参章:二 地界の民、白亜(はくあ)
白虹の皇子が使いに出していた者は、白亜と名乗った。地界の生まれであることは間違いがなく、翡翠が見上げるほどの巨漢だった。
国籍は固く編まれた銀髪と、灰褐色の瞳が物語っている。
彼は皇子に導かれるまま、連れの者と中庭を渡って廂へ上がると片膝をついた。自身の主である皇子を差し置いて、翡翠に深く頭を垂れたのだ。
「うわ、あの、僕はただの訪問者なので。どうか顔を上げてください」
翡翠が白亜の前で膝を折って慌てていると、顔を上げた男は白い歯を見せて笑った。
「玉花様のお話どおり、人懐こい方だ」
「え?」
白亜はゆっくりと立ち上がると、逞しい二の腕を伸ばして軽々と翡翠を立ち上がらせた。思わず鍛え上げられた肉体を羨ましげに眺めてしまう。
天界の者が身を鍛えたとしても、ここまで見事な体躯は得られない。身につく筈である筋力は、限度を超えると目に見えない礼となって蓄えられ、力として発揮される。
見た目はしなやかな筋肉を纏うだけの華奢な体をしていても、地界の者が及びもつかない力を持ち得るのだ。そこには超えられない質の違いがあった。
白亜はにこにこと嬉しそうに翡翠を見つめている。親しみの込められた眼差しだった。悪い気はしなかったが、翡翠は彼と共に表れた小柄な人影が気に掛かる。まるで身を隠すように頭から濃紺の表着を被っており、男なのか女なのかも判断がつかない。
平伏すようにその場で小さくなっている。
じっと眺めていると、身体が小刻みに震えているようにも見える。気のせいだろうか。
翡翠が眉を潜めると、白虹の皇子が一歩前へ進み出た。小柄な人影は近づいた気配に怖気づいたのか、びくりと身を起こして後ずさりする。背後の白亜にぶつかって退路を断たれると、再び深く平伏した。
白亜と同じ地界の生まれであることは、身にまとう気のようなものが伝えてくれる。地界の人間が天界の王族にためらいや恐れを感じるのは仕方がないのかもしれない。それでも白亜との様子の違いが、翡翠の目にも明らかだった。
「そんなに恐れることはありません」
白虹の皇子は優しく声をかけて、平伏す人影の前で膝をついた。
「顔を上げて下さい。私はあなたに話を聞きたいだけなのです」
翡翠達が見守る中で、皇子が手を伸ばして人影の手をとった。瞬間、手を握られた者は「ひっ」と小さな悲鳴をあげた。王族に対する恐れだけでは説明のつかない怯えがあった。皇子に取られた痩せた手は、隠しようもなくガタガタと震えている。
「どうか恐れないで。顔を上げてください」
皇子の柔らかな声も、恐れを癒すことはないようだった。震えたまま、伏せていた上体を起こす。頭から被っていた表着が、はらりと肩に落ちた。
露になった素顔を見て、翡翠は眉間に皺を寄せた。
女だった。
白い顔は痩せて、頬の輪郭が骨格をなぞっている。蒼ざめた顔色。かちかちとかみ合わない歯が鳴る。女のやせ衰えた姿と、尋常ではない怯え方が翡翠には痛々しいほどだった。
深い藍を映す長い髪が、国籍を語る。地界の滄に生まれたのは疑いようがない。
世界が、殊に地界が止めようもなく荒れ果ててゆくのは知っていたが、ここまで人の輪郭が損なわれた姿を見るのは初めてだった。
地界の貧しさは、まだこれほどには至らないはずなのだ。
けれど。遠くない将来の姿ではあるだろう。
翡翠はその女に地界の未来を見た気がして、知らずに唇を噛み締める。
皇子もまるで労わるように女を見る目を細めた。
突然、女は激しく頭を振った。引きつる顔から、ますます血の気が引いていく。どうやら翡翠達の周りで小さく羽ばたいている黒鳥が目に止まったようだ。
「し、知りません。私は何も知りません。見ていません」
涙を流して、女は手を組み合わせた。皇子を拝むように、頭を垂れて繰り返した。
「何も知りません。……だから、どうか、魂魄だけは」
雪も女が恐れる元凶に気付いたようで、袖を振って黒鳥を追いかけている。少しでも女と距離を取らせるための配慮なのだろう。
「清香、この方は君の魂魄を取ろうとは思っていない」
白亜が厚みのある掌を、宥めるように女の肩に置いた。
「私に話してくれたことを、そのまま話してくれればそれでいい」
「や、約束が違います。白亜、……あなたは、私を助けてくださると」
「もちろん、約束は守る」
力強く、白亜が女に頷いて見せるが、女は涙に濡れた顔を激しく左右に振る。
「私はここで呪をかけられるのだわ」
「違う」
白亜の太い声が、虚しく響いた。翡翠がどのように説明をすれば良いのかと考えていると、背後からぬっと皓月が顔を出した。呑気に大きな欠伸をしてから、ゆっくりと女の元へ歩み寄る。
廂に出てきた皓月の毛並みが、金色の美しい煌めきを見せた。目の前に現れた幻獣の輝きに、女も目を奪われたようだった。
皓月は皇子の傍らで立ち止まると、女の顔を覗きこむ様に鼻を寄せる。長いひげがひくひくと女の頬に当たった。
女は巨体を持つ幻獣に竦んでいるのか、金色の体毛に見惚れているのか、放心したように身動きしない。皓月は女の涙に濡れた頬を、慰めるようにべろりと舐めた。
女は驚いて身を硬くしていたが、幾度もべろべろと舐められるうちに、少しずつ自分を取り戻したようだ。
痩せた手で皓月の頬に触れて、大きく息をつく。
「無様に取り乱して、申し訳ございません」
女はゆっくりと頭を下げてから、目の前の皇子と向き合う。
皓月はそれを見届けると、役目を終えたとばかりに、するりと身を翻した。去り際に長い尾をゆるゆると動かして、再び欠伸をした。翡翠の背後まで戻ってくると、前足を揃えて巨体を横たえている。
皇子は両手で女の手を握った。
「あなたの無事は、私が約束します」
「――本当ですか?」
「はい」
「本当に、私はもう追われることはないのですか?」
皇子は何かを問い返すことはせず、ただ静かに頷いた。




