第二章:3 禍(わざわい)となる決意
遥が校舎を出ると、校庭の片隅に麒一の姿があった。まだ体調が万全ではない主を気遣って、ひっそりと見守っていたのかもしれない。彼は遥が歩み寄って行くと、小さく会釈した。
「我が君、待ち人はいらっしゃいましたか」
麒一は穏やかな眼差しでこちらを見ている。黒目勝ちの瞳が艶やかに濡れていた。遥は自分の思惑が知られていたのだと苦笑する。
「――知っていたのか」
「お目覚めになってからも、鬼門の護りを解放したままでしたので。我らに指示もなく。……はじめは鬼を呑まれたせいで護りが緩んだものと思っていましたが」
察しがつきましたと麒一は微笑む。
「朱桜が関わるならば、彼女が現れるのではないかと思っただけだ。残念ながら、まだ見えていない。代わりに余計な者達が紛れ込んでしまったようだ」
麒一は穏やかな微笑みを消し、瞬きをしてから遥に意見した。
「これ以上、鬼門の護りを緩めたままにしておくのは、得策ではないように思います」
「なぜ?」
「我が君が示したように、余計な追手を増やすことになります。護りを施しておけば、容易く鬼門を開くことは難しい筈です」
「私もそう考えていたが、今となっては意味を失っているだろう。碧の第二王子のように裏鬼門を使う方法もある」
「では、我ら守護が裏鬼門を護ります。我が君はこれまで通り鬼門を護っておられれば問題はありません」
麒一のもっともな意見に、遥は横に首を振った。
「鬼門の護りが全てを護るわけではない。鬼門を開くだけなら、黄帝にも王にも可能だ。いずれは破られるだろう。単に時間稼ぎになるだけで、何の解決にもならない。私は事態がどう動いてゆくのか知りたい。今のままでは、何を信じて何を疑えばいいのかも分からないからな」
包み隠さず考えを述べると、麒一は頷いた。
「わかりました。では、話を戻しますが、我が君は中宮の来訪を望んでおられるようですが、本当に我らの敵ではないと言い切れるのでしょうか」
「それは私にもまだわからない。ただ緋国の王座に在りながら宮がこちらに渡り来るのなら、信じても良いのではないかと思う。それに、彼女だけは何があっても朱桜を裏切らないはずだ。この先、もし私を陥れることがあったとしても、朱桜だけは護ってくれるだろう」
「――それは、そうなのかもしれませんが」
麒一は複雑な顔をして目を伏せた。遥は無理もない反応だと苦笑する。
黒麒麟は主のために存在するのだ。遥がどんなに朱桜への想いを説いても、彼らにとっては主である遥を護ることが優先される。特に麟華よりも論理的に物事を捉える麒一にとっては、朱桜に与えられた役割を考えるだけでも、充分に複雑である筈だった。
緋国の六番目の姫宮――朱桜。
彼女はいずれ主を滅ぼす相称の翼なのだ。天落の法に身を任せ、異界に相応しい殻を形作って天宮朱里となっても、決して消えることはない事実。
なぜ、主の仇となる者を守らねばならないのか。それが主命であっても、守護の内には拭えない違和感があるに違いない。それを知りながらも、遥は命じる。
「麒一、私は朱桜に忠誠を誓った。おまえたちの本能を覆すことはできないのかもしれないが、それでも主は彼女であると考えてもらいたい」
「それが我が君の望みであれば。我らは守護として可能な限り、尽くします」
「我儘をとおす、すまない」
麒一は主の謝罪を噛み締めるように、漆黒の瞳を閉じた。
「我が君が謝る必要などありません」
「ありがとう」
言葉を変えると、麒一は困ったように微笑んだ。遥は深夜の闇に浮かび上がる校舎を振り返る。今後のことを考えると、自然と表情が厳しくなった。
「私は赤の宮を信じたいが。もしかすると、それは私の希望が作り上げた都合の良い成り行きなのかもしれない」
恐るべき最悪の事態を思い浮かべて、遥はますます表情を引き締めた。麒一も主の抱える苦痛を悟ったのか、無表情に校舎を仰いだ。
「もし我が君の思い違いであれば――」
「私は緋国の宮家を討たねばならない」
遥の語る決意に、麒一の声が哀しげに重なる。
「緋国は朱桜の姫君の故郷です」
「それでも彼女の仇となるのなら捨て置けない。悪鬼となり修羅の道を選ぶ。人々が語るように、極悪非道な振る舞いを演じよう」
「朱桜の君に憎まれても?」
「かまわない。私はいずれ彼女に討たれるべき禍。憎しみが勝れば、彼女も自身の役割を嘆くことはないだろう」
遥は改めて自身の立場を確認する。
彼女は黄帝の翼扶。どれほどあがこうと、自分が彼女の想いを手に入れることはできない。愛されないのなら、慕われても憎まれても同じなのだ。
中途半端な同情を断ち切れるのなら、憎まれているほうが救われるのかもしれない。
自身の為に夢を見ることはしない。
ただ朱桜の生きる未来が輝きを取り戻すように願う。
遥は見上げていた校舎に背を向けて、ゆっくりと校庭を歩き出す。背後に麒一の足音が聞こえた。




