第一章:3 共鳴する呵責(かしゃく)1
学院から自宅へ戻ると、朱里は鞄を置くこともせず、一直線に遥の休んでいる客間へ向かう。当初は明らかに苦しげな状態だったが、遥の容態は少しずつ快方へ向かっているようで、今では呼吸も穏やかに繰り返していた。
朱里は指先で、そっと彼の額に触れてみる。いつのまにか熱も下がり、ぶり返すような気配はない。心地の良い温もりが伝わってきた。朱里は遥の容態が落ち着いているのを確かめると、大きく息をついて肩の力を抜いた。
「朱里ったら、そんなに必死にならなくても、黒沢先生は大丈夫だって言っているのに」
背後から声をかけられて振り返ると、姉の麟華が部屋の戸口でにやにやと笑っていた。朱里はまた姉がよからぬ妄想を抱いているのだと、大袈裟に溜息をつく。
「だから、意識不明の人がいれば心配になるのは当たり前でしょ」
「あらー? 明らかに回復しているのが判っているのに、寝る間も惜しむほど心配になるかしら」
「なるもん。そもそも先生をこんな目に合わせたのは、……私だし」
考えるほど、朱里は胸が苦しくなる。目覚めた遥に何よりも一番に謝りたいのも事実だった。麟華は下品な薄笑いをやめて、朱里に近づくとぽんぽんと慰めるように肩を叩いた。見上げると、姉は優しい目をしている。
「そんなに責任を感じちゃって」
言い終わらないうちに麟華は腕を伸ばして朱里を抱きしめた。
「朱里ったら、可愛いんだから、もうっ」
と言いながら、麟華はぐりぐりと朱里に頬ずりをする。幼い頃から、姉である麟華はこんなふうに朱里に愛情を示してくれる。落ち込んでいる朱里を励ます一つの方法なのだ。さすがに人前では気恥ずかしいが、二人きりなら戸惑うこともない。朱里は姉の腕を振り払うことはせず、思い切って彼方のことを聞いてみた。
「ねぇ、麟華。彼方は黒沢先生とどういう関係なの?」
自分を抱く姉の腕がぴくりと反応したのが判った。
「――あの無邪気な王子様が、気になるの?」
「だって、さっきの麟華の態度、すごく冷たかった。もう少し彼方の話を聞いてあげても良かったような気がしたから」
「まさか、朱里」
麟華は朱里を抱きしめていた腕を解いて、真剣な眼差しでこちらを見つめた。朱里は姉のただならぬ剣幕に思わず息を呑んだ。
「まさかあの王子様のことを好きになっちゃったの?」
「――は?」
あまりにもあさっての方向へ飛んだ話題に、朱里は一瞬反応が遅れる。麟華はがっと朱里の肩をつかんでぐらぐらと揺さぶった。
「そんなの私が許さないわよ。王子様を好きになるくらいなら、まだあの宮迫君の方が数万倍マシよ。あ、だけど宮迫君だってマシなだけで、絶対に許さないわよ。とにかく駄目よ、絶対に駄目。こんなことになるなら、王子様の息の根を止めておくんだったわ」
「あの、麟華、話が逸れて……」
「朱里。よく聞きなさい。あの王子様は既に結婚しているのよ」
今度は朱里が麟華の顔を見つめてしまう。意味を飲み込むまで、一瞬沈黙があった。
「え、ええっ? 結婚しているって、私と同じ年で?」
新たな事実に驚いていると、麟華は進むべき道を間違ったまま頷いた。
「そうよ。心を通わせた奥方がいるの。だから絶対に駄目なのよ。どう? 朱里、これで諦めがついたかしら?」
麟華の剣幕に押されて思わず頷きそうになってしまったが、朱里は「違う」と声をあげた。
「違うってば、もう。麟華はどうしてすぐにそういう話になっちゃうわけ? 彼方は友達だし、先生とも繋がりがあるみたいだから、そういう処が気になっているだけなの」
朱里がようやく話題を修正する。麟華は豆鉄砲をくらったように瞬きをする。
「じゃあ、王子様のことが好きじゃないの?」
「私は一言もそんなこと言ってない」
力を込めて「違う」と伝えると、麟華は「あら、なんだ」と朱里の肩を掴んでいた手を離した。
「良かったわ」
そのまま胸に手をあてて、ほうっと大袈裟に安堵している。朱里はようやく姉の誤解が解けて、がっくりと肩の力を抜いた。
「それにしても、この年で結婚しているなんて、彼方って本当に王子様なんだ。そういう世界に住んでいる人なんだね」
少しだけ異世界の事情を身近に感じられた気がして、朱里は姉を見た。
「もしかして、麟華や黒沢先生も同じような立場なの?」
ささやかな質問のつもりだったのに、麟華は寂しそうに眼差しを伏せる。
「――違うわ」
呟きは小さくて暗い。朱里はそれ以上何かを聞き出すことを躊躇ってしまう。少し話題を逸らしてみようとして、寝台に横たわる遥を振り返った。
「麟華は、私に黒沢先生を好きになってほしいみたいだけど、どうして?」
姉が勢い良く乗ってくる話題だと思っていたのに、朱里の予想は外れた。麟華は自嘲的に語る。
「そうね。それは私の我儘な夢。……本当はそんなことを考えることが間違えているのにね。何かが変われば運命を変えられるかもしれないと思ったのよ。だけど、きっと朱里の想いは変えられない。それに、麒一が言うように黒沢先生はそんなことを望んでいないかもしれないわ」
麟華はそこで言葉を区切ると、いつものように明るい笑顔を見せた。
「世の中、うまくいかないものね」
朱里はなぜか自分の中に芽生えた遥への想いを否定されたような気がした。居心地の悪さを感じて、思わず聞いてしまう。
「もしも私が黒沢先生を好きになってしまったら、麟華は応援してくれるの?」
言葉にすると、まるで自分の想いを告白しているような気がした。朱里は頬が染まるのを感じて、隠すように顔を伏せてしまう。麟華はそれが告白であることには気付かなかったようだ。可笑しそうに笑う声が聞こえた。
「そうね。朱里が黒沢先生を――」
他愛のない質問に麟華がどのように答えてくれるのか。朱里はじっと耳を傾けていたが、姉の声はそこで不自然に途切れた。不思議に感じて顔を上げると、麟華は朱里の背後にある寝台を見ている。
「――主上」
麟華の声が呟く。朱里は弾かれたように遥を振り返った。




