弐章:三 世の掟Ⅲ 1
「その通りです、白虹の皇子。……だけど、あなたもこの世の現状を嘆いているのですか」
「全てが翡翠の王子と同じ思いであるとは考えていませんが、通じる処はあるかもしれません」
翡翠は寄り掛かっている皓月に手を伸ばして、毛並みを確かめるように撫でた。皓月は目を閉じていたが、長い尾は相変わらずゆるゆると蠢いている。
「私は今の世における、黄帝の意味を知りたいのです」
ためらうこともなく、白虹の皇子が打ち明けた。翡翠は皓月を撫でる手を止めて、彼の淡い色合いの瞳を仰いだ。
「黄帝の意味、ですか?」
「どれほど文献を紐解いても、結論は同じです。この世は黄帝を失うと滅びる。そのような仕組みが出来上がっている」
「たしかに」
翡翠が同意すると、皇子はわずかに首を振った。
「そう、たしかに今まではそうでした。けれどね、王子。今はどうですか。そして、これからは?」
「これから――?」
いつのまにか、掌に汗を握っていた。翡翠は白虹の皇子が導こうとする結論を思い描いて、急激に緊張する自分を感じた。
「黄帝が在っても、この世は衰退へ向かっている。全くと言っていいほど、再興の兆しは見えない。子供騙しのような施策ばかりが横行している。挙句の果てに、継承権第一位の真名を差し出せと勅命を下す」
柔らかな微笑みが嘘のように、皇子は厳しく言い放つ。翡翠は動悸のする胸元を手で掴んだ。
「これまでのように、黄帝が世界の安定をもたらさない。そのように形作られた世でありながら。――翡翠の王子、私の考えた最悪の結末はこうです。意味のない黄帝は討たれ、この世は滅びる。天意は既に次の世界を築くために動き出している」
「皇子っ、――それは、……あまりに極端な発想だと思います」
思わず声を高くすると、皓月の長い尾が一瞬だけぴくりと不自然に蠢いた。皇子は翡翠の戸惑った様子を見て、再び笑みを取り戻す。
「たしかに、これはかなり極端な発想です。それでも、黄帝の意味が失われつつあるのは事実です」
翡翠は彼がなぜ皇位継承権を与えられていないのかを理解した。
彼の中に描かれた世界では、黄帝の輝きは過去の遺物となっているのだ。皇子は世界の頂に黄帝を思い描くことが出来なくなっている。
たしかに、それは翡翠も少しだけ考えたことだ。ただ、認めてしまうと世界は立ち行かない。この世が滅びるという結末を肯定することは、どうしてもできないのだ。
皇子は微笑みを取り戻したが、容赦なく翡翠に事実を突きつける。
「今の黄帝の御世には、その誕生と共に、それを討ち世界を滅ぼすという禍が生まれています」
「……闇呪の主ですか」
「そうです」
「だけど、彼も黄帝に従っているのですよね」
皇子は穏やかに頷くが、彼の明かす全てが、翡翠の希望とはかけ離れている。
翡翠は再び七儀の理を思い描く。残る二つは、紺と闇。それを今の御世に照らしあわすことは容易い。
紺の地。
滄と緋の狭間、南東に位置する先守の集う都。
滄と緋の混血から誕生する者を、紺の者、あるいは先守と云う。
先守は天籍にありながら、礼神を与えられない。代わりに未来を占う力を持ち、その占いが外れることはない。よって、彼らは知りえた未来を偽ることを許されていない。虚偽の発言は、死をもって償う定めとなっている。
紺の者は紫紺の髪色に紫の瞳、白亜のような肌を特徴とする。
先守の最高位に在る者は「華艶の美女」と称されている。
闇の地。
滄と碧の狭間、北東に位置する鬼の坩堝。
異界に通じる鬼門を持ち、天落の地に繋がる。
黄帝の命を受けて「闇呪の主」が治めている。裏鬼門は対極の南西に位置する。
翡翠の知る現在の天界は、そんなふうに成っている。地界は滄、透、碧、緋の四国に東西南北に分けられ、各国が治めていた。
「黄帝と闇呪の主は、実情がどうあろうと、七儀による金と闇の関係と同じです。生まれたときから、姿がそれを表している。そして、紺の先守もそう占っています」
翡翠もそれは否定できない。七儀の理によれば、金と闇は光と影、あるいは善悪を表すものとして扱われている。
「黄帝の神がこの世を照らす光であるならば、闇呪の鬼はこの世の闇、あるいは禍です。彼だけが呪を以って鬼を制する。それは黄帝から、あるいはこの世から光を奪う力なのかもしれません。黄帝の御世を脅かす影となる者。歴代の黄帝の御世に、そんな者が在ったという記録はありません」
「だから、この世は既に滅びることを約束されていると。皇子はそう考えるわけですか」
翡翠は短絡的だと思ったが、雪は何か気がついたらしい。
「でも、翡翠様。両者は大兄が言うように、生まれたときから、姿が立場を表しています。金を纏う者が黄帝。これは覆せない世の掟の一つです」
「――うん。僕の目が碧いことや、雪の銀髪と同じようなことだよね。僕達の場合は生まれた国を表すけど。黄帝は黄帝であることを示す。輝くような金髪と金の瞳。それが、いつの世も変わらない黄帝の証だから」
「そうです。では、闇を纏う者は世の禍となる。これも同じように覆せない掟です」
「まぁ、そうだね。だから、闇呪の主は黒髪と黒い瞳を持つと言われている。会ったことがないから、確かめたわけじゃないけど」
「私もお会いしたことはありません。でも、それが事実だとすると、どうして闇呪の主は生かされているのかしら。彼の存在は、どう考えてもこの世の禍となることを意味しているのに」
指摘されるとたしかに腑に落ちない。まるでこの世を滅ぼすために、わざわざ彼を生かしているように思えてしまう。翡翠は頭を抱えたくなった。
「じゃあ、やっぱり皇子の言うように、この世は滅ぼされるのを待っているっていうこと?」
絶望的な結果にたどり着いてしまうと、皇子が教えてくれる。
「闇呪の主が生きているのは、紺の者がそう占ったからです。禍として生まれた者を生かすようにと」
「どうして?」
翡翠は雪と声を揃えて白虹の皇子に聞いた。
「いずれ黄帝が相称の翼を得て天帝となれば、天帝が禍を討ち払う。それが紺の者が映した未来です」
「それまで生かしておくと?」
翡翠の問いに、皇子は頷いた。
「それ以外の方法は、この世に恐慌をもたらすようです」
「闇呪の主が、黄帝に反旗を翻すということですか」
「それについては、詳しいことは語られていません。けれど、禍の息の根を止めることができるのは天帝だけです。他の力では、闇呪の主を仕留めることが出来ないようです」
「まるで誰かが試したことがあるみたいに聞こえます」
皇子はもう一度頷いた。
「記録によると、闇呪の主が生まれた時、その四肢を切り落とし心の臓を貫いたそうです」
雪が痛々しそうに顔を歪める。翡翠も思わず口元に手をあてた。
「ただ、その記録が正しいのかは分かりません」
翡翠は吐息をついてから、改めて皇子に聞く。
「でも、先守の占いによると、闇呪の主はいずれ天帝に滅ぼされる。それなら、皇子の言うように、彼が世界を滅ぼすための禍だとは思えませんが?」
「その通りです。ただ、これまでに先守が天帝を……」
白虹の皇子は何かを言いかけて、不自然に口を閉ざした。翡翠が声をかけると、何かを振り払うように首を振った。
「いえ、これは私の思い過ごしでしょう。語るほどのことではありません。――翡翠の王子、この世が滅ぶというのは、最悪の事態が連続した場合の結論です。私も本気でそこまで悲観しているわけではありません」
穏やかに微笑まれて、翡翠も張り詰めていたものが緩んだ。皇子はこれまで語ってきた暗い考えを覆すように、希望を口にする。
「全ての鍵を握るのは相称の翼でしょうね。この世を再興させるためには、おそらく不可欠な存在です」
「天帝が顕在しなければならないということですか」
「そうです。それは誰もが考えていることでしょう。相称の翼については、色々な噂や憶測が飛び交っています。……最近では、既に存在しているのではないかという話まであります」
「もしそうだとすると、黄帝が秘めているということですか」
「可能性としては低いでしょうが……。ただ、見たという者もいるのです」
「ええっ? 相称の翼を?」




