壱章:三 訪透(ほうとう)
ひたひたと長大な廊下を戻りながら、翡翠は華やかな裳衣の襟に指をかける。着崩れない程度に開いて、大きく息をついた。許されるのならば今すぐ脱ぎ捨ててしまいたい位である。加えて一面が白い宮殿の内装が圧倒的だった。自身の意識が白い壁や柱に飲み込まれてしまいそうで、軽く眩暈すら覚える。
「翡翠様、もしかして緊張していらしたの?」
同じように着飾った雪が、からかうような眼差しで翡翠を見る。
二人は雪の生まれた透国を訪れていた。雪の兄である白虹の皇子を尋ねて来たのだ。目的は明らかだが、翡翠は碧国の王子として正式に訪透しているのだ。一人で素性を隠して出歩くのとは話が違う。この国の皇女である雪も一緒なのだ。一国の主に挨拶もせずに、城内を散策する度胸はなかった。
翡翠は隣を歩く雪を眺めて、少しだけ煩わしさが緩むのを感じた。自分の生まれ育った国に戻ったせいか、彼女はいつになく嬉しそうに笑っている。
「堅苦しいのは勘弁だけど、まぁいいや。雪が嬉しそうだし、とても綺麗だから」
自身の住まう翡翠宮でも、雪は翡翠と違ってきちんとした装いをしている。それでもこれほどに着飾る姿は、さすがに催事がなければ見られない。
幾重にも纏った華やかな衣装の裾を綺麗にさばいて、彼女はするりと歩を進める。
美しく聡明な皇女。立ち居振る舞いだけでも、それは見て取れる。国の誰もが認めてきた評価。きっと彼女にも自覚があったに違いない。
翡翠はこんなにも良く出来た皇女が、自分のような変人と心を通わせてくれたことが、不思議でたまらなくなる。これまでにも何度か思ってきたが、こんな姿を見るとますます謎だった。
「綺麗なのは翡翠様の方です。髪色の深さも、褐色の肌も淡い色合いに映えます。その深さが目を惹きますから。色目を選んだ者も良く心得ているのだわ」
まともに褒められて、翡翠は照れくさくなってしまう。普段は無造作に束ねているだけの茶髪も、今は丁寧に櫛をいれられて盛装に似合うように纏められていた。
身動きがままならず鬱陶しいだけの重ね着だが、雪が褒めてくれるのなら悪くないかもしれない。不満しかなかった華やかな裳衣に対する考えを、翡翠は少しだけ改めた。
二人は白の御門との謁見を終えて、はじめに案内された居室へ戻った。
「でも、やっぱりもう限界」
翡翠は重ねられた衣装を、鎧を外すように一気に脱ぎ捨てる。
雪が彼の意を汲んで人払いをしているので、こちらから用向きを伝えない限り、宮中で仕える者が現れる心配もない。
「私は着替えてきます」
「うん。……もったいない気もするけど」
名残惜しそうに雪の立ち姿を眺めると、彼女はひらりと袖を一振りしてみせる。
「そんなに私を褒めても何も出ませんよ。翡翠様、人を呼びましょうか」
「いいよ。僕は自分で勝手に着替えるし。こっちの見慣れない人達の手を煩わせるのも悪いし。そういう至れり尽くせりって、落ち着かないから」
雪は「そうでしたね」と笑いながら、退室した。翡翠はこちらに着いた直後の着せ替え人形の状態を思い出すだけで、思わず身震いしてしまう。本来なら王子として当たり前の扱いなのだろうが、どうしても馴染めないのだ。
地界や異界を行き来しすぎて、幼い頃に培われた習慣がいつのまにか失われてしまったのだろう。自分で出来ることを、わざわざ他人に託す必要性を感じない。王族の世話を生業として生計を立てている者がいることは理解している。それでも、どうしようもなかった。気恥ずかしくてならないのだ。
翡翠は自分達のために用意された居室を、改めて見回した。透国の様式は極めて碧国と等しい。装飾も建造物の特徴も、衣装の纏い方も似通っている。国儀的な色合いの相違を除けば、異国の居室に招かれていても見慣れた調度品に囲まれていた。
翡翠はもう一つの不可思議な世界を思い出す。
異界。
こちらの世とは異なった理で形作られた世界。
まず時の流れが違うのだ。天界と地界にも違いはあるようだが、異界の時間は比較にならない。翡翠の体感としては、十倍と考えても足りないくらいに巡りが早い。異界へ渡るたび、翡翠はこちらの世が何かに取り残されていくような錯覚に陥る。それほどに技の発展が目まぐるしく、初めて異界を目にした時と今では、向こう側は信じられない変貌を遂げていた。
天階で繋がれた天界と地界。理の差異はともかく、こちらの世界は異界の人々にとって古を彷彿とさせる光景であるのかもしれない。
翡翠は手際よく簡潔な装いに着替えて、寝台に掛ける。
碧と透の様式は、異界で知り得た唐様にも似ていた。今となっては古典と成り果てた和様に加えて、少なからず唐様の融合した様式。
東にある滄と南にある緋の国では、このような唐様への傾倒は見られない。
異界とこちらの仕組みの違いは明らかであり、繋がりを断ち切られたように独立しているのに、なぜか多くの共通項が存在する。
翡翠にとって異界は好奇心の宝庫ではあるが、憧憬を抱くことはない。時として効率の良い仕組みに感嘆することがあっても、翡翠はやはりこちらの世界を美しいと感じた。
失くしたくないのだ。
天帝の加護が得られない日々。
少しずつ歯車の狂いだした世界。
異界を渡り歩くのも、地界に立つのも、それを止める術を求めているからだ。常に焦燥に駆られているのだと自覚があった。
そこはかとなく感じる喪失感。
翡翠は思わず自身の掌を眺めた。
掌をすり抜けて零れ落ちていく砂を、成す術もなく眺めているような思い。翡翠の掌では、小さすぎて受け止めることが出来ない。
儚くて脆い、崩れ行く美しい世。
失いたくない。
「翡翠様、どうなさったの?」
突然近くで聞きなれた声がして、翡翠ははっと我に返る。顔を上げると、見慣れた簡素な装いをした雪が立っていた。物思いも忘れて、翡翠は思わず指摘する。
「雪、それ。その格好はまずくない? いくら自分の兄上って言っても、皇子なんだしさ。そこまで平常着でいるのは失礼じゃないの?」
「貴方に言われるなんて、なんだか可笑しい」
雪は袖の端で口元を押さえるようにして笑っている。
「僕はちゃんと作法に則って略しているよ、ほら」
「見れば分かりますわ。ご自身の宮では、いつも夜着に何かを羽織るだけなのに」
「僕は寛ぎたいの。案外、他の王子もそうかもしれないよ。内殿ではどんな格好をしようと、自由なんだから」
開き直っていると、雪は珍しく「そうかもしれません」と同意する。
「私も翡翠様の他に、心当たりがあります」
「それって、もしかして白虹の皇子のことだったりして?」
「はい。ですから、このように軽装で充分です。翡翠様もそんなに畏まらなくても」
「え? でも、さすがに僕はまずいよ。それほど面識もないしさ」
「……きっと、そんな気遣いをした自分を後悔します」
ぼそりと小声で不吉なことを言われた気がしたが、翡翠は軽く聞き流してしまった。雪の白い手が翡翠の腕を取る。
「とにかく参りましょう、翡翠様」




