壱章:一 比翼と翼扶(ひよくとつばさ)1
白い夜着の上に深緑の袍を羽織るだけの身軽さで、翡翠は寝台に倒れこんでいた。雪は天蓋から垂れ下がる紗に手をかけて、労わるような眼差しを向ける。
「そのまま、少しお休みになったらいかがですか?」
翡翠はゆっくりと上体だけを起こして雪と向き合う。
「ううん、大丈夫だよ」
笑顔で答えてから、彼は彼女が手に抱えているものを見て更に顔を輝かせる。
「そう言えば、お腹が空いた」
雪は可笑しそうに笑って、彼に手にしていたものを差し出した。
「そう思って用意しました。どうぞ」
「ありがとう」
銀の皿に盛られた蒸し物を手にとって、彼は勢い良くかぶりつく。黙々と咀嚼する翡翠を見つめたまま、雪は傍らの榻牀に腰掛ける。
「そんなに消耗されて、いったい地界で何をしていたのです?」
翡翠の臥所は翡翠宮の内殿にあり、これより奥には軒廊を渡った先に雪の居室があるだけだった。閨門で隔てられた内殿に行き来できるものは、翡翠宮にある臣従の中でも一握りの者だけである。
人払いの必要もなく、二人が包み隠さず全てを語れる絶好の場所となっていた。
翡翠は皿に盛られていたものを綺麗に平らげると、大きく溜息をついてから雪に答える。
「地界の様子があまりにひどかったから、少しだけ自己満足に浸っていただけ」
「それでは、やはりまだ天帝の加護は戻らないのですね」
「うん、そうみたい」
頷いて肩を落とす翡翠に、雪が恐ろしいことを呟いた。
「もしかしたら、このままこの世は滅んでしまうのかもしれない」
あまりに率直な意見だった。翡翠は顔をしかめて唸る。
「ちょっと、不吉だよ、それ。しかもこの状況だと笑えない処が更にきつい」
「やっぱり、貴方もそう感じているのでしょう?」
翡翠はぐっと言葉を詰まらせてしまう。雪が追い討ちをかけるように続けた。
「実はね、翡翠様。天界でも少し腑に落ちない出来事がありました」
「どういうこと?」
「昨日、この国にも黄帝からの勅命が下りました」
じわりと胸に嫌な影が広がっていく。翡翠は眉を寄せたまま雪の美しい双眸を見つめ返した。声がかすれるのを自覚する。
「勅命って、どんな?」
「――継承権第一位の真名を献上すること」
闇が一瞬にして広がっていくような錯覚がする。翡翠自身、それが何に基づいた不安なのかは分からない。
けれど。
世界が滅びる。
そんな印象が強く胸に刻まれて、どこか暗い処へ引き摺られていくような気がした。
「兄上の真名を?」
「こちらの国では王位継承権が碧宇の王子にあります。そういうことになってしまいます」
碧宇という愛称をもつ王子は、翡翠のただ一人の兄だった。弟よりも明るい碧眼は、澄み切った深い空の色に似ている。周りの者がその美しい色合いを愛でて、彼をそう呼ぶのだ。もちろん彼らの父親は碧国を治める王であり、緑の院と呼ばれている。
天籍にある者は、生まれたときから愛称を生涯の名とする。それは生まれた日や、容姿など、あらゆる意味を込めて周りの者が与える呼び名だ。
そんなふうに天界の者が愛称で過ごすことには、覆せない理由があった。
彼らは生れた時から、その魂魄に名を刻まれている。それを真名と位置づけて、愛称と区別しているからだ。
真名は五体を無事に授かることよりも重要であり、同時に生粋の天籍を与えられる印のようなものだった。中には魂魄そのものを現していると言う者もいる。
「翡翠様、怖い顔をしているわ」
「え?そ、そうかな」
翡翠は慌てて表情を取り繕う。胸に芽生えた不穏な影をごまかすように、掌で頬をむにむにと弄んだ。
「黄帝に真名を献上するなんて、兄上も光栄だよね」
本心ではない言葉が、発する先から腐り落ちて空気を淀ませる。翡翠の思いを正しく汲み取っている雪は、俯いた彼の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「それは貴方の本心?」
「――雪」
一瞬にして建前が崩れてしまう。翡翠は情けない表情で窺うように雪を見た。
「私に偽りを演じる必要はありません」
「そうだね。雪は僕のかけがえのない伴侶だものね」
微笑みを取り戻して、翡翠は碧眼に雪を映す。縁を結び、契りを交わした愛すべき妃。
「それに、自分の真名を教えた、ただ一人の翼扶だし」
「翡翠様が私を裏切ったら、私はその真名で貴方を滅ぼすことができます。どうぞお忘れなく」
雪はいつもの笑顔で恐ろしいことを口にするが、それは二人の間に絶対の信頼があってこその発言だった。翡翠は彼女らしい労わり方だと、小声で笑ってしまう。
「それは、雪にも同じことが言えるよ」
「もちろんそうです。私にとって生涯で一番の幸運ですもの」
雪ははっきりと幸せであることを示し、屈託なく笑う。
「私は翡翠様と縁を結んで伴侶となり、最大の幸運に恵まれました。私は貴方の翼扶となり、貴方という比翼を得ることが出来た」
「うん」
「私の真名を知っているのは、翡翠様だけ」
縁を結び、契りを交わすことは、それだけで貴い。心から睦みあうだけで、伴侶の片翼として認められる。
けれど。
魂魄に刻まれた真実の名。
真名。
それを教えることは、相手への最上の忠誠を示す。
天籍を持つ者が己の認めた伴侶に対する愛情として語ることも多い。
契りを交わした相手に、魂魄に等しいそれを差し出すことで、より強く自身の想いを相手に刻むのだ。
無論、全ての夫妻が翡翠達のように仲睦まじいとは限らない。国同士の利益が絡み合った婚姻もありふれている。契りも交わさず、互いの真名も知らずに生涯を連れ添う夫婦も少なくない。
一過性の恋情を示す道具として扱うには、真名の持つ掟は厳しい。真実の名を語ることには覚悟しなければならない一面もある。
天界において誰かを殺傷することは、地界に等しく大罪である。極刑である死を賜って償わなければならない。けれど真名を以って殺めることだけは、罪に問われないのだ。
真名を語るということは、魂魄の行く末を相手に委ねること。夫婦なら互いの真名を語り合って心を示す。反面、相手に対する裏切りには、常に破滅の覚悟がついてまわる。よほど心の通じ合う者同士でなければ、最後には悲劇を迎えることにもなりかねない。
翡翠は胸にこみあげてきた不安の正体を考える。
本来、真名を明かす相手を得ることは、最上の幸運なのだ。
最愛の伴侶にめぐり合えること。
そして、命を賭しても悔いのない主上に出会うこと。
この世界がもっと幸福な日々で満たされていた頃は、黄帝に真名を献上する王は、それだけで国家の誇りだった。
四天王と呼ばれる各国の王は、自ら進んで魂魄を差し出すに等しい真名を献上する。
黄帝は世界の源。
相称の翼を得て天帝となれば、その恩恵は計り知れないものとなる。
この世を満たす、金色の力。
異界に輝く太陽のように、その光があって、はじめて世が成り立つのだ。
天子として起つ黄帝は天意が定める。人々の意思や思惑は介入の余地がない。
天意の択誼を反故にすれば世界が滅びる。
それがこの世の理だった。




