第6章:4 夢と現Ⅲ 2
ふわりと、身近で風が動いた。心地のよい香りを感じて彼女は微かに目を開けた。
「ああ、すまない。今はゆっくりと休みなさい」
ぼんやりと瞬きをすると、自分を覗き込んでいる漆黒の瞳と出会う。緩やかにうねる黒髪が彼女の頬に落ちかかりそうな位置で、彼の肩からさらさらと流れ落ちた。
体中が熱を帯びてけだるい。彼女は思うようにならない体を横たえたまま、はっきりしない意識で喘ぐように呼吸する。どこか遠い世界の出来事を眺めているような気持ちで、身近にある気配を感じていた。
「姫君、君には迷惑をかけたようだね」
聞き覚えのある声は、混濁した意識の中にも明瞭に響く。目の前にある影は「礼を言う」と静かに呟いた。
彼女は自分の方が彼に迷惑をかけたのだと強く感じたが、それを表現するだけの力が残されていなかった。詫びることも感謝することもままならない。ただひゅうひゅうと呼吸だけが鳴った。
「目を閉じて、休みなさい」
ひやりと彼女の額に彼の手が触れた。彼女は答えるかわりに、再び目を閉じた。間近に人の気配があるだけで、安穏とした気持ちが広がった。何も恐れるものはないという気がした。
するすると衣装の裾がすべる音がする。遠ざかってしまうと思ったが、気配はそこで留まった。
「緋色とは美しいものだな」
少し離れた所から聞こえる声を聞きながら、彼女は生まれた国の宮達を思い出していた。細やかな癖を持つ長い髪は、紅蓮の炎のように美しい。自分だけが美しい癖を持たず、水に濡れたように真っ直ぐな髪をしている。それは高貴な生まれの姫宮には有り得ない容姿だったのだろう。恥さらしだとか見苦しいと陰口を叩かれ、時には罵られたこともあった。
「白い肌に朱がよく映えます。本当に、華のようだわ」
聞きなれた麟華の声が、主に答えている。
「そうだな。まるで朱桜のようだ」
彼女の故郷に咲く朱い桜。一つ一つは地味な花から成るが、大樹になると花の咲き零れた梢が広がり、この世のものとは思えないくらいに美しい。真っ白な樹皮と朱い花の対照は鮮やかで、夢現をさまよう彼女の中に懐かしい光景として蘇る。
「朱桜ですか、いいですね。健気な彼女には良く似合います。主上、姫君をそう呼ばれるといいわ。こんなに愛らしいのに六の君なんてつまらない。彼女の故郷は人を飾る言葉に乏しいのかしら」
はっきりと物を言う麟華に、低い笑い声が答えている。
「朱桜か。たしかに六番目の娘では哀れだな」
「朱桜の姫君。良いわ。とても素敵」
麟華の嬉しそうな声が、夢の中で咲き乱れる朱い桜の中でこだました。
「――朱桜の君」
美しい言葉が胸に染みる。
これは、ひとときの夢。目覚めれば全てが幻となって失われてしまう。
主の姿を見ることも叶わず、言葉を交わすこともできない日々。
けれど、今だけは許されるのだ。
幸せな夢。全てが身の内で作り上げた錯覚だとしても。
夢の中では許される。何も恐れることはない。
この身には余るほど、優しい想いに満たされていられる。




