壱章:四 白虹の皇子(はっこうのみこ)1
臣従が案内してくれたのは、皇子の居城の前までだった。翡翠は門外で頭を垂れて見送る者を振り返って、隣の雪を肘でつついた。
「雪の兄上の宮殿って、従者は立ち入り禁止なの?」
「立ち入りを禁じられている訳ではないのですが……」
珍しく雪が何かを言い淀んでいる。翡翠は簡単に説明するのが難しいのかと、それほど不審に感じることもない。少々の事では驚かない自信がある。ゆっくりと慣れた仕草で宮殿に入る雪を追いながら、翡翠はすぐに自分の考えを改めた。
広い宮中を進むたびに、異様な佇まいが明らかになっていく。
天井を支える柱の他にも、そこここに背の高い奇妙な影かある。たどり着いてみると、それは山積みにされた過去の記録や、文献の束だった。
柱のようにうずたかく積まれ、さすがの翡翠も傍らを過ぎるときに崩れ落ちてこないかと不安に駆られた。実際、辺りを眺めていると、崩れ去ったのであろう書物の柱が、残骸のように無造作に散らばっている。
歩を進めていくと、綴本、巻物が床を占領して真っ直ぐに歩くこともままならない。
雪はこの惨状に慣れているのか、散らばる書物をものともせず進んでいく。翡翠は遅れを取らないように足場を探りながら、避けて歩くのが精一杯だった。
開け放たれた房の中も、広い廂にも書物や巻物ばかりが溢れかえっている。
「翡翠様、大丈夫ですか」
「え?うん、まぁ、何とか」
どんなふうに感想を述べればいいのか検討もつかない。一国の皇子の居城というよりも、文献を片付けている蔵の中を彷徨っている気分になってくる。
「なんだか、すごいよね。もしかしてこの書物に触られるのが嫌で、常に宮殿中を人払いしているとか?」
足元ばかり気を取られていたせいで見落としているのかもしれないが、翡翠は宮殿内で誰かの人影を見た記憶がない。雪は翡翠を振り返って、いつもの笑顔を向ける。
「勝手に整頓しても、大兄は怒ったりはしません。ただ、片付けるだけ無駄ですし。きっと周りの者は恐れているのだと思います」
「白虹の皇子を?」
「違います。……いえ、そんなものを飼っている大兄も恐れるに足るほどの変人ではありますけど」
雪を映している視界の端に、翡翠は小さな黒い影が過ぎるのを見た。小鳥のようにも見える小さな影がぱたぱたと羽ばたいている。色合いを見分けようとして目を凝らすが、それは影色のままこちらへ近づいてくる。
何かに目を凝らしている翡翠の視線に気付いて、雪も同じようにそちらを見た。
「ああ、大兄の宮に人が近づかないのは、それのせいです。翡翠様」
別に大した事ではないような雪の口ぶりだが、翡翠は浮遊物が近づくほど自分が緊張して行くことに気付いた。
晴れることのない影。
暗黒を纏う輪郭。
黒い鳥。
強烈な嫌悪感が込み上げた。初めて異界を目にしたときの恐れとよく似ている。
闇をあらわす黒。この世では穢れ、凶兆、全ての禍の象徴だった。神と相反する鬼の力から成ると言われている。
異界の人々に多い黒髪と黒目は、ひどく翡翠を驚かせた。
はじめはこちらが天帝の加護で成り立つように、異界は鬼によって成る地獄ではないかと考えたくらいである。
今でも異界に覚える違和感は払拭されていないが、異なった理で成る世界を知っていくうちに、はじめの強烈な恐れや嫌悪は失われていった。
けれど、今は。
ここは異界ではないのだ。こちらの理によって在る天界である。
「ゆ、雪」
翡翠は全身に冷たいものが走り抜けてゆく。思わず羽ばたいて来る物に掌を翳した。
雪が慌てたように、翡翠の腕に抱きつく。
「駄目です。いけません」
雪が跳びついて来た勢いで、二人は派手に倒れこむ。紙の束がバサリと舞ったが、翡翠は再び目前で羽ばたく黒い鳥を見つけた。さあっと血の気が引く。
「ちょっ、……これって、どう見ても鬼じゃないの?」
思わず叫ぶ翡翠に、雪は「違います」と声を上げた。
「触れても害はありません。これは呪をかけられた鳥です」
「じゃあ、やっぱり鬼でしょ。そんなもの野放しにしないでよ」
「違いますってば、翡翠様」
翡翠は礼による神で蹴散らせるかと考えるが、雪がそれを阻むように強く腕を回していて身動きが出来ない。
「鬼だったら、絶対に害が出るよ。雪の兄上は心が清いのかもしれないけど、僕は違う」
「私だって純粋じゃありません」
「雪は純粋だよ」
「それは翡翠様の買い被りです」
「買い被りじゃない、っていうか、もうすぐそこに来ているんだってば」
思わず声が高くなるが、雪は翡翠の動きを封じるように身を寄せたままである。翡翠は間近まで迫った黒い影を見て、嫌悪感が極まる。ざわりと鳥肌が立った。
既に考えている余裕がない。力に任せて雪の細い腕を掴んで引き離すと、黒い影と間合いをとって対峙した。
「――滅す」
「翡翠様っ」
再び掌を翳すと、間近にあった影は何かに呼ばれたかのように向きを変えた。大きく羽ばたいて、まるで梢で休むように、ふわりと現れた人影の肩に止まった。
「その掌をおさめて下さい」




