第八章:一 鬼(き)の依り代
緋桜と共に軒廊を戻っていた朱桜は、朱緋殿にたどり着くまでもなく、内裏がさっきまでと様変わりしているのを感じた。朱雀の結界の綻びは、瞬く間に何者かを招き入れたようだ。
(ーーこの感じ)
朱桜には馴染みのある感覚だった。
いつか鬼の坩堝で囚われた悪意と似ている。その時とは比べ物にならない途轍もない凶悪さに満ちているが、同質のものであることが窺えた。
あまりのおぞましさに、悪寒が走る。身震いがした。
何がこれほどに鬼に寄り憑き、禍々しいものを肥大させていくのか。鬼はすでに目に見える形となって際限なく濃度を増していく。
女王は突然の惨状に怯むこともなく、闇呪の横たわる居室を目指している。朱桜も駆けだしていた。
黒い煙が立ち込めたように、朱緋殿の内は淀んでいる。途中で殿舎をつなぐ軒廊に倒れている人影が見えた。
闇呪の横たわる居室が見えてくると、部屋に続く廊で碧宇が倒れている。白虹と玉花に支えられているが、碧宇の纏う衣装は赤く染まっていた。
「碧宇の王子!」
緋桜の鋭い声に、三人が一斉にこちらを向いた。
「陛下! 女王!」
「何があったのです」
問いながらも緋桜はかけ進む。朱桜も答えが返る前に居室の内を視界に入れていた。
「紅於の君?」
緋桜の悲鳴のような声で、朱桜は闇呪の前に立つ人影が誰かを理解した。紅於は屍のような色のない顔でこちらを見る。
朱桜はぞっと肌が粟立つ。
深淵を映したかのような瞳は、まるでそこに穴が開いたのではないかと感じるほど光がない。何かを正視しているのかどうかも怪しい。
紅於の手にした刀剣の刃先から、ぽたりと血が滴り落ちた。朱桜は衣装を血に染めた碧宇を見返る。紅於が切りつけたのは間違いがない。
碧の第一王子に抜刀するなど、もはや正気の沙汰ではなかった。
「紅蓮の宮」
紅於はうわ言のように呟き、横たわる闇呪の前に膝をついた。何事もないように胸に刺さる麒角に手を伸ばし、掴んだ。力を込めてさらに闇呪の胸を裂く。血しぶきがあがった。
「先生!」
朱桜は悲鳴をあげて、すぐに朱雀に預けた剣を抜こうと手を掲げる。
「姫君! 駄目だ」
指先が刀剣に触れた時、碧宇の声が響いた。
「いくら陛下の礼神でも、呪鬼には無力だ」
「だけど、先生が」
「朱桜の姫君」
白虹が立ち上がって朱桜の前に立った。長い指先が剣にかけていた手に触れる。
「気持ちはわかりますが、収めてください。継承権を持つ王子の力も相殺され、殺気が鬼を増幅するだけです。たとえ陛下の力を以ってしても同じです。今は悪戯に鬼を刺激しないほうが良いのです」
「だけど、このままでは」
白虹も唇を噛む。肥大する鬼を前に成す術がないのだ。
紅於の髪が突風に吹かれたかのようにうねる。緋色の美しさは失われ、頭髪が闇に染まっている。
くつくつと、彼が笑った。他愛ない仕草であるはずなのに、恐ろしくてたまらない。
「いまさら正体が知れたところで、麒角に封じられ、もはや成す術もない」
紅於の口から美しい声が漏れた。聞き覚えのある声。
朱桜は身動きすることを忘れて、声に耳を傾けていた。
囁くような声で、紅於は闇呪に問いかける。
「ーーそなたの罪、どのように贖うのか?」
ゆったりとした女の声。朱桜は眉をひそめる。
(これは、華艶様の声)
いつも慈愛に満ちていた声。同じ声色なのに、今は恐ろしさしか感じない。囁きにすら、厳しさが剥き出しになっていると感じるのは、辺りに充満する鬼のせいだろうか。
(本当に、華艶様が禍に――?)
どうしても信じられないが、この声には聞き間違いがない。
「紅蓮を討った罪」
華艶の声で紅於が闇呪を弾劾する。紅蓮の許嫁であった紅於の内に逆恨みが育ったとしても、責めることはできない。その哀しみに鬼が取り付いてしまったのだろうか。ふと目隠しをされて再びを視界が開けたように、脳裏に克明に描かれる情景があった。
紅蓮の断末魔の悲鳴までが蘇って、朱桜は思わず耳を塞ぐ。
「では、禍の宿命に抗い、翼扶を得た罪は?」
闇呪への尋問には、途切れることのない悪意が満ちている。
(先生は禍じゃない)
紅於は再び麒角に手をかける。朱桜が掴んだ時の苦痛は微塵もないようだった。麒角で闇呪の身をさらに貫く。華艶の声は続けざまに闇呪に幾つかの問いを投げる。
どんな意味があるのか、朱桜にはわからない。ただ辺りに充満する鬼を蹴散らして、なんとか麒角を抜く手立てはないだろうか。やはり黄緋剣を抜くべきではないか。
逡巡していると、紅於が麒角を掴んだままゆっくりとこちらを向いた。
歪に表情が変わる。ニタリと、微笑みが宿った。
「翼扶に何が起きたのか。妾がおしえてやろう」
朱桜はゾッと身震いがした。
意識を失いそうな勢いで、流れ込んでくる情景がある。鬼の見せる幻影。振り払おうとしているのに、目を逸らすことが許されない。もっとも思い出したくない記憶が共鳴する。
同時に、闇呪の痛みに呻くような声が聞こえた。
「やめて!ーー先生!」
目を閉じても消えない光景。金域で受けた最悪の仕打ちが、描き出されようとしている。朱桜はそれが闇呪に向かって放たれた悪意なのだと気づいた。彼を負の連鎖に引き込もうとしている。
(やめて、やめて!)
無理矢理再生される情景に血の気が引き、眩暈がする。
自分の身を襲った悪夢のようなひととき。それが最悪の舞台で闇呪に伝わることに、絶望を感じた。
「朱桜。闇呪の君を信じなさい」
心が折れかけた時、凛とした声が響いた。朱桜はハッと幻影から引き戻される。仰ぐと緋桜が険しい眼差しで紅於を見つめたまま、もう一度声をかけてくれる。
「陛下の輝きは、このようなことでは奪えません。自信を持ってください」
「――宮様」
朱桜は胸に手を添えて呼吸を整えた。最悪の記憶に囚われそうになっていたのだ。ここで心が折れれば、自分まで鬼の餌食になってしまう。
そんなことになれば取り返しがつかない。朱桜は自身に課せられた使命を思い出し、強く胸に刻む。己を奮い立たせた。
手の甲に当たる爪が肌を傷つける程に、強く手を握りしめる。
(大丈夫。耐えられる。――私は負けない)
血が流れ出るが、その痛みに安堵した。とらわれていた幻覚が遠ざかり、正気が戻る。
「まずい! 黄帝陛下が」
碧宇は衣装の血痕が他の誰かの返り血ではないかと錯覚させるほど、負傷した身体を思わせない覇気を纏い、紅於と対峙している。白虹もいつの間に抜刀したのか、輝く白い刀剣を構えていた。
朱桜が記憶に囚われていた間に、打開策がないかと、二人が鬼と攻防を繰り広げていたのは明らかだった。
「黄帝陛下!」
白虹の叫びが場を貫く。充満する鬼が、麒角から闇呪の身に取り込まれていく。激しい風が巻き起こり、鬼が渦を巻いて吸い込まれていく。びくりと、闇呪の身体が身動きした。
「先生!」
ゆらりと胸を麒角に貫かれたまま、闇呪が幽鬼のように立ち上がる。闇に染まった長い髪が、生き物のように彼の背後で立ち上がり、蠢めいた。不自然に隆起した血管が、肌に黒い模様を描く。
紅於が力なく崩れると共に、闇呪の高い哄笑が響いた。
「妾の宿願は成った」
闇呪の口から、華艶の声が響く。
鬼に新たな、そして最悪の依り代を与えてしまったのだと、誰もが理解した瞬間だった。




