第6章:5 夢と現Ⅲ 3
「……朱桜」
ふいに驚くほど間近で声がした。目の前に広がる光景が遠ざかる。朱の花をつけた純白の大木が、どんどん霞んで彼方に沈んだ。
「――朱桜の君」
さらりと髪に何かが触れる気配がする。朱里はぼんやりと夢から醒めて、のろのろと顔をあげた。副担任である遥が、苦しげな様子でこちらに腕を伸ばしている。
「先生っ」
朱里は一気に目覚めて、短く叫んでしまう。こんな所で気持ちよくうたた寝をしている自分が信じられない。挙句の果てに、幼稚な妄想としか思えないような、どうしようもない夢を見ていたのだ。
遥の端正な顔を見ると、一瞬にして夢の中での出来事が蘇った。
(恥ずかしい。こんな時に、私ってば最悪だ)
自分の我儘が彼を傷つけたような物なのだ。自分で自分を罵りたい気分で一杯だった。
「……君」
伸ばされた遥の腕は力尽きたように、ぱたりと落ちた。朱里は込み上げてきた恥ずかしさを蹴飛ばして、今はそんなことを考えている場合ではないと遥の手を握る。
「先生、気分は?」
朱里の問いかけに答えはない。夢の中の麗しい主人とは違い、遥は艶を帯びた焦茶の瞳をこちらに向けている。顔形は良く似ているのに、全てが同じではない。
夢の中の麗人は自分の妄想が作り上げた虚像なのだと、朱里は再び蹴飛ばしたはずの恥ずかしさに見舞われる。
遥の高熱は下がる様子がなく、握り締めた彼の手は変わらず熱かった。朦朧とした意識のまま目覚めたのだろう。遥は像を結んでいるのか判らない眼差しで、真っ直ぐに朱里を見ていた。
「朱桜、……どうして?」
「え?」
朱里は耳を疑う。彼の口から漏れた言葉が、夢の中で訊いた声と同調する。
――朱桜。
訊きなれない筈の言葉なのに、朱里の脳裏にはしっかりと輪郭を描く大樹があった。
そして。
夢の中で自分が演じていた少女が聞いていた言葉。
――朱桜の君。
(でも、あれは夢だった)
どんなに考えても、この世にはない光景なのだ。
「先生」
呼びかけて、彼の手を強く握る。朱里にはその夢と現の示す符号が何を意味するのか判らない。単に自分の見ていた夢が、何らかの形で遥に伝達したのかと考える。
彼らの世界には朱里の知らない理があり、それが夢を繋ぐような影響をもたらしたのかもしれない。
鬼だとか、ジュだとか、遥が口にしていた聞きなれない言葉。
それに伴い発動する力を、朱里は目の当たりにしていた。
きっとそういう力と同じように、遥の持つ目に見えない理が、自分の夢を遥に伝染させたに違いない。
朱里は自分なりに筋道を立ててみたが、熱に浮かされた遥の台詞がすぐに覆す。
「朱桜。……迷わず私を討ちなさい。ためらう必要はない」
朱里は答える言葉を持たず、ただ喘ぐように呟く遥を眺めていた。
「私には判っている。……君はソウショウの翼。愛しい者を守るために、与えられた力がある」
「ソウショウの翼?」
遥は何かを堪えるように苦しげに瞳を閉じてから、再び朱里を見る。
体を蝕む何かに耐えながら、それでも笑って見せた。
「それでも変わらない。君を愛している。……だから、その手で終わりにしてほしい」
あまりにも痛々しい告白だった。朱里は胸を貫く痛みをやり過ごす。
何が哀しいのか判らないのに、つんと突き上げるものがあった。じわりと涙が滲んでくる。
「先生、私には……判らない」
握り締めた彼の手に、涙が零れ落ちる。
朦朧とした意識の中で、遥が追いかけているモノ。朱里には彼が何を見つめているのか判らなかった。
彼が愛している誰か。それが恋人なのか、伴侶なのか、わからない。
ただ明らかなのは、呼び名。
朱桜。
それは夢で見た大樹のように、美しい娘なのだろうか。
「……私は、……そのために君を護る」
「え?」
朱里はひやりとした戦慄が身を襲うのを感じた。後戻りの出来ない何かが始まっているのは判っていた。遥が現れてから、その覚悟をたやすく受け入れてしまった自分。
けれど、本当にそれで良かったのだろうか。
――君が望むのなら、私は全身全霊をかけて護る。
朱里の中に、新たな波紋を投げかける言葉。
――私は君の望みを護る者。
「私を、護る」
遥の手を握る手が小刻みに震える。止めようとしても、それはガタガタと身の内を駆け巡った。
朱里の中で恐ろしい憶測が形になる。
死を許されないという遥。その彼をしとめることが出来る、唯一の力。
それが、ソウショウの翼だと。
彼方は確かに、そう語っていたのではないか。
だとすれば。
「先生、違うよね」
熱を帯びた彼の手に額を押し付けるようにして、朱里は自分の中に広がる不安をやり過ごす。
「違うよね」
思い過ごしだと、違うと何度も強く言い聞かせて、朱里は動揺を鎮めようと努める。
(違う。だって、私は朱桜じゃない)
一つ糸口を見つけると、後は容易かった。
(それに、彼方が私はこちらの人間だって言っていた)
それで呆気なく朱里の中に芽生えた憶測が崩れ去る。彼女は大きく息を吐き出して、再び悪夢に身を投じたのであろう遥を見た。
(きっと先生は、鬼を呑んで嫌な夢を見ているんだ)
彼の額を滑り落ちる汗を拭って、朱里はそんなふうに自分を納得させた。
悪夢がもたらす意味を成さない光景が、遥の心を苛んでいる。
(だって、そうでなければ)
夢現で彼が語った望みはあまりにも哀しすぎる。
自分を滅ぼすために、彼はソウショウの翼を護る。
そのためだけに、愛した朱桜を護る。そんな破滅を望んでいることになってしまう。
「ただの悪夢ですよね、先生」
呟きながら、朱里は失恋にも似た痛みを感じた。
遥が心から愛する人。それが恋人なのか、伴侶なのかはわからない。
――朱桜の君。
大部分が鬼のもたらす悪夢によって歪んだ事実なのだとしても。
きっと、その人は実在するのだろう。
自分の見た夢が遥に伝染したのではなく、遥の夢が自分を巻き込んだのかもしれない。
強引に考えを締めくくって、朱里は立ち上がる。
揃わない符号があることに気づきながら、朱里はわざと目を逸らした。
大部分がとけて水と化した氷枕を抱えて、ゆっくりと遥の横たわる寝台から離れた。




