序章:二 天界(てんかい)
疲労感を漂わせた足取りで、それでも人目に触れぬように細心の注意を払いながら、彼は天階から宮城へと続く道程を進んでいた。
地界から自らの住まいまで戻ってくると、彼はその落差をありありと感じて余計に気が滅入ってしまう。天界に在ること、天籍を与えられることには、同時に重責がついて回る。
分相応な責任と役割があると分かっていても、彼は枯れた地界を思う度に、自身に与えられた境遇を後ろめたく感じてしまうのだ。
全てが決められた仕組みの上に成り立っているのだとしても、どうしても快諾できない。
地界にある民が幸せで活気に満ちている頃は、そんなふうに感じることもなかった。天界のありようが神々しいほどに華やかでも、人々はそれに劣らぬほど明るく笑っていたからだ。彼自身も天界の働きが地界の暮らしの礎になっているのだと、王族にあることを誇りに感じていた。天籍を与えられる立場を嫌悪したことなどなかった。
地界があれほどに枯れてしまうまでは、ずっと。
彼はもつれる足でようやく城内へたどり着き、深い緑で塗られた柱の影に隠れるように内奥へと進む。まだまだ気が抜けない。城内に入ってからも先が長いのだ。気の遠くなるような広大な敷地を渡り、このまま自身の居城までたどり着かなければならない。
天界に在る重鎮の目には、今の彼の姿は呆れるほどに質素な衣装だった。城内を警護している衛兵になど見つかれば、王子だと訴えても信用してもらえないだろう。不審者として査問にかけられた挙句、叩き出されてしまいかねない。
それに例え素性が明らかになったとしても、ただでさえ絶えぬ好奇心に翻弄されて城内に留まっていることが少ないのだ。自身の立場を理解していないだとか、変わり者だとか、今でも既に陰口を叩かれている。良からぬ風評に追い討ちをかけることは間違いがない。
彼自身は周りの評価など痛くも痒くもないのだが、いつもそれを嘆く者がいるので悪目立ちは避けたかった。自分なりに、いちおう品行方正な王子を演じているつもりなのだ。
彼はようやく視界に自身の居城を映すところまでやって来た。途中で人の気配から遠ざかるため、駆け足で突っ切った場面もあり、疲労感に加えて息も上がっている。
自身の住まいである翡翠宮までを、こんなに遠く感じたのは初めてかもしれない。
(こ、ここまで来れば、大丈夫)
立ち止まって翡翠宮へと続く門に寄りかかっていると、突然視界に影がよぎる。彼はぎくりとしてすぐに背後を振り返った。
間近で困ったように微笑む表情と出会う。彼は安堵して、ぐったりと力が抜けた。そのままずるずると座り込んでしまう。
「王子、お帰りなさいませ」
どこか他人行儀な振る舞いで、現れた彼女はわざとらしく丁寧に頭を下げた。碧国で生まれた者にはない美しい白銀の髪が、彼女の動作にあわせて肩から流れ落ちる。加えて彼女の肌は抜けるように白い。
美しい容姿を讃える意味をこめて、彼女は真っ白な雪を示す玉花という愛称を与えられていた。
彼はうやうやしい彼女の態度を気にとめる様子もなく、座り込んだまま屈託のない笑顔を見せた。
「――雪」
彼は周りの者達のように、彼女を玉花の姫とは呼ばない。彼だけに許された気安い愛称で、いつものように嬉しそうに呼びかけた。
「良かった、すごくびっくりしたよ」
彼が手を伸ばすと、雪は不思議そうにその手を眺めている。
「何ですか、この手は」
「だから、引っ張って立ち上がらせて」
素直に甘えると、彼女は柔らかな微笑みを向けたまま、ぴしゃりと答えた。
「嫌です」
「えー? すっごく冷たい反応。雪ってば、僕の手を握ってよ。ほらほら」
彼女はあどけなさの残る美しい顔に笑顔を貼り付けたまま、再び容赦なく口を開く。
「駄々っ子みたいに甘えないでください。とにかく早くお戻りになって。もしそんな姿を誰かに見られたら、私は国へ下がらせていただきます」
可愛い声で、ためらわずに厳しい台詞を吐いている。彼は伸ばしていた手を所在無く引っ込めて、しぶしぶ立ち上がった。
「雪のいじわる」
悪態をついても、彼女はいつもの通り優しげな笑顔で傍らに立っている。
「私を残して好き勝手に出歩かれて、これでも拗ねているんです」
素直な不平に彼は反応が遅れた。こんなふうに自分への思いを語ってくれる彼女は、ただ愛らしい。思わず頬が染まる。
西の国から彼女が嫁いできて、既にどのくらいの月日が過ぎたのだろうか。
透国は白の御門と呼ばれる王が治めている西方の地。国の守護として神獣白虎を従えて、風を司っている。真っ直ぐな銀髪と灰褐色の瞳、白い肌をあわせ持つのが透国に生まれた者の特徴だった。
雪は白の御門の三人目の皇女になる。
ぷいとそっぽを向いて歩き出す雪を追うように、彼も後に続く。
「ごめんね、雪」
叱られた子どものように詫びながら、彼は重い体をひきずるようにして邸内へ入る。
翡翠宮の軒廊にさしかかった辺りで、前を歩いていた雪がふと足を止めて振り返った。
「もう拗ねるのにも飽きてしまいました。翡翠様、私の手でよかったら、どうぞ。つかまって下さい、とても疲れているのでしょう?」
ようやくいつものように、彼女も打ち解けた微笑みを向けて彼の愛称を口にした。碧国の第二王子として生まれた彼は、碧眼の溢れる国内にあっても、ひときわ鮮やかな緑の瞳をしていた。そのため、彼は周りからも、最愛の妃からも翡翠の王子と呼ばれている。
茶髪に碧眼、褐色の肌色。碧国に生まれた者の共通の特徴である。
この世界は容姿を彩る色合いが、そのまま生まれた国を示す。天界でも地界でも、それだけは同じだった。
彼は笑顔を取り戻して、はりのある褐色の手で差し伸べられた白い手を取った。
「やっぱり雪は優しいよね。僕は雪と縁を結ぶことが出来て、本当に良かったな」
「出会った頃からは、想像もつかないお言葉ですね」
「うん、まぁ。昔は誰かを娶るなんて考えたことなかったからね。僕みたいなのに嫁いだら、相手が不幸だと思っていたんだ。もちろん、雪も例外じゃないけど」
「まぁ。私は王子と縁を結ぶことが出来て、とても幸せなのに?」
「こんなふうに、一人であちこち彷徨っているのに?」
「それに関しては、たしかに一言申し上げたい気もしますが。でも私の知らないお話をして下さるし、楽しいわ。今日もお土産にたくさんお話を聞かせてください。それで許してあげます」
「うん。……でも、楽しい話じゃないけど」
「かまいませんわ。私もお伝えしておくことがありますし。……とにかくお着替えになって寛いでください」
「うん」
彼は小さな声で感謝を言葉にすると、そっと繋いでいた手に力を込めた。




