第九章:二 翼扶の声 理想との決別
(「先生!」)
深淵の向こう側から、声が聞こえる。濁流に身を任せ、考えることを放棄した意識の内で、わずかに捉えた声。
痛み、怒り、絶望、望まぬ先途だけを見せつけられるのなら、もう何も見たくない。
(「先生!――闇呪の君!」)
冷たく凍り付いた感情に、ぽうっと何かが触れる。
それは、ぬくもり。
(「闇呪の君」)
聞き覚えのある声。胸が締め付けられるような響き。
それは、愛しさ。
何度も何度も、乞うように呼ぶ声。
誰を呼んでいるのか、誰が呼ばれているのか。
止まっていた思考が、じわりと動き出す。
どこかで誰かが、また苦しみに身を費やすのかと呟く。
(ーー苦しみ)
誰かが、苦しみだけではなかったと呟く。
(苦しみだけではなかった)
胸から流れこんでくる、心地の良い熱。
聞こえる、愛しい声。
(ーー翼扶)
はっと闇が揺れた。翼扶が呼んでいる。気づくと、深淵に響く声が鮮明さを増した。懸命に自分を呼ぶ声。
(朱桜!)
失っていた何かが急激に蘇る。
身を引き裂かれるような光景。気がおかしくなりそうな悲鳴。
自身の無力さに討たれた心が、血を流している。
後悔、無念、憎しみ、絶望。
(「闇呪の君」)
翼扶を救えなかった。けれど、声が聞こえる。
木霊すように深淵に響く。響くごとに、思い出す。
愛しさ、期待、喜び、希望。
身を食い破るほどに迫っていた絶望が、希釈されるかのように遠ざかっていく。
朱桜の声が世界を変える。これまでと同じように。
「私の傍にいてください。これからも、ずっと……」
先途を望む声。彼女が望むのなら、諦めることはできない。たとえ自分がこの世の禍であっても、どれほど苦しくても。
光を信じて、前に進む。進むことができる。
絶望に荒れていた深淵の風が凪いでいた。薄明が訪れるかのように、明けていく暗闇。
ほとりと頬に熱が触れた。それは続けて、ぱたりぱたりと頬を刺激する。あたたかな熱。
翼扶のぬくもりを感じて、闇呪は目覚める。もう一度、先途へ歩き出すために。
「朱桜……」
視界に光が満ちて、闇呪は少し戸惑う。
目が慣れると、朱桜の涙に濡れた顔が見えた。
ゆっくりと身を起こすと、縋りつくように朱桜が腕を伸ばしてくる。声を限りに叫んでも、手を伸ばしても届かなかった翼扶と、今は触れあっている。
なぜ、あれほどに絶望に囚われてしまったのか。改めて連鎖する負の強大さを思い知る。とどまることのできない悪意。
鬼に心を明け渡し、さらに身を捧げるということがどういうことなのか。
闇呪は労わるように朱桜の背を叩く。
「ーーありがとう、朱桜」
翼扶の声で、自分は正気を取り戻した。
深淵から光の中に戻ってこられたのだ。
けれど。
すがりつく朱桜の小さな身体を受け止めながら、闇呪は仰ぐ。
未だ悪意に呑まれ、憎悪に想いを奪われている、華艶の姿を。
彼女は闇呪の良く知る美貌のまま、二人を見下ろすように佇んでいる。
かつて心から愛した、理想の女人。
艶麗な顔貌はそのままに、夥しい怨嗟を従え、彼女の足元には不自然な闇が揺れていた。
「妾の絶望を視たか」
華艶の声に、朱桜がびくりと反応する。闇呪は彼女を支える腕に力をこめた。
「華艶……」
「そなたも、妾を見捨てるか」
闇呪は唇を噛む。
鬼と同化した時、彼女の内に巣喰う数多の悪意が流れ込んできた。憎悪はもはや華艶だけの思いではなかったが、根源にある記憶が見えたのだ。
自身の翼扶を汚した罪を許すことはできない。今でも気を許すと容易く憎悪に呑まれるだけの悪意が身の内にあった。
けれど、あの記憶を視れば、華艶だけを責める気にはなれない。
黄帝の裏切り。
目の前で奪われた吾子の魂魄。悲痛な絶叫。
どこまでも理不尽な仕打ちとして、闇呪の胸にも刻まれている。
自分は朱桜を失ったわけではないが、華艶は最愛の我が子を失ったのだ。そして慰める者もなかった。
鬼に身を捧げた彼女を責める資格が、誰にあるだろう。
絶望した華艶の痛み。永劫に癒されない絶望。
闇呪は立ち上がると、すうっと虚空を掻いた。
迷いなく悠闇剣を抜く。
「あなたの占いは外れなかった。私は禍となり、禍は相称の翼に滅ぼされた」
「それは皮肉か?」
「ーーいいえ」
「果たして、そなたに妾が斬れるのか」
記憶と違わぬ宵衣を纏い、華艶の美しい顔に昔と同じ微笑みが宿る。白い手が闇呪の頬に触れた。
脳裏に懐かしい光景が蘇る。
幼い頃、母のように慕った人影。
そして、心から欲しいと手を伸ばした記憶。
闇呪が手を振り払うと、華艶は弱々しい女のようによろめき、その場に崩れた。
「闇呪の君。あなたに妾が斬れるのですか」
記憶の内の華艶が、そこに在った。
友であり、母であり、恋人であった、遠い日の理想。
華艶の美しい顔が、こみ上げた涙で揺らめく。
闇呪は悠闇剣を上段に構え、迷いを振り切るように振り下ろす。肩から二つに裂けた華艶の身体から、鬼が血しぶきのように迸り、その身の内に閉じめてきた憎悪が様々な悲鳴をあげた。
華艶の身体がどっとその場に倒れる。
刃を向けても、華艶は労わるような美しいほほ笑みで、闇呪を仰いでいる。闇呪は悠闇剣を持ち直し、その白い首筋にそっと切っ先を定めた。
「妾を見捨てるのですか」
華艶の潤んだような瞳に、自分の影が見える。ためらいそうになる心を、懸命に奮い立たせた。
もう成す術がない。
「華艶……」
闇呪が瞬きをすると、ぱたぱたと涙が落ちた。
「私には、あなたを救えない」
ただ悪意に満ちた鬼を払うことができても、華艶の心に宿った絶望を癒す術がない。
いつまでも終わらない悪夢。
闇呪は細い首に定めた悠闇剣で、禍根を貫いた。




