第6章:3 夢と現Ⅲ 1
いつの間にか眠りに落ちていたのだろう。
彼女は自分の肩を叩く気配で、ふっと目を覚ました。
「こんな処で眠っていたら、あなたまで体を壊すわ」
「ごめんなさい。大丈夫です。少しうとうとしてしまっただけで」
慌てて身を起こすと、麟華が呆れたように首を傾けてこちらを見下ろした。
「あなた、もうずっと休んでいないでしょう? そんなにつきっきりで看ていなくても主上は大丈夫よ。こんなことを続けていたら、あなたまで倒れてしまうわ」
自分のことを案じてくれる麟華の気遣いが胸に染みる。けれど、それでも彼女は頑なだった。広い寝台に横たわったままの人影を確かめると、自分が看病をする位では償えない過ちを犯したのだと胸が痛む。
「だけど、全て私のせいだから。お願いです、せめて熱が下がるまで傍にいさせて下さい」
「……姫君、あなたがそれほど責任を感じる必要はないのよ」
麟華は結い上げた長い黒髪を閃かして、彼女の前に膝をついた。真っ黒の長袴が動作にあわせて襞を作る。瞳を潤ませている彼女と同じ目線になると、麟華はいつもの悪戯っぽい笑顔を潜めて労わるように目を細めた。間近で麟華に顔をのぞきこまれて、彼女は泣きぬれて赤く腫れた目元を隠すように、山吹の単の袖で滲み出た涙を拭う。
「せっかくの可愛い顔が台無しだわ」
打ち解けた様子で、麟華は彼女に微笑む。
言いつけを守らず主人を傷つけた愚かな少女。彼女は誰にも優しくしてもらう資格がないと自分を責めてしまう。なのに、麟華は罵ることもなく労わってくれるのだ。そんな思いに触れるだけで、彼女は枯れた筈の涙が再び込み上げるのを感じた。
「私が鬼の坩堝に迷い込んでしまったせいで、闇呪の君をこのような目にあわせてしまいました。私はあのまま見殺しにされても仕方がなかったのに助けてくださった。……だから、役立たずだと判っていても、この方のために何かしていたい」
寝台の上で高熱に臥せているのは、見目麗しい闇呪の主。
ゆるやかな癖をもつ漆黒の髪が、彼の苦しげな寝返りに合わせて動く。凶兆を示し、恐れなければならない印であるにも関わらず、彼女は彼の黒髪の美しさに目を奪われることがあった。
彼女がこの地に送られてからの日々、彼が彼女に興味を示したことはなかった。二人が言葉を交わしたのは、初日の謁見の時だけだった。
いつも離れた場所から、時折、彼の姿を垣間見ることがあるくらいの立場。
彼女は存在を否定されているのだと思っていたが、今回の事件がその思い込みを打ち破った。彼の中に僅かでも自分という形が刻まれていたこと。
彼女にとってはそれを知ることが出来ただけでも幸運だった。
さらに、彼がその身を犠牲にして救ってくれたのだという事実。深い意味が込められていないのだと判っていても、心から尽くす理由としては充分すぎた。
彼女はいつでも思っていたのだ。
自分が在ることを認めてくれる人に出会ったら、その人のために尽くすことを厭わない。もしそれが人々の恐れる閻魔だったとしても構わない。自分にとっては、かけがえのない在るべき場所となるのだ。悦びになる。
物心がついてから、今まで彼女を突き動かしてきたもの。
どんな時も自分が在ることの意味を探し続けてきた。ここにいても良いと言う証が欲しかったから、彼女はいつも理由を探したのだ。
例えばそれは、花を枯らさないために水をやる、時としてそんな些細な役割で満たされていたこともあった。
彼女は天蓋のついた寝台に横たわる主を眺める。垂れ下がる紗の向こう側で繰り返される、苦しげな息遣い。
自分のような者を、身を呈して救ってくれた。
彼女にとっては、彼が自分を見捨てなかった証だと受け止めるのに、それは充分すぎる出来事だった。
「……ここにいても良いのだと、そう言われたような気がしました」
「姫君?」
「あ、もちろんこれは私の勝手な思い込みです。だけど、そう思うことができた。闇呪の君が私のことを少しだけでも心に止めておいてくださったのなら、私は充分です。もともと私には過ぎた縁の方ですし」
麟華は珍しいものを見るように彼女を眺めた。
「自分には過ぎた縁?」
「はい。私は一族では不出来な娘だったから、国では私のことを姫宮と呼ぶ者はいません。だから、この縁が決まった時も驚きました」
素直に暴露する彼女に、麟華は更に興味深い眼差しを向ける。
「あなたは主上の噂を知らなかったの?」
彼女は一瞬ためらいを感じたが、素直に打ち明けた。
「知っていました。闇呪の主は、冷酷で冷淡で極悪だと。人ならざる心で生き、彼に嫁いだ娘は魂魄を失う。だけど、それはここに来て単なる噂だったのだと判りました。それに私は魂魄を失う処か、救っていただきました」
「でもね、姫君。ここに嫁いだ者が魂魄を失ったのは本当よ。何人も。今まで例外はないわ」
まるで脅すように、麟華は低くそう囁いた。
「それは闇呪の君が手を下したことではないのでしょう? 私のように鬼の坩堝に迷い込んだとか、そういう不幸な事故が続いただけではないですか?」
彼女の返答に対して何が可笑しかったのか、麟華が声を立てて笑う。
「姫君は不思議な人なのね。じゃあ、主上が手を下していたらどうするつもり?」
「え?」
彼女がどう答えようかと戸惑っていると、麟華は笑みを潜めて寂しそうな顔をした。
「主上を恐れない姫君には、一つだけ教えてあげるわ。今まで主上が誰かの死を願ったことは一度もない。だけど、魂魄を失う者がいるのも事実」
彼女はただ小さく頷いた。
「――姫君、主上があなたを顧みないのは、あなたの魂魄を救うためなの。だから主上の接し方を誤解しないでほしい。あの方は、あなたを嫌っているわけではないのよ。姫君がここにいることを厭っているわけではないの」
彼女は麟華の気遣いに再び頬が染まった。ここに馴染めず居場所がないと感じていた自分を、麟華は心から労わってくれているのだ。彼女は真っ赤な顔のまま、大きく頷いた。
「判りました、麟華。だけど、あの、私は別に目にかけられないことを嘆いている訳ではなくて。それに、その、闇呪の君には、あの方を慕ってこちらに通っておられる方がいるみたいだし。私には出る幕がありませんから、今のままで充分です」
赤面したままおろおろと伝えると、麟華は判ったというように頷いた。彼女は目の前で笑っている麟華を上目遣いに見て、小さく付け加えた。
「それに、麟華も優しいから……」
麟華は驚いたように目を見開いてから、満面の笑みで彼女に腕を伸ばした。
「私も姫君に出会えて良かったわ」
突然抱きしめられて、彼女は何が起きたのか把握できない。驚きのあまり身動き出来ずにいると、麟華が寝台を示す。
「主上の呼吸が少しずつ穏やかになってきたわね」
「本当に?」
彼女は振り返って寝台の奥に目を向けた。たしかに苦しげな息遣いが緩やかな呼吸に変わっている。
「主上は大丈夫よ。姫君、あなたも少し休んだら……」
麟華の言葉を最後まで聞くこともままならず、彼女はクラリと眩暈に襲われた。主の無事を確認できて、張り詰めていた緊張が一気に緩んだ反動だったのだろう。
「姫君?」
麟華の声を遠くに聞きながら、彼女はそこで気を失っていた。




