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シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜  作者: 長月京子
第五話(最終話) 相称の翼

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第九章:四 静と緋桜の希望(ゆめ)

 一部始終を見守っていた緋桜(ひおう)は、ゆっくりとその場に膝をついた。手にした紅旭剣(こうきょくのつるぎ)を見ると、朱雀(すざく)の炎は消え失せ、闇に侵食されていた。それは刀剣をつたって緋桜の手にも広がり、身体が黒く染められていく。


(「緋桜、最期(さいご)の時、あなたなら哀しみにも憎しみに呑まれることはない。私は待っているよ」)


 (しずか)の声を思い出す。たしかに途轍もなく密度を増した(じゅ)を受け入れたが、自分の内には哀しみも憎しみもない。ただ、成し遂げた安堵が満ちていく。

 そして、少女の頃のような無邪気さで思うのだ。


(静様は、褒めてくれるかしら)


 きっと褒めてくれるだろう。


「女王!」


 誰かの叫びが聞こえる。どうやら膝をついて立っていることも出来なくなったのか、自分を支える力を感じる。圧倒的な礼神(らいじん)


「宮様!」


 自分に取りすがる気配。それが朱桜(すおう)であることは確かめなくてもわかるが、緋桜(ひおう)はそちらに目を向けた。考えていたよりもずっと近くに、朱桜(すおう)の顔が見える。


「そんな、どうして!」


「陛下、私の力が及ばず失態をお見せすることになりそうです。申し訳ありません」


「女王、まさか自らに(じゅ)をかけたのでは……」


 闇呪(あんじゅ)悠闇剣(ゆうあんのつるぎ)を掲げるが、緋桜(ひおう)は力を振り絞って、黒く変貌した手で闇呪の袖をつかむ。


「いけません。黄帝陛下。もう成す(すべ)がないのは、お分かりでしょう。この禍根(かこん)を絶つのは、私の役目です」


「何を仰っている! あなたは」


 緋桜(ひおう)は遮るように、声を振り絞る。


「黄帝陛下。六の君、私の妹をよろしくお願いします」


 闇呪(あんじゅ)はそれで緋桜の気持ちを察したのか、不自然に言葉を呑み込んだ。


「み、宮様」


 朱桜(すおう)の声に嗚咽が混ざる。母娘ではなくとも、自分のような女王のために涙を流すのかと、緋桜(ひおう)は朱桜の健気さに心を打たれる。

 数多の苦しみ、仕打ちを与えることしかできなかった。手を差し伸べることも出来ず、ただ見守るだけの立場。自分は朱桜の母親にはなれなかった。ならない道を選んだのだ。

 今もそれで後悔はない。


「私、宮様とお話したいことがあります。だからーー」


 泣きながら訴える朱桜(すおう)に、緋桜(ひおう)は微笑んで見せる。


「陛下。申し訳ありませんが……」


母様(かあさま)!」


 叫びが緋桜の胸に刺さる。


(いま、――)


 今、朱桜はなんと言ったのだろう。失いかけた意識が聞かせた幻聴だろうか。母にならない道を選びながら、本当は母になりたかったという未練が、あり得ない声を聞かせているのだろうか。


「母様に聞きたい! 私のことをどんな風に想ってくれていたか。父様はどんな人だったのか。それから、朱桜の樹を贈って下さったお礼もしたい。私は、母様に伝えたいことが、たくさんあります。たくさん……」


(……そんなふうに)


 そんなふうに想ってくれるのか。数多(あまた)の試練を与えただけの自分を、母と(すが)ってくれるのか。


 狭窄(きょうさく)をはじめ、暗く沈み始めた視界で娘の泣き顔を見ながら、緋桜(ひおう)は胸が締め付けられるような想いを感じていた。こみ上げるのは、ただ愛しいという気持ちだけ。


 心から慕った静と、自分の娘。可愛くないはずがない。

 どんな時も、愛しくなかったはずがない。


 幼い娘を腕に抱いたのは、生まれたばかりの頃の一度だけ。小さな(てのひら)で、自分の指を握り返してきた記憶。

 驚くほど小さな身体から感じた体温。つぶらな瞳。

 小さな身体を手離した時から、母であることは諦めた。違う。本当は恐れていただけなのだ。


 試練だけを与える存在。憎まれて当然の行い。いまさら母だと語っても、朱桜(すおう)には拒絶されるだけではないのかと。


(ーー私が、恐れていただけ)


 けれど今、朱桜はそんな恐れを消し去ってくれる。もう何も思い残すことはない。


 静への想いと、朱桜への愛だけで満たされている。


「……母様」


「朱桜」


 手を挙げて顔に触れようとしたが、思うように動かない。ぎこちなく彷徨(さまよ)う手を、朱桜(すおう)が強く握ってくれる。


「あなたは私達の、――父様と母様の希望ゆめ……」


 朱桜の手にぎゅうっと力がこもる。もう視界に光がない。時間がない。

 伝えたいことは、ひとつだけ。


「愛しい娘。ーー幸せになって」


 今も昔も、望むのはそれだけだった。


「黄帝陛下。どうか朱桜(すおう)を、……娘をお願いします」


 万感の想いをこめて、娘を託す。

 彼が頷く気配を感じると、緋桜(ひおう)は思うように動かない身体で、最期の力を振り絞った。覚悟は決まっている。ゆっくりと黒く変化した紅旭剣(こうきょくのつるぎ)を持ち上げ、掲げる。


朱雀(すざく)、この身に業火(ごうか)を」


(「ーー女王、承った」)


 朱雀の声を聞くのも最後だった。視界が完全な闇に呑まれる。紅蓮(ぐれん)の炎に包まれる間際、緋桜(ひおう)は母様という、朱桜(すおう)の声を聞いた気がした。

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