壱章:二 比翼と翼扶(ひよくとつばさ)2
「王が真名を献上するのは、国策の一環として外すことはできないけど、継ぐ者の真名を必要とする理由がわからないな」
「黄帝の治める神を、少しでも地界へ送り込むためだと聞きました」
雪の答えは、それだけを聞くと荒廃の進む地界を救うためだと受け取れる。けれど、翡翠はすぐに黄帝の示す理由に齟齬を感じた。
「それ、おかしくない?」
「おかしいと思います。天帝の加護が地界に達しないのは、黄帝ご自身の問題ではないのかしら。黄帝が神を思うように発揮できないのに、媒体をいくつ増やしても同じです」
「うん、僕もそう思う」
天界に生まれ、天籍を持つ者に与えられるのは、真名だけではない。
地界の人々が持ち得ぬ力、――礼神が与えられている。
天地の繁栄に大きく関わる力を、神と言う。異界に照らし合わせるのなら、万物の生長を促す陽徳に似ている。
一方、礼は神を治める時に用いられる。
真名が礼の発動に関係があるとの節もあるが、今のところ明らかではない。
黄帝の発動した礼によって発揮された神を、天帝の加護とも言う。
それは一国の王が持つ力とは比較にならないほど強大で、この世を育む。
王は自身の真名を献上することによって、天帝の加護を地界へ供給する媒体となり得るのだ。
「これまではずっと王お一人でも国は豊かだったのですし」
「黄帝の発する神を不足なく受け止める器は、王一人で充分にあるはずだよね」
「もちろんです」
「そんな見え透いた理由つけてまで。黄帝はいったい何を考えているんだろう」
翡翠は自身が誕生した頃、既にこの世は最盛期を過ぎていたのかもしれないと思う。この世が栄華に包まれていた時代は、四天王が心から黄帝を慕い、その証として真名を差し出したという。黄帝への忠誠心があってこそ、真名の献上が成り立っていた。
今となっては本意が失われ、天帝の加護を効率良く地界へ送り出す方法として在るだけだった。
最近はそれすらも意味を失いつつある。
天帝の加護が得られない日々。これまでになく長く続いている。
「僕達は無力だね。天帝の加護を失うと、全てが立ち行かない。例えば、天帝の加護を失っても痛手を受けないような策を講じることはできないのかな。異界のように、人々の力で切り開く道は与えられていないのだろうか」
天界では他に類を見ないほど、翡翠は異界を渡り歩いている。こちらとは違い、異界の変化は急激で、翡翠の好奇心が止むことはない。
翡翠から異界の話を聞かされている雪は、困ったように首を傾けた。そしてきっぱりと告げる。
「私達には与えられていません」
翡翠は予想通りの言葉に、苦く笑った。
「私の大兄も翡翠様のように風変わりで、おかげで私は古の話をたくさん耳にしました。大兄は過去の文献にかじりついているような人でしたから」
「うん、前にも聞いたね」
「残された古の文献によると、黄帝を討ち取ってその玉座を狙った者はあります。もちろんそれは野心からであり、翡翠様のように世界を憂いたわけではありませんが。記録によると、謀反は成り黄帝の首が落ちました」
「そんな事実があったんだ」
「はい。けれど、黄帝の守護である神獣がすぐに謀反を企てた者を裁いたそうです。そして次の黄帝の御世が始まるまで、亡き黄帝の守護が代わりを務めます」
「代わりを務めるって?どうやって」
「黄帝の守護が、同じように礼を以って神を治めるようです。守護には天帝の加護に匹敵する力が与えられているみたいですね」
「それって、麒麟だよね。そうか、それなら四天王が四神をたずさえて企てたとしても、一瞬で討伐されて終わりだね」
「はい。黄帝に称の翼があれば、もっと話になりません」
「それは想像するのも無駄な気がする」
翡翠は「へぇ」と感心するが、雪の示した結論に吐息をついた。
「要するに、黄帝のいない世界を想定することは無駄だということだね」
「これまでの歴史を振り返ると、そういうことになります」
「それが、こちらの世界の理か」
うな垂れた翡翠に、雪は微笑みを向けた。
「あちらとこちらでは、理が違います。それは翡翠様が一番知っているのに」
「うん。まぁ、それはそうなんだけど」
「それに異界でも同じことです。彼らも天に輝く太陽を失ってしまえば、活動を維持することはできません。それは、こちらの天帝の在り様と良く似ています」
「そうだね。僕達にとっては黄帝が世界を育む自然となり、宇宙になるのかもしれない」
天帝の加護があってこの世が成り立つ。覆すことの出来ない、絶対の理。その理によって、すべての掟があるのだ。
どれほど黄帝が無力であったとしても、黄帝を失くして何かを考えることが間違えている。黄帝を助けることは、そのまま世界が輝きを取り戻すために働くことに繋がるのだ。それこそが、天籍にある者の務めなのかもしれない。
天意は全てが輝いていた古のように、黄帝への偽りのない忠誠を蘇らせたいだけなのかもしれない。
翡翠は考えを改めようと、大きく息を吐き出した。
「兄上の真名を献上することは、それほど憂慮することではないのかな。じゃあ、いったい僕たちには何ができるんだろう」
「そうですね。――原因を探ることではないかしら」
「原因って?」
「黄帝の神が、どうしてこれほど失われてしまったのか。だって、おかしいでしょう。天帝の加護が大前提として作られた世界なのに、それが費えてしまうなんて。天意がこの世の終わりを望むなんて在り得ない筈ですし。何か理由がある筈だと思います」
「雪って、すごいよね」
「私が?」
「うん。雪と話していると、落ち込んでいる自分が情けなくなってくる。道が開けてゆくような気がするよ」
「そんな、大袈裟です」
雪は戸惑ったように胸の前で手を振る。滅入っていた気が少しだけ立ち直ったせいなのか、翡翠は急激に眠気に襲われた。大きな欠伸をすると、雪が小さく笑う。
「少しお休みになってください。礼を消耗して、疲れているでしょう?」
「うん」
素直に頷いて、翡翠は起こしていた上体をばたりと倒した。寝台に横になったまま、榻牀から立ち上がった雪を見上げる。
「あっ、雪。駄目、傍にいて」
退室しようと考えていた雪は、綺麗な瞳を丸くして翡翠を振り返った。
「翡翠様は、まるで子どもみたいです」
「だって、雪が好きだもん」
臆面もなく言葉にすると、雪の白い頬がぱっと赤らんだ。彼女は恥ずかしそうに翡翠を睨む。翡翠はゆっくりと腕を持ち上げて、手をのばした。
「ねぇ、傍にいて。雪を抱きしめて眠りたい」
彼女はますます頬を染めるが、拒むことはせずゆっくりと寝台に歩み寄ってくる。瑤珞を解いて薄絹の表着を脱ぐと、翡翠の隣に横たわって身を寄せた。
「雪の匂いがする。とても甘い」
長い銀髪が寝台の上に広がって、美しい織物のように輝いている。翡翠は彼女に触れて、瞳を閉じた。
「父上や他国の王はどう考えているんだろう。兄上も」
「真名の献上のことですか」
「うん。掟は掟としても、忠誠と服従は違うよね。黄帝に考えが在ってのことだとしても、今の状況では複雑じゃないかな。それとも、僕がこの世の道理を知らないだけなのかな」
「どうでしょう。――翡翠様、私の大兄を紹介しましょうか」
「雪の?」
翡翠は閉じていた瞳を開く。雪がすぐ間近で翡翠を見つめたまま、小さく頷いた。
「どうせまたあちこち彷徨って、考えをめぐらせるのでしょう?」
言い当てられて、翡翠は誤魔化すように笑った。
「この世の理は、きっと大兄が詳しいと思います。古の事例から、今の在り様を導いてくれるかもしれません」
「うん、わかった。ありがとう、雪」
翡翠は愛しい温もりを抱き寄せて、再び目を閉じた。




