弐章:四 世の掟Ⅲ 2
翡翠が身じろぐほど驚いていると、黙って会話を聞いていた雪が口を開いた。
「その噂は、私も聞きました。翡翠様は地界を彷徨っていたから、耳に入らなかったのですね」
「僕は天界の情報は雪から聞いているから」
彼女は袖で口元を覆って、小さく笑った。
「そう言えば、そうでした」
「だけど、見たってどういうこと? いったい誰がどこで見たの? そもそも、黄帝が認めていないなら、ただの間違いじゃないの?」
「私もそう思います。黄帝が自覚もなく相称の翼を持つなんて、どう考えても有り得ません」
雪は力を込めて断定する。翡翠も同じ意見だった。
相称の翼。
それは黄帝の寵愛を受けて、心を通わせる者の称号。
この世でただ一人、黄帝と真名を捧げあう黄后となる者を示す。
天界においては、男が愛し真名を捧げた相手を翼扶、女が愛し、真名を捧げた相手を比翼と呼ぶ。翡翠は既に雪という翼扶を得る幸運を得た。雪にとっても、翡翠はこの世でただ一人の比翼なのだ。
自身の経験を振り返っても、無自覚に翼扶を得ることは不可能である。
相称の翼が既に存在するのなら、黄帝には真名を捧げた心当たりがあるだろう。想いを通わせて、誰よりも愛した者が在る筈なのだ。
そして相称の翼は、天帝の御世を明らかにする。
黄帝よりもこの世に輝きを齎す存在――天帝。
黄帝と黄后を一つの存在として捉えた、最上の帝位。
麒麟を守護とする黄帝に対し、鳳凰を守護とする黄后、あるいは相称の翼。
黄帝と契りを交わし、真名を捧げあうことにより、その姿は金を纏う者へ変貌を遂げると言われている。黄帝と並び立つに相応しい眩い容姿。輝く金の髪と、煌めくような黄金色の眼差しを与えられる。
金域に黄帝と相称の翼が揃えば、圧倒的な礼によって、余るほどの神が発揮されるに違いない。
「それに本当に相称の翼が在るとすれば、それはこの世にとってとても喜ばしいことです。黄帝が知っていながら秘めているのは、不自然だわ」
雪は相称の翼の目撃証言を根も葉もない噂だと考えているようだ。白虹の皇子は「そうだね」と穏やかに答えた。
「私達が考える以上に、現状を案じている者が多いのかもしれない。人々の不安は、どんな些細な希望にでも縋ろうとするだろう。相称の翼が、一番わかりやすい希望の形なのかもしれない」
「僕もそう思います。だけど、火のない処に煙は立たないとも言いますよね。相称の翼は、誰が見ても一目で分かる姿をしている。金髪に金眼はとても目立ちます。天界では、どんな手段をとっても髪色や瞳を金に染めることはできません。なのに、誰かが見たというのなら、もしかすると相称の翼は存在しているのかもしれない」
「でも、翡翠様。それならどうして黄帝は公表しないのかしら。相称の翼があれば、天帝の御世が始まる。誰が聞いても、喜ばしいことなのに」
翡翠は「うーん」と首を捻る。
「そうだな。例えば、――黄帝に秘めておかなければならない理由があるとか」
「秘めておかなければならない理由?」
雪も長い袖で口元を覆って、考え込んでいる。翡翠は思いついたことを述べてみた。
「もし相称の翼があると仮定すると、世界が枯れたままなのはおかしいよね」
白虹の皇子がゆっくりと翡翠に顔を向けた。
「たしかに、それはそうです」
「大兄、だったら、やっぱり目撃証言はただの噂なのではないかしら」
「私もそう考えるのが普通だとは思う。でも……」
皇子は最後まで語らず、翡翠の意見を促す。
「雪。もしかすると、相称の翼が力を発揮できない理由があったら? 例えば、金域にいないとか、――呪をかけられたとか」
深く考えずに語っていたことなのに、翡翠は口にしながらひやりと嫌な予感に襲われる。
この世を滅ぼす禍――闇呪の主。
天帝に滅ぼされる宿命を負っているのなら、彼だけが相称の翼を歓迎しない。
黄帝と相称の翼をさして天帝とするのなら、闇呪の主は黄帝ではなく、相称の翼によって滅ぼされるとも考えられる。
この世の禍として生まれ、もし闇呪の主のような立場にあれば、間違いなく誰もが相称の翼を恐れ、何らかの策をめぐらせるに違いない。
どっぷりと嫌な想像に浸ってしまい、翡翠はうな垂れてしまう。そんな翡翠の憂慮に気付いたのか、白虹の皇子が手を差し伸べるように口を開いた。
「闇呪の主が関与していると考えるのも一つ推論としてはあるのかもしれません。しかし、それは現実的ではありませんね。相称の翼は、姿に金を纏うと同時に守護を持つのです。たとえ闇呪の主が黒麒麟を携えていても、鳳凰を討ち破ることは簡単ではありません」
「あっ、そっか。そうですね。良かった」
思わず胸を撫で下ろすと、雪と皇子が声をたてて笑う。
「鳳凰か。じゃあ、やっぱり見間違いか、単なる噂に過ぎないんだろうな」
翡翠が呟くと、皓月は長い尾でぴしりぴしりと翡翠の肩を打った。静かに羽を休めていた黒鳥も、何か物言いたげに翼を忙しなく広げる。
白虹の皇子が、何かの気配を感じたのかすぐに牀子から立ち上がった。
「使いの者が戻ってきたのかもしれません」
「使いの者?」
翡翠には分からなかったが、皇子は既に扉へ向けて歩み出していた。翡翠は再び皓月に襟元を咥えられる。ぐいっと力が入ると同時に、その場に立ち上がっていた。
白虹の皇子がふと歩みを止めて、翡翠を見返る。
「翡翠の王子。――私は噂を信じています」
「え?」
一瞬、何のことを云われているのか分からず、反応が遅れる。
「相称の翼は既に在る。そう信じています。噂は単なる噂であるのかもしれない。それでも、私は相称の翼について、手掛かりを求めているのです」
彼は再び翡翠に背を向けて歩み出した。
「それがこの世の衰退についての手掛かりではないのかと考えています」
「……皇子」
「この件については、後ほど。とりあえず使いの者から話を聞きましょう」
「大兄っ、それは翡翠様の訪問よりも優先すべきことなのですか?」
雪が声をあげると、皇子は背を向けたまま頷いた。翡翠は雪の肩に手を置いて、気にしていないと笑ってみせる。
「僕たちも、行こう」
「……はい」
翡翠が歩き出すと、皓月ものそりと踏み出した。黒鳥も高い位置で羽ばたいている。
翡翠は再び緊張している自分を自覚する。
相称の翼に関する手掛かり。
既に世にありながら、姿を眩ましているのか。
あるいは、黄帝と想いを通わせながらも、相称の翼となり得ない理由があるのか。
黄帝の輝きが失われつつある世界。
この世を脅かす闇。
目を閉じれば、枯れた地界が脳裏をよぎる。
翡翠は荒れた光景を振り払うように、大きく息をついて目を開いた。




