弐章:二 世の掟Ⅱ
「王子は異界に精通していると聞きましたが」
「精通しているというと大袈裟ですが、よく渡り歩いて雪に叱られています」
「それは鬼門である闇の地から?」
翡翠は慌てて首を横に振った。
「さすがにそんな勇気はありません。闇の地には鬼の坩堝がありますからね。そこを治める闇呪の主もとても恐ろしい人物だと聞いています。僕は関わりたくありません」
「では異界――天落の地にはどのように?」
「裏鬼門ですよ、白虹の皇子。それでもはじめは恐ろしくて躊躇いました。ものすごい勇気が必要でしたね」
皇子は不思議そうに顎に手を当てている。翡翠は無理もない反応だなと苦笑した。
異界へ渡る方法は、闇の地にある鬼門を利用するのが一般的なのだ。本来ならば、まず自国の王に伺いを立て、王が闇の地を治めている主に鬼門を開く許可を得る。
回りくどい手続きを取ることになるが、それが何よりも安全な方法だと信じられていた。
「裏鬼門と言っても、越えるのは簡単なことではないでしょう。私の知りうる限りでは、裏鬼門の先も、天落の地に通じている筈です。無事に裏鬼門を越えたとしても、鬼門や天落の地を護っている闇呪の主に制裁を加えられる恐れがある」
「実は、当時はそこまで考えていなかったんです。今思えば、本当に無謀だったな」
翡翠が頭を掻くと、皇子は目を丸くしていた。
「私もはじめは翡翠様が無事に戻ってくるのかと心配でたまりませんでした」
「そうだよね。雪は僕が帰ると大泣きしていたもんね。無事で良かったって。不安な思いをさせて悪かったよ」
「それは今も同じです。ただ、私が少しだけ慣れてしまっただけで。今でも翡翠様が戻るまで、心配しているんですからね」
「ご、ごめんなさい、雪」
しゅんとなって詫びると、皓月がからかうように長い尾で翡翠の頬を軽く打った。皇子と雪は一緒になって笑う。
「そんな無茶をしてまで、なぜあなたは異界へ渡ろうと思ったのですか」
翡翠は咄嗟に言葉を選んだ。
「えーと、それは。――好奇心です」
「好奇心を満たすためだけに、勇気を振り絞って異界へ?」
皇子は疑わしそうに翡翠を見つめる。翡翠はその眼差しをまともに受け止められず、がしがしと頭を掻いた。
「その、幸いなことに、僕は闇呪の主には出会ったことがありません。裏鬼門を越えるのは今でも気持ちの良いものではありませんけど、これといって害はないみたいだし」
皇子は興味深く頷く。心なしか目が輝いているような気がした。
「気軽に行き来が可能であるなら、私も裏鬼門を越えてみたくなりました。書き記された記録からではなく、この目で異界を眺めて確かめてみたい」
「それなら、僕と一緒に。皇子がその気なら案内しますよ」
「その時はぜひお願いしましょう。私はこの世から堕天したという、紺の先守に会ってみたいのです」
「堕天した紺の先守?」
翡翠が聞き返すと、皇子は頷いた。
「異界とこちらでは理が違います。だから、彼がまだ存命しているのかは定かではありませんが、末裔が異界に生きて今も天落の地を護っています。異界とこちらを繋ぐ地を護るのは闇呪の主だけではないようですからね」
「それは、異界に生きるという先守の一族ですか」
「ご存知ですか」
「いえ。どこかで聞いたことがあります」
「そうでしょうね。天界の創世記にも描かれています」
「創世記? でも、じゃあ、あれは単なる言い伝えではなくて、事実ですか」
「創世記として残された記録は、真実であると私は考えています。この世界の全ての理と掟が、そこには描かれている。過去のどんな出来事も、全てが創世記に残された法則に従って出来上がっている。私が目を通した様々な記録にも、今の処これを裏切る記述はありません」
創世記を聞きかじっている者は多いが、全てに目を通している者は少ないだろう。翡翠にとっては、それを読破したというだけで、皇子を尊敬の眼差しで眺めてしまう。
翡翠が知る創世記は、七儀の理ぐらいである。
金、紺、滄、緋、碧、透、闇。
七彩によって形作られた世界。
たしかに、それをなぞるようにこの世界が在る。
翡翠の生きる世界。
今も昔も変わらず、世界の中央にあるのは金域。
麒麟を守護とする黄帝、あるいは天帝の住む都。
金域の四方に配された国。
東に滄。
蒼龍を守護とし、水を司る国。滄に生まれた者は、青銀の髪と、深い青を映した瞳、白皙の肌色を与えられる。国王の愛称は、青の君。
南に緋。
朱雀を守護とし、火を司る国。緋に生まれた者は、緋色の髪と、朱の瞳、陶器のような白い肌を与えられる。国の主は女王、愛称は赤の宮。
北に碧。
玄武を守護とし、地を司る国。碧に生まれた者は、茶髪に碧眼、褐色の肌色を与えられる。国王の愛称は、緑の院。
西に透。
白虎を守護とし、風を司る国。透に生まれた者は、白銀の髪、灰褐色の瞳と、雪白の肌色を与えられる。国王の愛称は白の御門。
「たしかに、この世界は創世記に描かれた通りにありますね」
翡翠は限られた知識を振り返って、そんな結論にたどり着く。それでも、創世記が世界の起源を書き残したというより、この世界に見合う起源を誰かが作り上げたのではないかと考えてしまう。
翡翠が皇子にそれを話すと、彼は頷いた。
「もちろん、創世記は後付けの記述でしょう。それでも、王子。創世記がこの世の理や掟をまとめていることには変わりがないのです。この世界の出来事から導き出された法則を、誰かが知り得る限り書き著した。それでもかまわない。どちらにしても記された掟は正しいのですから。後世の者にとっては、それだけで創世記の価値は充分にあります」
翡翠が頷くと、皇子は微笑んだ。
「それでも、私は創世記が全てを満たしているとは思いません。だから、膨大な記録に目を通して真実を確かめているのです」
「先守の一族に会いたいのも、真実を知るためですか」
「そうですね、記録の裏づけとなるのならば」
目を伏せた白虹の皇子は、憂いを帯びた眼差しをする。翡翠には彼の中に在る世界を窺い知ることは出来なかった。
「異界に先守の一族が生きているとしても、どうなんだろう、皇子。天落の地は、大きな学び舎の中にあるんです」
「学び舎?」
翡翠はこの世と繋がっている学院について説明した。皇子は異界における義務教育についても興味を示したが、話が尽きず先に進まないので適当なところで話題を戻す。
「王子はその学院に席を置かれたことは?」
「残念ながらありません。僕はいつも異界を彷徨っているだけで、異界の者と生活を共にしたことはないので」
「そうですか。しかし、王子の話が、私の知識と違えるところはありません。最近、異界に渡った者の記録によると、先守は天宮と名乗る一族です」
「じゃあ、あの学院の理事長が?」
「そういうことになるでしょう。異界には神や、鬼を扱う術がないと言います。それでは、鬼門は異界の人々の手に負える物ではあり得ません。先守がその地を離れられるはずがない」
「だけど、知っていたのなら、渡った者は先守に色々と話を聞けるのに」
「堕天した先守は、こちらに関わることを一切口にしないそうです。訪れた者を嫌悪することも、歓迎することもしない。それが彼らの決め事なのかもしれません」
「どうして?」
「さぁ、それはわかりません。天宮のことは闇呪の主が公に出した異界録に、わずかに書かれています。闇呪の主は、鬼門や天落の地などを護ることを、黄帝から言い渡されている。その成り行きで天宮と関わることもあるようですが、必要以上の接点は持たないようです。どちらも互いに無関心なのかもしれません」
「へぇ、じゃあ、誰もが恐れる闇呪の主にも使命が与えられていたのですね。そんなふうに黄帝に従っているとは知りませんでした」
「そうでしょうね。人々が語る闇呪の主は、悪の象徴として出来上がっています」
「でも、それは紺の先守が占った結果ですよね。禍は闇を纏い、黒麒麟をもって生まれる。いずれ黄帝を討ち、世界を滅ぼす凶兆ともなり得る者だと。紺の者は決して偽りを口にしないわけだから、それは真実ということになります。僕は常々どうしてそんなふうに世界を脅かす者を生かしているのか不思議でしたが、役割を与えられて黄帝に従っているのなら、人々が語るほどの悪でも禍でもなかったわけだ。世界は色々な方法で護られているということですね」
今まで知ることのなかった事実を教えられて、翡翠はこの世の仕組みの巧みさに唸ってしまう。やはり黄帝を頂に立てて、この世の全ての成り行きがあるのだと感じた。
「でも、白虹の皇子はどうしてこの世のことを調べているんですか」
何気なく聞いたつもりだったが、皇子は浅く笑った。
「王子が異界へ渡る動機と同じではないでしょうか」
「え?」
驚いたように皇子を仰ぐと、彼は真顔で翡翠を見た。灰褐色の瞳に、はじめに感じた鋭い白刃が閃いた気がした。
「――この世の衰退を憂い、何か出来ることはないのかと手掛かりを探してしまう。違いますか、翡翠の王子」
悪戯めいた笑みで、皇子がこちらを窺う。翡翠が雪を見ると、彼女は小さく頷いた。自身の中に巣食う焦燥を見透かされているようで恥ずかしいが、翡翠は素直に頷いてみせた。




