終章:一 天落の地
異界へ渡るこの感覚を、どのように表現すれば良いのか翡翠にはわからない。
それでもあえて言葉にするのなら。
世界がどこからか捲れ上がって、その変化の中に自分も巻き込まれている錯覚。
全てが覆されて、新たな世界へと生まれ変わるように。
そこには何も無い。けれど、何かが在る。
目の前に広がる闇は何一つ変わらないのに、忙しなく流動しているようにも見えた。
かいくぐる様に虚空を掻いても、触れる物は何もない。
視界を奪う深淵の中で、いつしか自身の鼓動だけを聞いている。
長く歩き続けたような気がしたが、ただ立ち尽くしていただけのような気もする。
やがて。
はっと目覚めるように、異界に立つ自分を知るのだ。
「――ようこそ、天落の地へ」
目の前に立つ男は、翡翠に向かって深く頭を下げていた。異界は夜を迎えているらしく、昼夜の区別を無くした天界や地界よりも、天は更に深く暗い。
輝く点が散りばめられ、一面が澄んだ濃紺に染められた異界の天。
翡翠にも美しいと感じることが出来る。
異界に聳え立つこの建物が、人々の学び舎であることは承知している。
立ち入りを禁じられた、校舎の屋上。
今までにも、翡翠は幾度となくここに降り立って来た経験が在った。
けれど、異界へ渡り、出迎えを受けるのはこれが初めてだった。目の前の男は異界に良くある黒髪と黒目である。
既に見慣れていた筈なのに、翡翠は鼓動が高鳴るのを感じた。
この男が異界に渡ったと噂をされている闇呪ではないと言い切れるだろうか。天籍を持つ者が放つ気配を感じないが、異界でもその感覚が有効であるとは限らない。
警戒心と緊張を高めていると、目の前の男はゆっくりと顔を上げる。
「天籍をお持ちであれば、貴方は私の言葉を理解できるはずです」
「――言葉?」
問い返すと、彼は頷いて見せた。
「良かった。……私にもあなたの言葉は理解できるようです」
「意味がわからない。あなたは一体誰なんだ」
翡翠にはこれまで異界の言語を理解できなかった記憶がない。人々が語る言葉も、書き表された記号も文字も、そこに示された意思を正しく伝えてくれる。
「あなたはこちらの世界の者にとっては、神と人の狭間にあるように映ります。言葉も文字も、発音や形に左右されることはなく、その中に含まれた意思を理解する」
翡翠は異界との事情の違いを説明されているのだと、何となく男の語ることを理解した。けれど、ここで一番の問題となるのは、彼の正体なのだ。警戒を緩めず、目の前の男を見据えた。
「僕の質問に答えていないよ。あなたは誰なんだ」
「私はこの学院の理事長から、ここであなたを迎えるように命じられた者です。東吾と申します」
「学院の理事長ということは、堕天した先守の一族?……天宮?」
「どのように受け取っていただいても結構です。あなたは碧国からおいでになった第二王子。愛称は翡翠。そうですね?」
「……そう、だけど」
闇呪ではないことは、既に明らかである。それでも抑揚の無い男の声が、翡翠には不気味に聞こえた。堕天した先守が今も天落の地を護っているという話は、白虹の皇子から聞いている。
けれど。
「どうして僕がここに来ることを知っていたの? それは先守の占い? だとすれば、天宮はこちらの世界で、まだ先守として顕在しているということ?」
「何も申し上げることは出来ません」
男は答えてくれなかったが、ここに翡翠を迎えるために現れたということが、全てを肯定している。
「あなたがこちらの世界で過ごすための用意は揃っています。あなたがお望みであれば、学院に受け入れる手続きも進めます」
男は翡翠を導くように、ゆっくりと歩き始めた。翡翠はしばし呆然と佇んでいたが、覚悟を決めて男の後をついていく。一体どのような思惑が絡んでいるのかは分からないが、異界に滞在するための条件を手に入れられることは確かなのだ。
霊獣趨牙――皓月が自分を裏鬼門まで送り届けてくれた意味。
全ては、天意の示すままに。
翡翠は目に見えない使命が与えられているのかもしれないと考えていた。
「どうして、僕にそこまでしてくれるの?」
前を進む男の背中に声をかける。どうせ答えてくれないだろうという予想とは裏腹に、男は翡翠を振り返って答えた。
「――こちらの世界には、あなたの望んだものがあるのかもしれない。だから、どうか心ゆくまでこちらの世界を探検されると良い――。それが理事長である天宮からの伝言です」
男――東吾は始めて無表情な顔に、かすかに笑みを浮かべた。翡翠の存在に好奇の目を向けず、嫌悪感を現すこともない。得体が知れない事この上ないが、不快ではなかった。
翡翠は「ふうん」と気のない相槌だけを返す。
(――僕の望むもの、か)
それは鍵となる相称の翼。
そして、それ以上に。
世界の未来を護るための、――真実。
(天宮は何もかもお見通しって訳だ)
翡翠はこれからのこちらでの日々に気合いを入れるように、大きく深呼吸をした。




