに美しい。
胸が苦しくなるほど。
記憶に刻まれた故郷の光景よりも、更に輝きをもって刻まれる情景。
もう緋国を懐かしいと振り返る必要はないのかもしれない。
風に煽られて、はらはらと赤い芳葩が舞う。
まるで記憶を埋め尽くすように、花びらの鮮やかな朱が辺りを染めた。




