参章:五 目撃談2
清香の語る話をそこまで聞くと、翡翠は知らずに掌を強く握り締めていたことに気がついた。吐息をついて力を抜くが、思わず身震いしてしまう。
世界の衰退について、何かがおぼろげに輪郭を描き始めた気がするのに、翡翠は胸が塞ぐのを自覚した。自身のあずかり知らぬところで、既に最悪の結末へ向かう布石が打たれていたのかもしれないのだ。
「白虹の皇子。この人が見たのは、相称の翼ですよね」
長い金髪に、金色の瞳を持つ少女。翡翠はそれが相称の翼ではないという回答を期待したが、皇子はわずかな期待をあっさりと裏切って頷いた。
「おそらくそうでしょう。この世において、金を纏う事が許されているのは黄帝と黄后だけです。異界では髪色を変えることは容易いそうですが、天界ではどんな手段を用いても、髪色や瞳の色を金色に変えることは出来ません」
「本当に、髪色を金に変える方法はないのですか」
相称の翼の存在を認めたくないばかりに、翡翠は思わず問いかけてしまう。皇子は困ったように微笑んで、意外なことを口にした。
「方法が全くないとは言えません」
「え?」
「紐解いた多くの文献の内に、そのような記録があったように思います。しかし、それが本当に有効であるのかはとても疑わしいのです。誰かが試した実例があるわけでもなく、それを実現することは非常に困難です。清香が語った少女の行方を追うよりも、まだ難しいと言えるでしょうね」
「大兄、それは、一体どんな方法なのですか」
「黄帝の守護である、麒麟の生血を浴びる。それが唯一の方法だと」
雪は想像もつかないという顔をして、自分の体を抱くように腕を回す。
翡翠もそれは不可能だと、落胆の息を吐いた。麒麟の血を浴びる方法などありはしない。実現不可能な方法論が示される意味は、要するに不可能だということなのだ。
この世には、髪色や瞳を金に染める方法はない。それが与えられた答えだ。
「では、相称の翼は、自ら消息を絶ったということですか」
「そういうことになりそうですね」
「その成り行きに加担しているのは、闇呪の主、ですか」
考えたくはなかったが、清香の語った体験が明らかにしている。
闇色の翼を広げた影。黒き姿は呪をかけられた証。そして少女を連れて跳び去った先には、鬼門があったのだ。疑いようがない。
「闇呪の主が、自身を滅ぼす相称の翼に何らかの罠を仕掛けていたのかもしれない。紺の先守が占ったとおり、彼はこの世に禍をもたらす。皇子、既に最悪の事態が、現実になりつつあるとすれば?」
「衰退して行く世の元凶が、闇呪の主であると?」
「僕には、そうとしか思えません。……そうでなければ、相称の翼が消息を断つ理由がない。黄帝の寵愛を受けた翼扶は、不可侵の存在です。本来、貶めたり、傷つけたりすることは、誰にも出来ない。けれど、闇呪の主に与えられた呪鬼ならば、可能性があります」
皇子はどこか腑に落ちない面持ちで、深く息をついた。
「翡翠の王子が言うように、たしかにそう考えるのが自然なのかもしれません。ですが、清香の話を聞くだけで、そこまで決め付けてしまうのはどうかと思います。誰もが、闇呪の主が禍であることを疑わない。そんなふうに語り継がれてきたのですから、無理もありませんが」
「大兄は、闇呪の主が禍ではないと考えているのですか?」
皇子は苦笑する。かすかに左右に首を振って見せた。
「そういうことではないよ、玉花。ただ、禍ではないと言い切るだけの事実を知らないだけなのかもしれない。今まで語られてきた彼が非道であるという話も、私がこの目で確かめた事実ではない。彼を表す悪評の全てが、単なる風聞に過ぎない」
「だけど、紺の先守が語ることに嘘はないわ。紺の者は嘘を占うと魂魄を失うのだもの。闇呪の主がこの世の禍となるのは、避けられない真実です」
雪が強く言い切ると、傍らで黙って成り行きを聞いていた清香も同意した。
「それに、闇呪の主に嫁いだ姫君達の訃報も、風聞ではなく事実です。私はその御遺体を見たことがあります。彼が非道であることは、それだけで窺い知ることができます」
翡翠が問い返す前に、皇子が口を開いた。
「姫君の亡骸を見たことがあるのですか」
「はい。滄の国からも、彼と縁を結んだ姫君がおられました。私がお世話させて頂いたこともある姫君でしたので」
皇子は一瞬ためらったようだが、亡骸の状態について訊いた。清香は思い出すだけで胸が痛むのか、噛み締めるように答えた。
「御遺体は、まるでそこに影が横たわっているように、真っ黒でした。見たこともない惨状に、皆が鬼に喰らい尽くされた魂魄の亡骸だと。私の目にも、そう見えました。あのように人を殺めることが出来るのは、呪を与えられた闇呪の主だけです」
「……黒い、遺体」
うわ言のような皇子の呟きが聞こえた。翡翠は彼の表情を彩った悼みの色を見逃さなかった。まるで何かを悔いるように、彼は灰褐色の美しい瞳を閉ざす。傍らに座していた白亜が、労わるようにそんな皇子を眺めていた。
雪が「大兄」と声をかけると、彼は今までの通りに、毅然とした面を上げた。
「たしかに、呪をもって鬼を制することが出来るのは、彼だけです。けれど……」
言いかけた言葉は、そこで途切れた。皇子は思いなおしたように「何でもありません」と続けた。どこか落胆した皇子の様子に不自然さを感じていると、清香が問う。
「闇呪の主が非道であるかどうかよりも、私は黄帝の御身が気掛かりです。私の見た者がもし相称の翼であるならば、黄帝は翼扶を奪われて、どうして手をこまねいているのでしょう」
「闇呪の主が、黄帝に何か仕掛けているのかもしれないよね」
翡翠の憶測には、雪も頷いた。
「この世の衰退の原因も、全てそれが原因なのかもしれません。闇呪の主を滅ぼすためには、天帝の力が必要ですから。きっと相称の翼を奪われた黄帝には、成す術がないのかもしれないわ」
一つの筋道が出来上がったが、皇子は押し黙ったままである。
翡翠が声をかけようとすると、彼は気を取り直したように清香を見た。
「そういえば、あなたのお話を最後まで聞いていませんでした。白亜によれば、あなたが金色の少女と出会った後、立て続けに不審な出来事が続いたようですが」
清香は顔を曇らせて頷いた。思い出したくないのかもしれない。翡翠は彼女がこれほどにやせ衰えた理由が、今までの話からは見出せないことに気付く。
「あなたが身を隠し、逃げ続けていた理由を教えてください」
「……はい」
清香は再び、それからの出来事を語り始めた。
「私が追われていた何かも、闇呪の主が放った鬼なのかもしれません」
全ての成り行きが、闇呪の主へと繋がって行く。
翡翠は世界の破滅へと導く道標を見つけてしまったように、じわじわと胸の底が冷えていくのを感じた。




