エピローグ:3 幼馴染の絆2
一時間目から四時間目までの授業は、ほとんど睡魔との戦いだった。朱里は自分の生真面目な性格を呪いたくなる。授業中に教師の目を盗んで爆睡するような度胸は持ち合わせていなかった。中途半端にうつらうつらと船を濃いでは、我に返ることの繰り返しだった。
拷問のような授業が一段落して、ようやく昼休みが訪れると、朱里は一緒に食堂へ向かっている夏美と佐和に、そのことを指摘された。
「朱里があんなにグラグラしているの、初めて見たよ」
佐和は珍しい物を見たと喜んでいるようだが、朱里と同じように生真面目な夏美は胸を押さえるふりをした。
「私はいつ先生に注意されるかしらって、ひやひやしたわ」
「うん、ごめん。昨夜は眠れなくて……」
理由については曖昧にごまかして、朱里は二人と食堂の空いている席についた。生徒で賑わう食堂内でいつもの定食を注文してみたが、食欲がわかず適当に箸をつけるだけになってしまう。
「そう言えば、朝に話していた悪夢のことなんだけど」
夏美は綺麗な箸使いで食事を進めながら、朱里と佐和を見る。佐和は女の子にしては豪快な食欲を披露しながら、夏美の話題に興味を示した。
「悪夢って、暗い影が現れて蠢いて、私に怪我させたとかいう?」
「そうなの。それでね、実は朱里や副担任も登場していたのよ」
朱里はぎくりとして、適当に動かしていた箸を止めた。
「何がどうなっているのか、よく覚えていないけれど。一つだけ、ものすごく印象に残っているのよ」
佐和は「何々?」と身を乗り出している。
「副担任が素顔で出てくる夢だったんだけど……」
朱里は何とか話題を変えられないかと考えたが、二人があまりにも盛り上がっているので、どうにもならない。幸い夢の中での出来事になっていることだけが救いだった。うろたえる方が不信感を招くと思い直して、夏美の声に耳を傾ける。
「その副担任は、ものすごい男前だったの。いつもの様子からは考えられないくらい。もう本当に別人みたいなのに、よれよれの白衣はあの副担任なのよね」
佐和は「それ良い」と笑って、朱里を振り返った。
「もしかしたら、正夢になるかもしれないよ。ほら、私のこの骨折みたいに。朱里の家に黒沢先生が泊まっているなら、探る機会はあるよね」
「や、それは。私はあまり興味がないというか……」
どうして副担任である遥の素顔を知られるのが嫌なのか、朱里にはよく分からない。遥に秘密だと言われていることもあるが、それだけではないような気もする。
彼と自分だけの秘め事を守りたいのだろうか。
朱里はそんなことを考えている自分に気がついて、初めて自身の思いを辿る。そしてすぐにたどり着いてしまった。
(――そうか。私、先生のことが好きなんだ)
気がついてしまうと、今まで判らなかったのが不思議なくらいだった。
いつのまにか遥への想いが朱里の中で自然に根付いている。
まるで、ずっと以前からそうであったように。
朱里は自覚すると同時に、暗い気持ちに支配されるのを感じた。
(だけど、この恋は叶わない)
理由はいくらでもあった。遥は異界の住人なのだ。その世界に彼の愛する女性が在って、伴侶として見え隠れしている。
朱里には窺い知ることのできない世界では、絡み合う複雑な事情があるのだろう。
朱里は彼の愛する朱桜ではないのだ。
(だけど、もし朱桜だったとしても……)
朱桜こそが、遥を滅ぼす相称の翼。
哀しい結末が約束されている恋。どちらにしても、叶わない恋。
「ね、朱里。副担任が滞在しているうちに、素顔を暴いてよ」
朱里は佐和の声で、はっと思考の渦から引き戻される。取り繕うように「無理だよ」と笑った。
楽しそうに会話を続ける佐和と夏美の声を聞きながら、朱里は手元の定食を箸で弄ぶ。
遥の言葉がはっきりと浮かび上がって、朱里を支配する。
(朱桜。ためらう必要はない。私を討ちなさい)
ただ愛しい者の手にかけられ、滅びることを望む彼の言葉。
(――君は相称の翼)
それは聞いてはいけなかったことなのかもしれない。
遥の秘め事に、触れてはいけなかった。
(それでも変わらない。君を愛している。……そのために、私は君を護る)
鬼に苛まれて苦痛に喘ぎながら、それでも彼は伝えようとするのだ。
彼が愛してやまないのだろう、朱桜に。
その揺ぎ無い想いを。
(――君を愛している)
切ない響きが忘れられない。
狂おしいほどに優しくて哀しい声。きっと、それが遥の真実を映している。
朱里は胸に巣食った闇を吐き出すように、深く息をついた。
誰かに恋焦がれることは、こんなにも苦しい。
今なら、もう朱里にも理解できる。
遥が現れてから、朱里の世界は変わってしまったのだから。
これまでの平穏な日常が、少しずつ奪われていく予感。
兄と姉に守られて、何の憂慮も感じない日々。翳りのない安穏とした世界。そんなふうに過ごした時間は失われてしまったのだ。
遥と出会って、朱里がそれを望んでしまったから。
(好きになってしまったんだから、仕方がないよね)
諦めたように覚悟を決めて、朱里は顔をあげた。
学院内の食堂はいつも通りの喧騒に満ちている。そのざわめきの中にありながら、胸の内で何かが変わって行くのを、朱里はたしかに感じていた。
第一話「天落の地」 END




