プロローグ:悪夢の狭間(はざま)
どうして気がつかなかったのだろう。
彼女に想いを寄せることが、自分を追い詰める最大の要素であったことを。
彼の身体中を駆け巡り、荒れ狂う鬼。
激しい痛みは熱を孕み、既に痛覚が麻痺しているのかもしれない。息苦しさの中で、ただ負の感情が肥大する。
鬼は悪意をもって彼の記憶を辿り、どこまでも後悔を増幅させた。
容赦なく、彼を追い詰める。
悪夢に苛まれ、彼を満たしてきた想いまでが悪意に呑まれる。
(――彼女に出会わなければ、良かった)
全てを忘れて、なかったことに出来れば、こんなふうに苛まれることはなかったのだ。
何も知らぬまま、与えられた宿命だけを見つめていられた。
世を滅ぼす禍。
それだけで良かったのだ。ずっと受け入れて生きてきた。何もいらない。安らぎも至福も求めない。
(私が生きることに、意味などない)
あるのは、世の禍となる悪しき宿命だけ。祝福されない誕生。
何もかもが慶びとは程遠い。
(そんなものを求めていたなんて、――滑稽だ)
はじめから、役回りは決まっている。
世界を脅かす危険因子。存在意味など持ち得ない。自分が生き続けることに、一片の価値もない。
あるはずがないと、彼は強く自身を罵る。これまでの自分があまりに滑稽で失笑が漏れた。
出会い、彼女に与えられた全て。
ほんのひととき、彼に渇望していた何かを与えてくれたのかもしれない。
満たされた日々。
けれど、真実は全てを覆す。
与えられた全てが、彼を破滅へ導く序章と成り果てた。
至福は瞬く間に、絶望へと形を変える。
はじめから、全てが自分を追い詰める仕組みでしかなかったのだ。
与えられた滅びの宿命を全うするために。
(――彼女に出会わなければ良かった)
鬼に苛まれた想いは、どこまでも彼の絶望を肥大させる。
後悔、絶望、破滅。
(――違う)
悪意だけが膨張する心の闇に、強く反駁する光があった。今にも呑まれて失われてしまいそうな、かすかな輝き。彼はその輝きに向かって、手を伸ばした。
「―――っ……」
瞬間、持ち上げた腕に痛みが迸り、彼は悪夢から引き戻される。
渦巻く悪意が断ち切られると、彼は視界の中に見慣れた輪郭を見つけた。まだ頭が朦朧としているのか、像が揺らめいてはっきりとはしない。
けれど、見間違えるはずがない輪郭。
「――朱桜」
わずかに覚醒し、彼はさきほどの光の先に彼女がいたことを知る。もう一度、触れようとして、腕を動かすと更に激しい痛みが迸った。
それでも彼は目の前に在る気配に触れようと、懸命に手を伸ばす。
悪意に呑まれた想いが、美しい輝きを取り戻した。闇を照らす光。
出会ったことを、後悔などしていない。
(――どんな運命でも、出会えて良かった)
彼女と出会えて。
満たされた日々の中で、手に入れられた想い。自分の生まれてきた意味は、記憶の中に在る。いつか悪しき禍として討たれる時が来ても、想い出だけは色褪せることがない。
だから、決して彼女に裏切られたとは思わない。
それが自分の宿命を形にするためだけの経緯だったとは思わない。
今も色褪せず、彼女への想いだけが輝いている。
何度も目の前の彼女に呼びかけると、自分の手を握る彼女の気配に触れた。
掌から、ひやりと心地の良い刺激が熱を帯びた身体を貫く。少しだけ熱が拭われ、呼吸が楽になった気がした。
揺らめく視界の中で、彼女の黒髪が鮮明に飛び込んできた。美しい朱――金色が見事に呑まれている。身体を這う痛みよりも、ずっと胸が痛んだ。
蘇るのは、最後に見た光景。
引き裂かれた山吹の単。彼女の白い肌を傷つける無数の傷跡、痣。
何があったのかと問うことが憚られるほど、乱れた姿。
そして。
金色の長い髪と、輝く黄金色の瞳。
彼は一瞬で全てを悟ってしまった。自分に与えられた宿命が、どのように完結するのかを。
彼女に与えられた役回りは、自分を滅ぼす相称の翼。
どんな力で傷つけられようと、彼が魂魄を失うことは出来なかった。
けれど。
愛した朱桜こそが、――相称の翼。
瞬間、全ての疑問は氷解した。
どうして自分が天帝に滅ぼされるのか、何よりも理解できたのだ。どのように討たれて滅ぶのかが。
わかってしまった。
なぜなら、彼女は彼が真名を捧げた、ただ一人の姫宮。
生涯、心から彼女に忠誠を誓う。彼が手に入れた生きる意味。
独りよがりな想いだと判ってはいたのだ。それでも、彼は迷わず真名を捧げた。
見返りを求めていたわけではない。もとより禍となる自分が愛される自信はなかった。ただ、手に入れた想いを彼女に伝えたかったのだ。
彼は目の前の黒髪に、ただ心を痛めた。
(――どうして)
彼女の比翼にはなれなかった。彼女は黄帝を愛した。
衝撃を受けなかったとは言えない。けれど、怨む気にはなれなかった。
鬼の坩堝で彼女は泣きながら叫んでいた。
――ごめんなさいっ、……ごめんなさい。
彼女の身に何が起きたのかは判らなかった。涙を零して、ひたすら訴えるように詫びる。
――ごめんなさい。
(どうして、謝る必要があるだろう)
縁を結んだといっても、形だけのことなのだ。后となることを彼女が望んだ筈がない。自分に関わらず自由に過ごせばよいと牽制したのは、こちらの方である。
何も詫びることなどありはしないだろう。
相称の翼。人々に祝福されるべき真実。
――ごめんなさい。
自分に何を伝えたかったのか、わからない。
彼女は鬼門に飛び込んで、禁術を望んだ。
――莫迦な、……朱桜っ!
鬼門へ伸ばした彼の手は、むなしく彼女の残像を掻いた。
禁術、天落の法。
愛した者に与えられた真名を印として発動し、異界へ輪廻する。魂魄は鬼によって形作られた殻に閉じ込められ、姿形はひどく歪められる。異界の者に変貌を遂げるとも言われていた。
成功例はないに等しく、幻の法術とも言われる。失敗すれば、後にはただ黒き躯が残るだけだった。
彼女の犯した禁術は成功した。相称の翼であったからなのか、理由は定かではないが、異界の赤子として生きていた。
彼は霞む目で、凝らすように目の前の彼女を見つめた。
「朱桜、……どうして?」
どうして、嘆く必要があるのか。
問いかけながらも、彼には容易く彼女の想いを辿ることが出来た。
禍を滅ぼす。彼女には与えられた運命が快諾できないのだろう。
慈悲深い黄后。
異界へ逃避した彼女の想いは、わからない。謎はとけない。天界には彼女の愛する黄帝が在るのだ。いくら慈悲深くとも、黄帝への愛に勝る想いはないのだ。何らかの思惑が秘められている可能性があるだろう。
けれど、泣きながら彼に詫び続けた彼女には、伝えておかなければならない。
もし彼女が自身の役回りを嘆いているのなら。
「朱桜。……迷わず私を討ちなさい。ためらう必要はない」
黄帝への想いを後ろめたく感じる必要はない。
「私には判っている。……君は相称の翼。愛しい者を守るために、与えられた力がある」
彼は心から伝えられる。
例え全てが自分を滅ぼす運命に繋がっていても、――変わらない。
これまでの想いは色褪せない。
「それでも変わらない。君を愛している。……だから、その手で終わりにしてほしい」
誰よりも彼女の幸せを願っている。
天帝の御世は、世界に輝きをもたらすだろう。彼女が幸せになるためになら、どんな運命も受け入れられる。
どのような思惑が彼女を巻き込んでいても、無事に黄帝の元へ戻るまで、護り続けてみせる。
彼女は自身の翼扶。心を捧げた姫宮。
何があっても、変わらない。
彼女を護ることが、自分の生きる意味になる。
禁術を解き、彼女が黄后へ戻る方法はある。有効であるのかは分からないが、希望は失われていない。
天落の法を解く、唯一の方法。
術を発動させた印――愛しい者の真名を、もう一度唱えること。
それで術は解けると言われている。
相称の翼にとっては、黄帝の真名が印になる。
彼女が黄帝の真名を口にすれば、全てが元に戻る筈なのだ。
天界にどのような思惑が蔓延しているのかは定かではない。けれど、彼女が金域から逃亡を謀ったことは事実なのだ。もしかすると、自分に助けを求めていたのかもしれない。あるいは、巻き込むことを詫びていたのかもしれなかった。
全ての真実は、闇の中。
判っているのは、彼女が相称の翼であるということ。
だから。
いつかその手で討たれる日まで。
「……私は、……そのために君を護る」
彼の望みはただ一つ。
自分が彼女に与えられたように。
彼女にも手に入れてほしかったのだ。
満たされた、豊かな日々を。
そして、――誰よりも幸せな日々を。
「―――……」
彼女が何かを呟いた気がしたが、彼には聞き取ることが出来なかった。込み上げてきた熱が意識を奪う。吸い込まれるように、闇に捕らわれる。
彼は再び目を閉じた。




