第6章:2 黒麒麟2
朱里は振り返って当たり前の返答をする。
「何って、生徒だけど」
「いや、そんなことは判っているんだけどね」
彼方は助けを求めるように麟華を見る。
「生徒でしょ?」
同じ反応に肩を落として、彼方は更に麒一を見た。
「生徒ですよ」
「僕の目は節穴じゃないよ。そんなわけないでしょ。単なる一生徒のために鬼を呑む莫迦者がどこにいるっていうの。瀬川夏美嬢がソウショウの翼かと思ったけど救ったところを見ると違うようだし。それに、彼女はどう見てもこっちの人だったしね」
「そういえば、夏美はどうなったの?」
朱里は遥の状態に気を取られていて、その後の成り行きをよく覚えていない。
「彼女なら何事もなく保健室で休んでいるでしょうね。彼女の中に在った鬼の通り道は、主上、じゃなくて……、黒沢先生が閉じてくれた筈よ」
「普通はこっちの人に通り道が開いたら、本人の意志とは関係なく悪意だけが形になるんだ。鬼と共に魂魄の全てが流れ出すまで、止める方法はない。だから、夏美嬢は運が良かったよね」
「じゃあ、あのまま放っておけば、夏美は死んでいたっていうこと?」
「そうだよ」
彼方はあっさりと答えるが、朱里は身震いしてしまう。同時に夏美を救いたいと願うことが、どれほどの我儘だったのかを思い知る。
命が尽きるまで待つしかなかった夏美を、遥はその身を犠牲にして救ってくれた。
誰でもない、自分がそれを望んだからだ。
「まぁ、夏美嬢には嫌な夢を見たという記憶になって残るだけ。ただ、佐和嬢の怪我は取り消すことが出来ないから。自分の見た悪夢が偶然とはいえ形になってしまったとは思うだろうけど」
「……うん」
夏美の命を繋ぎとめることができたのは嬉しい。嬉しいはずなのに、朱里は素直に喜ぶことができなかった。
遥の身を犠牲にした自分。
夏美の心を苛んでいた嫉妬に気付けなかった自分。
無力で。非力で。自分がとても愚かな気がした。
夏美の命が繋ぎとめられたことは、何よりも幸運である。
これまでの不穏な出来事の全てが、彼女の中では夢で見た光景となる。
夏美はこの上もなく救われたはずなのだ。
けれど。
それでも、きっと彼女は佐和の包帯を見るたびに思い知るだろう。
自分の中にある醜い嫉妬。彼女の心が純粋であるほど、呵責に苛まれるのだ。
自身に与えられない幸運を望む心。
いつも笑っていた夏美を思い出すと、朱里は切ない気持ちになった。
「朱里が悩んでも、仕方がないわよ」
重い考えを遮るように、麟華の顔がのぞきこんで来る。至近距離に近づいた姉に驚いて、朱里は顔をあげた。
「そういう気持ちを乗り越えるのは、本人の課題。朱里は今まで通りでいいの」
「――うん、そうだね」
気持ちを切り替えて笑って見せると、麟華に軽く頭を叩かれる。
「それでさ」
彼方が二人に割り込んできて、質問を繰り返した。
「委員長って、彼の何なのさ。どう見ても委員長はこっちの人だしさ」
「彼方は自分の国の人かどうかって、見れば判るの?」
「そりゃ判るよ。テンセキに入っている人間は判る。そこの双子は判らなかったけどさ。黒麒麟を見るのなんて初めてだし。ただ、こっちの人ともテンセキの人間とも違うから、怪しいとは思っていたけど」
朱里はもう何を聞いても驚かないと深呼吸をした。
「あの、もしかして黒麒麟って、瑞獣の麒麟のこと? そもそも麒一ちゃんも麟華も先生のことを主だと言っているけど」
言いながら、朱里は恐る恐る双子の顔を窺う。
「二人とも、実は人間じゃないってことは、……ないよね」
思い切って訊くと、その場に嫌な沈黙が広がった。彼方はまたしても自分の発言が波紋を広げているのかと、はらはらした面持ちで双子を交互に眺めている。
朱里は莫迦なことを言ったのだと、激しく後悔した。目の前の兄と姉は、どこから見ても人間である。
「まさかね」と笑って、質問を取り下げようとした時、兄の麒一が答えた。
「人かと問われると、違うということになるね」
「え?」
「朱里の知っている麒麟とは少し違うだろうけれど、私達は主を守護するために生まれる者」
さすがに朱里は笑顔が引きつるのを感じた。目ざとく姉の麟華が指摘する。
「朱里、人ではないからって私達のことを差別したわね」
「し、してないよ」
「笑顔がひきつっているわよ」
「や、だから、別にそれで二人への思い入れが変わったりとかはしないけど、……驚いてしまう自分は仕方がないというか」
「私は傷ついたわ、朱里。涙が出ちゃうわよ」
麟華は涙を拭う素振りをしながら笑っている。完全に人をからかって遊んでいるのだ。麒一もそんな様子を見て笑みを浮かべている。
多くの真実が明かされても、変わらない光景が広がっている。
朱里は戸惑う必要はないと開き直った。
彼方が朱里の肩を叩いて、再び質問を繰り返す。
「だからさ、僕の質問に答えてよ」
「答えてって言われても」
「じゃあさ、委員長は副担任のことが好きなの?」
「え?」
何かを答える前に、瞬く間に頬が染まるのを感じた。朱里は異世界の存在を説明された時よりも、はっきりとうろたえてしまう。
「す、好きって、そんなこと……」
「へぇ、ふうん、そうなんだ。委員長の気持ちは判っちゃったけど。だとすると、副担任のあの行動を考えてみても、答えは一つだね。――二人の関係は、世界を超えた不倫」
「は? ふ、不倫?」
とんでもない台詞を聞いて、朱里は目を丸くした。
「あれ? だって彼がアンジュの主なら……っ」
彼方はそこでモガッと声を詰まらせる。突然背後から、麟華にはがいじめにされたようだ。
「王子様、そんな情報はいらないのよ」
表情はにこやかな笑顔なのに、麟華の口調はどこまでも刺々しい。
「そんな情報って、これは事実じゃ……っ」
「この口、縫い合わせましょうか。二人の邪魔をしないで下さる?」
「ということは、やっぱり二人はできてるってこと?」
もはや朱里が否定する隙もないまま、二人の話題はあらぬ方向へ舵をとり始めた。心なしか麟華の目が輝いているような気がする。
「あなた、なかなか良い洞察力をしているわね」
朱里は「どこが?」と心の中で突っ込みをいれる。バカバカしすぎて、声をあげて訴える気にもならない。
「あ、じゃあ、やっぱり当たりなんだ」
二人は意気投合したのか勝手に妄想を繰り広げている。朱里が成す術もなく吐息をついていると、背後で麒一が恐ろしい顔をして立っていた。
「麟華」
低い声はいつもにも増して凄みを増している。
「どういうつもりだ」
いつもは怯んでいた麟華も、今回は彼方という味方を得たせいか反撃に出た。
「麒一は頭が固いのよ。それに、そう思わせておくほうが好都合だわ。違う?」
麒一は彼方に視線を移し、諦めたように吐息をついた。
「では、部屋を移そう」
口調は柔らかいが、麒一は彼方に対する警戒を解いていないようだった。微笑みを浮かべない彼の無表情が、それを明らかにしている。
「私達はヘキの王子が何用でこちらを訪れたのかも聞いていない」
「そうね」
麟華も表情を改めて、目の前に立つ彼方を見つめた。緊張感を取り戻した三人を眺めている朱里に、麒一が声をかける。
「朱里、黒沢先生の様子を見ていてくれるね」
「うん、もちろん」
「頼んだよ」
麒一が部屋を出て行くと、示し合わせたように麟華と彼方も続いて姿を消した。室内がしんと静まり返る。
朱里は寝台に寄り添うようにして遥に近づいた。額を滑り落ちる汗を、何度も拭う。
苦しげに眉根を寄せて、彼は何かを振り払うように頭を動かした。
「―――っ」
ひどい悪夢に苛まれているのだろうか。胸元をかきむしるように動いた手を、朱里はたまらない気持ちで捕まえた。両手で握り締めて彼の苦痛が和らぐようにと祈る。
「先生、ごめんなさい」
自分の無意識の呟きが、朱里はふっとどこかに引っ掛かるのを感じた。
(前にも、こんなことがなかった?)
彼の手をにぎって回復を願っている自分。
(思い違い?)
懸命に遡ろうとするほど、たしかな感覚は淡く潰えてゆく。どこかで同じようなことがあったという思いが滲んで、知っているという気持ちが紛れていった。
(――覚えていないだけで、こんな夢を見たことがあったのかもしれない)
朱里は単なる錯覚だったのだと肩の力を抜いた。熱を帯びた遥の手から、小刻みな脈動か伝わってくる。朱里は彼の手を握る指先に力を込めた。
「ごめんなさい」
意識のない遥に、ただ心の底から詫びる。
本当は彼に訊きたいことがたくさんあった。伝えたいことも。
朱里の胸の中で渦巻く事実。
彼の素性、彼が生まれた世界、彼が愛した恋人、あるいは彼が選んだ伴侶。少しずつ与えられた断片が、小さな棘となって朱里の心を刺激する。
けれど。
苦しげに横たわる遥を見ていると、全ての憂慮が遠ざかる。
「ごめんなさい」
朱里には、その一言しか彼にかける言葉が見つからなかった。




