第八章:二 金域の真実
翡翠はあまりの惨状に、思わず嘔吐した。
金域はその輝きがむなしく感じるほど深閑としており、古に黄帝を努めていた男――紫瑯は何のためらいも迷いもなく、翡翠達を最奥の間まで案内した。
金域に侵入するにあたって多少の揉め事を覚悟していた翡翠は、成り行きの順調さに少し気を緩めた。
それが間違いだった。
最奥の間の厳かな扉が開かれた瞬間の異臭。
翡翠は目前の惨状を前に、気を緩めた自分の無防備さを呪った。
「うっ……。これが、答え?」
一通り吐き出して、翡翠は顔色一つ変えずに立っている東麒を見た。
吊るされた輝く肢体から絶え間なく血が滴り落ちていた。広い室内の奥には小さな泉が作られているようだ。頭部のない麒麟の肢体から流れ出る血を受け止めるようになっている。近くの台座には眼球をくり抜かれた麒麟の頭が二つ並んでいた。
「麒一!」
麟華の悲鳴のような声が、室内に反響する。麟華の駆けつける右の壁際に、黒い塊が見えた。翡翠は目を凝らして、ようやくそれが黒麒麟の本性であることを理解する。
麟華が首を支えるように抱くと、黒麒の頭がこちら側に傾いた。麟華の衣装が赤く染まるのを見て、麒一の出血が尋常ではないことに気付く。恐る恐る近寄ると、麒角の折れた部分が見える。
頭部からえぐるように折られたのか、額に穴のような傷痕がある。黒い毛並みが血に濡れて不自然に束になっていた。
「麒一、しっかりして」
翡翠が近づいてそっと黒い体躯に手を置くと、温もりが伝わってくる。生きているのだとほっと吐息が漏れた。翡翠と同じように嘔吐していた鳳凰もようやく落ち着いたのか、背後で「よかった」とはしゃいでいる声が聞こえる。
「グゥゥ」
麟華の呼びかけに、唸るような低い咆哮で麒一が応える。翡翠にはわからないが、麟華には同胞の言葉として響くのだろう。
「わかっているわ、麒一。大丈夫。私たちは黄帝に仕える麒麟なのよ」
「グゥ」
「詳しい話は後よ。大丈夫。とにかく、ゆっくり休んでいて」
麟華の声に安堵したのか、ゆっくりと頭がさらに傾いた。麟華の腕に身を任せて、麒一は気を失ったようだ。麟華がほっと息をつく。その場に良かったと言う空気が流れるが、翡翠はピチャリという水音に気がつく。空耳かと思って耳を済ますと、やはりピチャリピチャリと、耳障りな音がする。
何気なく視線を投げると、泉に顔をつけるようにして一心不乱に血を舐める人影が見えた。
「――っ!」
翡翠は思わず一歩後ずさってしまう。翡翠達の訪問にも気づかないのか、長い金色の髪を振り乱すようにして、血の泉の虜になっている。
鳳凰はできるだけ惨状が視界に入らないようにしているようだ。不自然な角度を向いたまま、翡翠の傍らに立っていた。
麟華は麒一の安否を確認して気持ちに余裕ができたのか、改めて惨状に意識を向けたらしい。麒一に寄り添ったまま、蒼白な顔色で酷い仕打ちを受け続けている麒麟を眺めている。
「東麒。このどちらかが、あなたの同胞なの?」
「えっ?」
翡翠も食い入るように東麒を見つめてしまう。東麒はふっと浅く笑った。
「いいえ、違います。これは先代が携えていた麒麟でしょう。しかし、最悪の主だ」
「違うよ、東麒。先代にも咎はない。全てを招いたのは私だ」
紫瑯の静かな声に、東麒は哀しそうに目を伏せる。
「我が君にも咎はありません。あれは、我が君のせいではない」
「いや、私が悪意に負けた。だから、彼女を救えなかったのだよ」
紫瑯は小さく笑う。
「だが、麟南が犠牲を払って私に機会を与えてくれた」
「はい」
「うまく行くことを願うしかない」
「はい」
紫瑯には殊勝に振る舞う東麒だが、翡翠達には何の説明もない。鳳凰も不服を感じたのか、翡翠にしがみついて甲高い声を出す。
「それって、どういうこと?」
「黄王や我が君を苦しめた理由なら、俺達には知る権利がある!」
「そうよ! 私たちだって、酷い目にあった!」
駄々をこねるような鳳凰の言い分に、東麒は吐息をつく。彼自身には語る資格がないのか、そっと紫瑯に目を向けた。紫瑯は頷く。
「この世に禍を生んだのは私だ」
「禍を?」
「そう。発端はどこにあったのだろうね。彼女に出会った時だったのか。あるいは――先守でありながら、黄帝となる宿命にあったのか。真名を持たないことが悲劇だったのか」
胸に波紋を描くような声で、紫瑯が語る。
「とても昔、私は麒麟を携えて誕生した。天地界ではそれが黄帝の証となるようだ」
「金を纏うのが、証ではないということですか」
翡翠が自分の常識を披露すると、紫瑯は「そうだね」と微笑む。翡翠にとっては異文化に触れるくらいに衝撃的な事実だった。
「私には黄帝としての役割よりも、先守としての役割の方が勝っていたのかもしれない。本性は輝きを持たない姿をしていた。他の先守と違わない紫の髪と眼で、天籍を持たない。けれど、たしかに黄帝は金を纏う。そういうわかりやすい証を天意が必要としているのも、また事実なのかもしれない。産まれながらに金を纏わない私は、麒麟の生き血を以って金を纏っていた」
「黄帝が先守なんて……」
信じられないというのが、翡翠の素直な感想だったが、言葉にするのは躊躇われた。東麒がそんな翡翠の気持ちを察したのか、口を挟む。
「当時は、我々もそれは稀有なことだと考えていましたよ。我が君が黄帝でありながら先守であること。でも今となれば、もしかすると同じような黄帝は古から存在したのかもしれませんね」
「え? どうして?」
「相称の翼を持たない黄帝。それをどう考えるかと言うことでしょうか。もちろんその時々の黄帝によって様々な事情があるでしょう。でも天籍を持たない黄帝の御世では、もちろん相称の翼の誕生は果たされない。そして、初めから相称の翼を生まない御世は、それだけ人々を落胆させる。そのために表には出されなかっただけなのでないか、と」
「それが、いつの間にか黄帝は天籍にあり金の輝きを纏って誕生すると言う理になったってこと?」
「そう考えることもできるという話です。ともかく、我が君は当時でも異端の黄帝でした。ですが、四国の王は我が君の異端の部分を嫌った。占うことも禁じ、決して公にはしなかった。」
「でも、公にしなくても、別に問題にはならないかも」
異端の黄帝は、相称の翼を生まない。東麒が語ったように、天帝の御世が果たされないという事実は人々を落胆させるだろう。あえて秘匿しようと考える各国の思惑もなんとなく理解できる。
「そうですね。ですが、問題は起きたんです」
東麒は何か悔いることがあるのか、漆黒の眼を閉じる。紫瑯のよく通る声が静寂を貫く。
「当時、世に稀有な美貌を謳われた女があった。名を華艶という」




