第九章:四 静と緋桜の希望(ゆめ)
一部始終を見守っていた緋桜は、ゆっくりとその場に膝をついた。手にした紅旭剣を見ると、朱雀の炎は消え失せ、闇に侵食されていた。それは刀剣をつたって緋桜の手にも広がり、身体が黒く染められていく。
(「緋桜、最期の時、あなたなら哀しみにも憎しみに呑まれることはない。私は待っているよ」)
静の声を思い出す。たしかに途轍もなく密度を増した呪を受け入れたが、自分の内には哀しみも憎しみもない。ただ、成し遂げた安堵が満ちていく。
そして、少女の頃のような無邪気さで思うのだ。
(静様は、褒めてくれるかしら)
きっと褒めてくれるだろう。
「女王!」
誰かの叫びが聞こえる。どうやら膝をついて立っていることも出来なくなったのか、自分を支える力を感じる。圧倒的な礼神。
「宮様!」
自分に取りすがる気配。それが朱桜であることは確かめなくてもわかるが、緋桜はそちらに目を向けた。考えていたよりもずっと近くに、朱桜の顔が見える。
「そんな、どうして!」
「陛下、私の力が及ばず失態をお見せすることになりそうです。申し訳ありません」
「女王、まさか自らに呪をかけたのでは……」
闇呪が悠闇剣を掲げるが、緋桜は力を振り絞って、黒く変貌した手で闇呪の袖をつかむ。
「いけません。黄帝陛下。もう成す術がないのは、お分かりでしょう。この禍根を絶つのは、私の役目です」
「何を仰っている! あなたは」
緋桜は遮るように、声を振り絞る。
「黄帝陛下。六の君、私の妹をよろしくお願いします」
闇呪はそれで緋桜の気持ちを察したのか、不自然に言葉を呑み込んだ。
「み、宮様」
朱桜の声に嗚咽が混ざる。母娘ではなくとも、自分のような女王のために涙を流すのかと、緋桜は朱桜の健気さに心を打たれる。
数多の苦しみ、仕打ちを与えることしかできなかった。手を差し伸べることも出来ず、ただ見守るだけの立場。自分は朱桜の母親にはなれなかった。ならない道を選んだのだ。
今もそれで後悔はない。
「私、宮様とお話したいことがあります。だからーー」
泣きながら訴える朱桜に、緋桜は微笑んで見せる。
「陛下。申し訳ありませんが……」
「母様!」
叫びが緋桜の胸に刺さる。
(いま、――)
今、朱桜はなんと言ったのだろう。失いかけた意識が聞かせた幻聴だろうか。母にならない道を選びながら、本当は母になりたかったという未練が、あり得ない声を聞かせているのだろうか。
「母様に聞きたい! 私のことをどんな風に想ってくれていたか。父様はどんな人だったのか。それから、朱桜の樹を贈って下さったお礼もしたい。私は、母様に伝えたいことが、たくさんあります。たくさん……」
(……そんなふうに)
そんなふうに想ってくれるのか。数多の試練を与えただけの自分を、母と縋ってくれるのか。
狭窄をはじめ、暗く沈み始めた視界で娘の泣き顔を見ながら、緋桜は胸が締め付けられるような想いを感じていた。こみ上げるのは、ただ愛しいという気持ちだけ。
心から慕った静と、自分の娘。可愛くないはずがない。
どんな時も、愛しくなかったはずがない。
幼い娘を腕に抱いたのは、生まれたばかりの頃の一度だけ。小さな掌で、自分の指を握り返してきた記憶。
驚くほど小さな身体から感じた体温。つぶらな瞳。
小さな身体を手離した時から、母であることは諦めた。違う。本当は恐れていただけなのだ。
試練だけを与える存在。憎まれて当然の行い。いまさら母だと語っても、朱桜には拒絶されるだけではないのかと。
(ーー私が、恐れていただけ)
けれど今、朱桜はそんな恐れを消し去ってくれる。もう何も思い残すことはない。
静への想いと、朱桜への愛だけで満たされている。
「……母様」
「朱桜」
手を挙げて顔に触れようとしたが、思うように動かない。ぎこちなく彷徨う手を、朱桜が強く握ってくれる。
「あなたは私達の、――父様と母様の希望……」
朱桜の手にぎゅうっと力がこもる。もう視界に光がない。時間がない。
伝えたいことは、ひとつだけ。
「愛しい娘。ーー幸せになって」
今も昔も、望むのはそれだけだった。
「黄帝陛下。どうか朱桜を、……娘をお願いします」
万感の想いをこめて、娘を託す。
彼が頷く気配を感じると、緋桜は思うように動かない身体で、最期の力を振り絞った。覚悟は決まっている。ゆっくりと黒く変化した紅旭剣を持ち上げ、掲げる。
「朱雀、この身に業火を」
(「ーー女王、承った」)
朱雀の声を聞くのも最後だった。視界が完全な闇に呑まれる。紅蓮の炎に包まれる間際、緋桜は母様という、朱桜の声を聞いた気がした。




