参章:一 天籍(てんせき)の誇り
内殿を出ると、白虹の皇子は迷わずに城内を突き進んでいく。翡翠達は後を追うように軒廊を渡り、広く作られた廂に出た。翡翠は目の前にひらけた中庭に人影を見つけてぎょっとする。内殿の外周に作られた庭だとしても、ここはまだ白虹の皇子が住まう居城の敷地であることには変わりがない。本来ならば、臣従は門外で主を待つべきである
現れた人影はそのような手続きを一切反故にして、中庭に現れた。
見たところ天籍の者ではない。国の政に関わるため、地界に生まれた者が天界に住まうことはある。それでも王の臣下であることは変わらない。翡翠は思わず、横目で白虹の皇子を窺ってしまう。
臣下が許可もなく城内へ侵入することは狼藉以外の何者でもない。気位の高い王族ならば、憤るだけではすまないだろう。
「ご苦労だったね、白亜。こちらへ」
白虹の皇子は人影を見つけると、自然に笑顔を向けた。翡翠は予想通りの反応だと、ますます皇子に好感を抱く。例え臣従が門外で待機していても、皇子が自ら出迎えることが既に珍しいことだ。宮殿に人を置かないということは、自らが全てを成すということに等しい。
著しく天帝の加護が失われた世界。
黄帝の礼を以って発揮される神。
神はこの世を形作る力となるもの。
この世は善氣と悪氣からなり、それは目に見えぬ氣として世界を満たしているといわれている。善氣は人の善意から、悪氣は人の悪意から発生するとも伝えられているが、翡翠の生まれた世界には、異界のように法(科学)によって仕組みを証明する手立てはない。
ただ、全てがこの世の創世を記したと言われている記録に描かれているだけである。
世界を満たす氣は、そのままでは何かを生み出すことも滅ぼすこともできない。
氣は礼に触れて神となり、はじめて活用の途が拓かれる。
そして、神が在ってこそ、はじめて天界の政は機能する。
神の用途は多岐にわたり、地界を繁栄させるために有効な用途、効率の良い供給が常に模索されるのだ。
地界をいかに豊かに育むのか。
それが国として地界を治める天界の責務。
翡翠が天籍に生まれたことを誇りに思うのは、それ故である。
けれど。
天帝の加護――神が失われた世では、天界は責務を果たすことが出来ない。
現在も国では政が行われているだろう。翡翠はそれが単なる気休めに過ぎないことを知っている。
年毎に、月毎に、やがては日毎に、神が失われつつあることは目に見えていた。
地界を育むために、天界での政が苛烈を極めた日々もあった。けれど、それすらも意味を失う日々はすぐに訪れた。
地界を育むという、天界の使命が失われた日々。
無意味な毎日。実りのない政を見限って、更なる放浪を始めたのは、いつからだろう。発端はいまでも鮮明に覚えているが、もう遠い日々になっていた。
翡翠は天界と地界の落差を思い知るたびに、胸の中の穴が広がっていく。例えようもない虚無感。
この世が滅びる。
いつからか天界でも囁かれている噂。けれど、天界で語られる――この世――は常に地界だけを指しているのだ。少なくとも、翡翠の知る碧の重鎮はそうだった。
天帝の加護が失われても天界が滅びることはない。
確たる理由もなく、彼らはそう信じていた。
なぜなら、天籍にある者は礼神を与えられているからだ。
たったそれだけの理由で。
枯れて荒れ果ててゆく地界を知りながら、自らが傷つくことも心を痛めることもない。
傲慢で、哀しい境界線。
いったい天籍にある者のどれだけが、地界の素晴らしさを知っているのだろう。
美しく尊い世界。
地界に生きる人々が、同じように喜び、怒り、悲しみ、笑うことを知っているのだろうか。翡翠は皮肉を込めて思う。
天界は、まるで異界にある偶像のようだと。
地界の神として君臨し、天高く在る尊きもの。
たしかに地界の人々は、天界の者を敬っている。その思いは、異界の信仰に似ているのかもしれない。
けれど、天界は偶像ではない。
責務を果たしてはじめて地界の畏怖や尊敬を享受することができるのだ。
礼神を与えられているだけで、尊ばれるのは間違えている。それを活かすことが出来なければ、何の意味もない。
翡翠は快く臣下を迎える白虹の皇子の横顔を見つめてしまう。
(――皇子は、この世界をどのように捉えているのだろう)
自分と同じように、天界と地界を一続きの世界として捉えるのか。
あるいは、かつて碧国の重鎮が語ったように、切り離して考えているのか。
翡翠にも、天界と地界を一続きの世界だと捉えられない部分があることは分かっている。真名や礼神といった、地界の人々が決して持ちえぬ力があることは認めなければならない。
それでも、翡翠にとって天界と地界は一続きの世界だった。
地界の衰退は、やがて天界の衰退にも繋がって行くと思えるのだ。経過に差異や時間差があったとしても、迎える終焉は等しい気がしてならない。
そんなふうに感じる自分が、変わっているのだろうか。自分の足で地界を彷徨い、翡翠は必要以上に心を移してしまった。天籍を与えられた者として、そのような傾倒は間違えているのかもしれない。
かつて重鎮が語ったように、地界と天界を切り離して考えることが正しいのかもしれなかった。
皇子は中庭に現れた人影を手招きして、廂の前まで呼び寄せている。
知的な眼差しには、親しみと労わりだけが込められていた。
翡翠は傍らで廂から身を乗り出すようにして、人影に袖を振っている雪を見て、自然と口元に笑みが浮かんだ。
雪も白虹の皇子も、王族という立場をわきまえている。
責務を忘れ果てて、身分や特権だけを振りかざす碧の重鎮とは違う。
(この世の衰退を憂い、何か出来ることはないのかと手掛かりを探してしまう)
言い当てられた真実は、おそらく皇子の中にもあるに違いない。
たとえ天界と地界が、皇子にとって一続きの世界ではなくても。
皇子が衰退して行く世界のために、既に行動を起こしていることは揺ぎ無い事実なのだ。




