第十章:二 闇呪の恐れ
(もうどのくらい顔を見ていないのだろう……)
闇呪は通路を歩みながら、ふとそんなことを考えた。使者との謁見が、いつもより早く終了したせいだろうか。
禍となる宿命は失われ、朱桜を相称の翼にしたのが、誰でもない自身であったという事実。
闇呪にとっては、これ以上はない幸運だった。
もう何の後ろめたさもなく朱桜と向き合えるはずだったが、事はそう簡単には運ばないようだ。
彼女に刻まれた恐れ。
鬼に侵された時に視た光景は真実だろう。自分と同じ顔貌で非道の限りを尽くした人影。
朱桜は自分を見るたびに思い出すに違いない。
今でもなぜ救うことができなかったのかと、すぐに後悔が滲み出す。
とにかく時間をかけて見守るしかないというのが、闇呪の結論だった。
金域に移り住み、日々が慌ただしく過ぎていく。その忙しさは、朱桜が不在の日々を紛らわせてくれる。それでも少し物思いに耽る余裕が生まれると、すぐに会いたいという想いが忍び寄ってくる。
闇呪はこみ上げた衝動を払うように、違うことに意識を向ける。
緋国での一件以来、大きく変わった世界。
自分が次期黄帝となる。
正直なところ闇呪にはまだ実感がない。自分を取り巻く環境は大きく様変わりしているが、玉座につく資格があるとは、どうしても思えない。
翼扶に救われたが、絶望の果てに鬼を受け入れた事実は消えない。禍となり世界を滅ぼすかどうか、紙一重だったのだ。
闇呪という蔑称に等しい愛称については、四国で議論になっているらしいが、彼はそのままで良いような気がしていた。
絶望に染まる弱い心。鬼に心を空け渡し身を捧げた。その罰としてなのか、自身は今も闇を纏っているのだ。黒髪と黒い瞳。本来輝く肢体を持つはずの守護も、黒麒麟のままである。
それでも彼らの血には、一時的に金を纏わせる力があるようだ。
人々が闇を纏う姿を恐れてしまうことを気遣い、闇呪は人前に出る時は守護の力を借りて金を纏うようにしている。だが、正式に玉座につく時には、ありのままの姿を披露すべきではないかと考えていた。
これまでずっと世を滅ぼす禍であると言われ続けてきた。そんな自分が黄帝になることに意味があるのなら。
人々に必要以上に鬼を恐れてほしくない。否定してほしくないのだ。
たしかに悪意に触れ厄災を招くが、それが人々の弱さを映した結果なら、時には向き合うべき事なのかもしれない。絶望の先に見える希望もあるだろう。
天地界を形作る多くの理。けれど、語り継がれた理も掟も不完全なものだ。
変化のない世界に身を委ねるのは易しいが、時には恐れを乗り越えて新たな変化を受け入れることが必要な時もある。
自分の姿を戒めとして、その標になれば良いと願う。
「我が君」
麒角の再生を遂げ、以前の姿を取り戻した守護の声が、静寂を守る通路に響く。付き従うように背後を歩んでいた足音が近付き、麒一がさらりと提案を持ちかける。
「朱桜の姫君にお会いにはならないのですか」
「まだ無理だろう」
「たしかに。ーーこのままでは、いつまでも無理です」
麒一の少し挑発的な物言いに気づいて、闇呪は立ち止まった。背後を振り返る。
「何が言いたい」
「私には、姫君の恐れを言い訳にして、我が君も逃げているように見えますが」
麟華のように激することもなく、麒一は穏やかに言い募る。
闇呪はふっと吐息をついた。
朱桜との関係を守護が気にかけていることは分かっていた。麒一がしびれを切らすともう誤魔化すことはできない。
「そうだな。私は朱桜に嫌われたくない」
「それは、信じていない。そう言っていることと同じです」
的確だとは思うが、闇呪は素直に快諾できない。
「麒一。私はただ時間が必要だという話をしている」
「我が君が距離を置くほど、姫君は恐れるのかもしれません」
「どうして?」
「我が君が恐れるように、姫君も恐れているかもしれない。ーー我が君に嫌われることを」
莫迦げた言い様だと思ったが、なぜか聞き流せなかった。
自分に思い当たる節があるからだ。何よりも、心が離れることを恐れている。
労わりと厳しさが両立する麒一の声は、闇呪の胸底にある衝動を揺さぶる。
鏡面のように動きのない水面に、そっと投げ入れられる一雫のように。
「恐ろしくない、何も恐れる必要がない。それを姫君に伝えることができるのは、我が君だけです」
黒水晶のような瞳に自分を映し、真理を口にする。
「そして、我が君の恐れを払拭できるのも、また姫君だけです」
守護の導き。これまでも、麒一と麟華には数え切れないほど救われてきた。
闇呪は降参の意味をこめて頷いた。
「今日はもう謁見も終わった。他に用向きもない。時間も許すだろう。ーー麒一、私は久しぶりに朱桜に会いたい」
素直に打ち明けると、麒一からは微笑みが返ってくる。
「はい。我が君の仰せの通りに」




