第八章:三 古の禍根
翡翠はぞわりと総毛立つ。
「彼女もまた天地界では異端の娘だった。先守の色を纏いながら占いの力を持たず、天籍を持つと言う、人々の知る理から外れた特徴。そして、誰もが欲しがる美貌。彼女の過ぎた美貌は世に不穏をもたらした。そういうことは稀にあるが、その娘の場合は異端視できる理由があった。人々は諍いに理由を求めるようになる。彼女の理にあてはまらぬ特徴は、人々の不満のはけ口になったのだろう。ただ先守の色を纏いながら、天籍を持つ。それだけの事実で、彼女は囚われた。世に不穏をもたらす者として」
まるで闇呪のようだと、翡翠は思う。自分も彼の黒髪黒目の噂だけで、巨悪な存在を作り上げていた。
「我が君は、謂われのない蔑視にさらされるその女性、――華艶を無視することができなかったのです」
紫瑯が低く笑う。
「お前たちには、さんざん我儘を通したね。私は心から彼女を愛した。四国にもその旨を伝えたが、それがさらなる悲劇をもたらした。私のあずかり知らぬところで、滄国が彼女を弾劾し幽閉した。私は華艶を守りきれなかったのだ」
「我が君は当時の滄王に騙されたのです。華艶は我が君の御子を身ごもっておられた。しかし滄王は戯言だと片付け、全てを隠蔽した。やがて華艶が産み落とした子は、忌子として処刑された」
「華艶は嘆き、その身を鬼に捧げたため、滄王に討たれてしまった」
「討たれた? それで禍になった?」
東麒はただ目を伏せた。紫瑯が労わるように守護の肩に手を置く。翡翠を見た目に静かな悲しみが映っていた。
「いや、天籍を持つだけの者が何かを呪っただけでは、そんなことにはならない」
紫瑯が罪を告白する。
「私は天籍を持たない。誰かを翼扶にすることも、誰かの比翼となることもできない。どれほど華艶を愛していても、そのような証を与えることができなかった。だが華艶は知らず、私の愛を信じることができなかった。そして御子が殺された時、私が見捨てたと絶望した。そうして彼女を逝かせてしまった。全ての咎は私にあるが、私はどうしても滄王を許すことができなかった。華艶の恨みに耳を傾け、怒りで我を失い、鬼に心をあけ渡した。守護の力を悪意によって解放した。それが、華艶に禍となる力を与えてしまった」
「でも、なぜあなたは禍にならなかったんですか」
「麒麟の加護があった」
「麒麟の加護?」
翡翠が聞き返すと、東麒が答えた。
「それは私の同胞が魂魄と引き換えに呪法を行ったからです。我が君は天籍を持たないが故、礼神を持ちません。我が君の力は我ら麒麟の力ですが、全てが鬼と同化する前に、我が君と私を異界に飛ばし、自身を消滅させて、鬼との繋がりを断ち切った。そして、この有様です。この世の者でもなく、異界の者にも成りきれない。そして、身に刻まれた鬼の名残は闇を纏わせる。それでも麟南――同胞には感謝しています。我が君を最悪の結末からは守りきれました」
「だが、禍は残されたままだ」
苦しげに紫瑯が呟く。
「私が知る頃よりも、華艶は膨大な鬼を取り込み、強大な禍に育っているだろう。悪意、負の連鎖。誰かが断ち切らなければ、消えることはない」
「誰かがって、――」
翡翠は紫瑯の役割ではないかと思ったが、紫瑯は首を振る。
「今も昔も、私は無力だよ。黄帝陛下と相称の翼の想いにかけるしかない。彼が悪意に呑まれなければ、私の出番もあるだろうがね」
もう覚悟を決めているのか、紫瑯は微笑んだ。今まで黙っていた鳳凰がようやく声をあげる。
「無責任な話だなー」
「ちょ、至鳳!」
翡翠も同じ感想を抱いていたが、東麒を前に口に出す勇気はない。
翡翠は咄嗟に至鳳の口を塞ぐが、傍らの凰璃がさらにズバリと言い放つ。
「あなたの尻拭いを黄王と主上にさせるってことよね」
「こら! 凰璃!」
二人を両腕で羽交い締めにすると、紫瑯が声を立てて笑う。東麒は主への不平に殺気だった気配を漂わせていたが、紫瑯が笑うのを見て、肩をすくめて吐息をついた。
「昔話はおしまいにしましょう」
東麒は踵を返すと、泉を満たす麒麟の生き血の虜になっている男に歩み寄って行く。容赦なく泉に顔を伏せている男の長い髪をぐいと掴み上げた。
「ここまで堕とされたか。まぁ主以外には毒も同然」
東麒は男の髪を引っ張り、ずるずると泉から男を遠ざける。
男は正気を失っているのか、言葉にならない声を発し泉へ這い戻ろうとするが、東麒が髪を掴んでいるため、その場でじたばたともがくだけだった。
「その人は……」
翡翠が言葉にするのを躊躇っていると、東麒が「予想はつきます」と冷淡に言い放った。
「麒麟の生き血で黄帝を騙っていたのではないですか」
「これが、傀儡の黄帝」
闇呪の正体がわかった時、すでに翡翠にも知れた事実だったが、正気を失っている様は想像とは程遠い。紫瑯が男に歩み寄り、哀れな視線を送っている。
「ここまで侵されたら、もはや手遅れだ。東麒」
「はい」
「この者はこれ以上生かしてはおけない」
「はい」
東麒が男の首に手をかける。
「ちょっと待って。操られていただけかもしれないのに?」
翡翠が慌てて駆け寄る。鳳凰が足にしがみ付いたまま、床を這うように手足を動かしている男を見つめている。無表情な鳳凰の顔に、翡翠は背筋が冷たくなった。二人の視線には、まるで自分達が制裁を加えたいと言いたげな、冷淡な憎しみが浮かんでいた。
東麒がゆっくりと翡翠を仰ぐ。
「もう正気を失っています。麒麟の生き血は、主以外には毒に等しい。中毒性は増していくばかりです。このまま生かしても苦しみしかありません」
「それに」と東麒は続ける。
「傀儡とはいえ、黄帝であったなら、各国の王の真名を携えています」
「あ……」
凰璃が追い討ちのように現実をつきつける。
「今は継承者の真名も携えているわ。この男にそんな資格がある?」
至鳳も侮蔑の光を宿した目で続けた。
「こんな男、黄帝でも何でもないだろ。主上を傷つけただけでも、万死に値する!」
鳳凰には、男への同情の余地はないようだった。酷薄さを隠すこともない。傀儡とはいえ、主である朱桜を陵辱した事実への怒りと嫌悪感が全てを凌駕するのだろう。翡翠にもその気持ちはわかる。王や継承者の魂魄を握っている状態も無視できない。傀儡となった男の魂魄を惜しむ理由を、翡翠も失ってしまった。
「それでも真の黄帝陛下にとっては同胞です。利用されていた事実がわかるだけに、引導を渡すことに心を痛めるでしょう。玉座につかれた時に、わざわざ無慈悲な選択をさせる必要はありません。ですから、そのような役割は私が努めます」
「東麒」
翡翠がつぶやく間にも、東麒はあっさりと男に引導を渡した。黄帝であった男の最期は、音もなく速やかに訪れた。
「真名を捧げた主が失われたことは、各国の王と後継者が気づくでしょう。金域は騒がしくなります。全てが明るみに出るでしょうが、最大の問題が残っています。私たちも場を移しましょう」
東麒は横たわる男の屍には何の未練もないのか、くるりと踵を返し再び先陣を切って歩き出した。
翡翠達も慌てて後をついていく。
「場を移すって?」
「緋国です」
黄城を出て、翡翠は思わず目を疑った。世界が光に満ちている。異界の晴れた日と同じ明るい蒼穹。
(どうして?)
傀儡の黄帝を討ったせいかと思ったが、遠景へ目を凝らすと緋国の方角に天を貫く光の柱が見えた。
(相称の翼――、朱桜の姫君か)
翡翠は嬉しくなったが、すぐに光の柱を覆い尽くす影が目に入った。
遠くてもわかる。黒煙のように立ち上るのは、悪意を糧に膨張する鬼。
緋国で起きている異変が手に取るように伝わってくる。
「あなた方の黄帝陛下が、我が君と同じ選択をしないことを望みます」
同じように緋国の光景を眺めていた東麒の声が染みる。翡翠も表情を改めた。
古の黄帝、紫瑯は憎しみに呑まれた。そこから全てが始まったのだ。
闇呪が同じ末路をたどれば、もう再興の機会は与えられない。
世界は破滅するだろう。




