第一章:2 噂2
朱里はふと、自分が朱桜として登場する夢を思い出した。ただの偶然と割り切ってしまうことの出来ない光景。彼方達の住む世界は、夢に現れた舞台と同じであるような気がする。
夢の中で自分が闇呪の君と語っていた人物。
彼は副担任である遥に良く似ていた。彼方の語る恐ろしい人物像にも繋がっている気がする。
朱里は彼方に夢で見た光景を話してみようかと考えたが、すぐに思いとどまった。遥への想いが見せる幼稚な夢だと思われるのは恥ずかしい。そして、それ以上に夢で見た光景を異世界の事実であると受け止めるのが嫌だった。
意味もなく芽生える嫌悪が、伴侶として登場する朱桜への嫉妬なのか、自身が朱桜であるかもしれないことへの恐れなのかは、朱里にもよく判らない。
「とにかく、委員長の好意が全て仇になってしまう可能性があるってこと」
「――先生は、そんな人じゃないと思う」
何かを考える前に、朱里は口走っていた。
彼方が自分を案じてくれているのは判る。けれど、副担任である遥のことを悪人のように考えることに、朱里はどうしても賛成できない。
小さな抗議をどう受け止めたのか、彼方は労わるように目を細めた。
「うん、委員長にとっては、親友を助けてくれた恩人なんだよね」
まるで自分に言い聞かせるように、彼方が呟いた。朱里は彼の好意を跳ね除けてしまった自分に戸惑ってしまう。遥と出会ってから、日は浅い。多くを語らない遥よりも、彼方の方が色々なことを教えてくれた気がする。
そんな彼方の好意を退けてまで、副担任の遥を信頼する理由が見つけられない。
見つけられないのに、こんなにも遥を慕っている。朱里は彼に向けた想いが、想像以上に自分の中を占めているのだと、自分自身に戸惑ってしまう。
何となく彼方に対してばつが悪く、朱里は所在無く自分の組み合わせた指先を眺めた。
「委員長はさ、最近になって囁かれはじめた学院の噂を知っているのかな」
「噂?」
朱里の示した、遥に対する偏った思い入れに気を悪くした様子もなく、彼方は明るい口調で話を続けた。
二人の在籍する天宮学院は怪奇的な噂が耐えない。鬼を見たとか、白い人影が現れて消えたとか、常に恐ろしげな噂が飛び交っている。朱里は遥に出会うまで、全てが根も葉もない作り話なのだと思っていた。今でも怪奇的な噂のほとんどが、面白く捏造された話であると感じているが、異世界に通じるこの学院に、噂の火種となる条件が揃っていることも事実だった。
朱里は最近になって耳にした噂を振り返ってみるが、彼方の示す噂がどれを指すのかが判らない。彼方が補足するように続けた。
「雅な衣装を纏った、見慣れない人影を見たという噂だよ」
朱里にも心当たりのある怪談があった。
「それって、不幸な事故で亡くなった演劇部の霊っていう話?」
合宿所へ向かったバスが事故を起こし、搭乗していた部員が全員亡くなったという作り話が、いかにも真実味を帯びて語られている。未発表作となった演目に未練を残し、部員が今でも学院を彷徨っていると言うのだ。実際のところ、過去を調べてもそんな事故は起きておらず、生徒が亡くなった事実もない。
彼方もその怪談を信じているわけではないようだ。呆れたように吐息をついた。
「うん、まぁ、そういう尾ひれがついているかもしれないね」
「その噂がどうかしたの?」
「演劇部の話はさておき、彼らは存在する」
「彼らって……」
戸惑う朱里にかまわず、生真面目な面持ちで彼方は続けた。
「僕達の世界から、こちら側に渡ってきている者がいるんだ」
「彼方の仲間?」
朱里には問いかけることしか出来ない。彼方は言葉を探しているのか、一瞬沈黙があった。
「仲間ではないけど、知り合いではあるかもしれないね。僕達にはこちらの人間かそうでないか見分けることは容易い。だから、いくら副担任が化けていたとしても、見つかるのは時間の問題だと思う。委員長の家に閉じ込めて、誰にも接触させないなら話は別だろうけど。さっきも言ったように、彼は騒動の中心にいるんだ。彼が善か悪かという問題の前に、必要以上に彼に関わっていると、委員長も巻き込まれてしまうかも――っ」
彼方はそこで不自然に口を閉ざした。朱里は背後に気配を感じて咄嗟に振り返る。姉の麟華が立っていた。彼方に厳しい眼差しを向けている。
「王子様、それは朱里には関係のない話よ。――あなたも含めて、天界からの追手は誰の差し金かしら?」
「僕は違う」
「それを信じる理由はないわね。王子、お仲間に伝えなさい。主上に刃を向けるのなら、我ら守護が容赦しないと」
「だから、僕は違うって言っているんだ。それを証拠に、彼らはまだ闇呪の所在を掴んでいないだろ? 天宮を名乗る双子が黒麒麟であることも知らない」
「口では何とでも言えるでしょう」
彼方は唇を噛んで押し黙ってしまった。麟華が朱里を促すように肩を叩いてから、歩き出した。朱里は突然の険悪な雰囲気がただ息苦しい。どう声をかけていいのか分からないが、そのまま彼方の前から立ち去ることは出来なかった。
「あの、彼方。よく判らないけど、――ごめんね」
「ううん、僕が甘かっただけだよ」
小さく答えた彼方は自嘲的な笑みを浮かべた。けれど、それは錯覚かと思う位の一瞬で、すぐに照れ隠しをするようにペロリと舌を出した。朱里はほっとして肩の力を抜いた。
何がどのように関わっているのかまるで理解できないが、姉である麟華の態度は、歩み寄ろうとする彼方を完全に拒絶していた。
彼方は「はぁ」と大きく溜息をついてから、朱里の気遣いに慰められたのか、笑顔を取り戻す。
「委員長には強い味方がいるから大丈夫かもね。だけど、副担任に恋をしても良いことは一つもないよ。委員長があまりに一生懸命で健気だから、やっぱりそれだけは忠告しておく」
彼方は「じゃあね」と手を振ると、再び校舎の中へ戻っていった。朱里の胸に、彼方の言葉が小さな棘となって刺さる。
言われなくても、この恋が叶わないことは判っている。
判っているのに、止められない。
朱里は沈んだ気持ちを振り切るように駆け出した。目の前を行く麟華に追いつくのはすぐだった。
どんな警告も憂慮も、ただ一つの想いに呑まれてしまう。
高等部の正門を抜ける頃には、ふたたび遥を案じる想いに占められていた。




