第十章:一 朱桜の恐れ
朱桜には相称の翼であり、じきに黄后となることも自覚があった。まだ公には何も認められていないのに、金域に住処を移してから毎日が慌ただしい。
日々訪れる者の顔色が、自分の立場を表している。
荷が重い気はしていたが、弱音を吐くのは出来ることをしてからだと言い聞かせていた。
自分のことを希望だと語ってくれた緋桜の想いが糧になる。
緋国での出来事は、今でも思い出すと目頭が熱くなるが、朱桜はもう悲嘆に暮れることはやめた。
緋桜が残してくれた想いに応えたい。
そして。
(ーー黄帝陛下の力になりたい)
何と言っても、その一言に尽きる。
朱桜は自身に与えられた黄城の一室で卓に向かっていたが、唐突にぱたりと突っ伏す。黄帝陛下ーー闇呪との関係は、正直自分でも褒められない。
むしろ、最悪だと言える。
自分以上に闇呪の身辺が慌ただしいことも理由の一端だが、それでも夜には使者の来訪も止む。共に時間を過ごそうと思えば、過ごせるのだ。
(でも、陛下はーー)
朱桜は卓に顔を伏せたまま、うだうだと自分の弱気に浸ってしまう。
(……なんだか、今日は静かだな)
与えられた居室は滄国や緋国に見られる様子とは、少し異なっていた。朱桜の目には異国の情緒に溢れているように映る。
装飾の施された卓に牀子、天蓋のある寝台。金域に移ってからは、衣装も参堂のために贈られていた仕様と同じだった。
緋国や滄国にも似ているが、どこか異なった華やかさにも満ちている。
(凰璃と至鳳がいないんだ)
いつもこの部屋で好き勝手に寛いでいる鳳凰の姿が見えない。彼らは気まぐれで、さっきまでそこにいたとしても、いつのまにか姿が見えなくなったりする。朱桜が呼べば一目散に駆け付けるのだろうが、呼びつけるような火急の用件もない。
(今日は小言を言われない)
鳳凰が闇呪に対する朱桜の不甲斐なさにあきれ果てているのも知っている。毎日毎日、未だ闇呪を比翼としていないことを責め続けられているのだ。
黄王が可哀想の一点張りである。
ふと朱桜は外が夕闇に沈みつつあるのを感じた。天帝の加護が黄昏に移行し、安息の夜を与える時刻なのだと気づいた。
異界とは異なり、天地界では昼夜の加減を人身によって操ることができる。朱桜と闇呪が金域に入り、各々の刀剣を天堂に預けると、礼神は天地界を照らす光となり、世を育む力となった。
多くの法や術を用いて礼神は綿密に制御されるが、昼夜の区別についても同じだった。
「朱桜の姫君」
外の様子を窺っていた朱桜の背後で、突然聞きなれた声が響く。
「麟華!」
躊躇いのない様子で見慣れた人影が歩み寄ってくる。鳳凰も黒麒麟も霊獣であるためか、金域の動向に手続きを必要としない。どこにでも現れ去ることができる自由な立場は、天帝に匹敵する。
「主上と一緒に夕食を召し上がらない?」
にやにやと嫌な笑い方をして、麟華が驚く提案をする。
「え? 陛下と?」
朱桜は嫌な予感を覚える。
「それ、陛下には不意打ちとかじゃなくて?」
「大丈夫!」
「本当に?」
しつこいくらいに念を押してしまう。
闇呪が自分と距離を置いているのは、朱桜もわかっている。理由が自分を気遣ってであることも理解していた。そもそも、緋国の一件から我に返ったとき、闇呪に対して不自然な行動をとってしまったのは朱桜の方だった。
闇呪が麒角に貫かれ倒れていた時は、とにかく助けたいということで頭がいっぱいだったのだ。比翼に捧げるべき純潔を失った自分の失態についてなど、考えている余裕がなかった。
けれど、我に返ってしまうと、そういう訳にもいかない。
しかも闇呪には最悪の状況を知られたも同然なのだ。
どんな顔をして傍にいて良いのかわからなくなった朱桜は、戸惑いをうまく誤魔化すことができなかった。結果として、闇呪への態度がよそよそしくなり、避けていると思われる有様だ。闇呪がその朱桜の行動をどのように感じ、どのように受け止めたのかは、麟華に嫌というほど聞かされている。
彼にいらない気遣いをさせているのは居たたまれない。
「いい? 姫君! 女は度胸よ!」
「わ、わかってる」
分かっているが、いざ顔を合わせるとどうして良いのかわからない。わからない朱桜の様子に、闇呪はさらに気遣いを重ねて、最近では会うこともままならないのだ。全て自分が招いたことである。
「でも、姫君は主上のことを見て、恐ろしいと感じるの? 主上は自分の顔貌をひどく気に病んでいるけど」
朱桜は肩を落とす。黄帝となった闇呪の力になるどころか、こんな幼稚なすれ違い方をしでかして、負担しか与えていないのだ。
「亡くなった陛下と闇呪の君を、よく似ていると思ったことはないの」
「え?」
「参堂していた時からそうだったけど。双子だったと言われても、私にとっては別人でしかないし」
麟華は腕を組んで「ふむ」と唸る。
「じゃあ、どうして主上を比翼にしないのかしら」
「それは」
打ち明けると、麟華はきっと激怒するだろう。自分でもそんな風に考えてしまうことが、闇呪に対して失礼だとわかっている。
わかっているが、どうしても振り払えないのだ。
比翼に捧げる純潔を失った身体。自分は途轍もなく大切なものを失ってしまったのかもしれない。
全てを知った闇呪が本当はどう思ったのか。彼の気持ちが、変わってしまってはいないのか。
もう自分を翼扶にした時と、同じ想いではないのかもしれない。
そんなふうに考え始めると、闇呪の気遣いが別の意味を伴って心に働いてしまう。
世の再興のため、いまさら二人の関係を反故にすることはできない。天地界への使命感だけで、闇呪が自分を労わっているのだとしたら。
(ーー考えるだけで、耐えられない)
想像するだけで、じわりと涙が浮かんでくる。
「ひ、姫君! 泣いているの?」
「……泣いてない」
「泣いているじゃない!」
「泣いてないってば!」
不毛な問答を続けていると、ふいに麟華がぴたりと口を閉ざした。
「麒一」
「え?」
朱桜が振り返ると、いつのまにか麒一が佇んでいる。折れた麒角の痛手によりしばらく人型に変幻できないようだったが、無事に麒角は再生したようだ。本性の額に新しい麒角が生え、彼は以前と変わらない様子で変幻するようになった。
「麒一ちゃん」
「我が君がおいでです」
「えっ!」
「必要であれば、御簾を用意するようにとのことですが」
朱桜は俄かに鼓動が大きく響きだすのを感じた。
「姫君。我が君も逃げない覚悟を決められた。ーーどうする?」
穏やかな目をして、麒一が問いかけてくる。食い入るように麒一の顔を見つめていると、彼は大丈夫だと言いたげに頷く。
朱桜は汗の滲み出した掌をぎゅっと拳に握った。
「御簾は必要ありません」
きっぱりと言い放つと、不思議と覚悟が決まった。
「私も陛下に会いたいです」




