第七章:三 古(いにしえ)の者達
翡翠は鬼の坩堝まで戻り、一帯の森を捜索してみたが、麒一の気配は感じられない。本性のまま辺りを駆け回っていた麒華も、お手上げだと言わんばかりにぶるりと首を振った。
ばさりと輝く翼をおさめ、本性から人型へと戻った至鳳が翡翠の背後に立つ気配がする。
「でも俺が麒一だったら、耐えられないかも」
幼さの残る声を聞きながら、翡翠が振り返る。
「耐えられないって?」
「主を傷つけるなんて、考えるだけで肌が粟立つよ」
「そうよね。麒一を見つけたとして、正気でない可能性もあるわよ。その時はどうするの? 麒華」
いつのまにか変幻して、凰璃も背後に立っている。あどけない声にこたえるように、麟華も人型に変幻を果たす。ばさりと緋国で与えられた衣装の袖が閃いた。
「もし主上に害をなすなら、私が仕留めるしかないわ」
「ええ? 仲間を?」
翡翠が声をあげると、麟華は何でもない事のように頷く。
「麒一も本望よ」
「まぁ、そうなるよね」
至鳳も当然と言わんばかりの態度だった。翡翠は彼らの内にある決然とした主への忠誠を感じつつ、嫌なことを想像してしまう。
黒麒麟の攻防など苛烈を極めるだろう。できれば立ち合いたくないというのが、翡翠の素直な感想だった。
「ちょっと待って!」
ふいに鳳璃が甲高く鋭い声を出す。さっと場の空気が張りつめた。翡翠も身構えるが、辺りに目を凝らしても何の変化も感じられない。
凰璃をはじめとして、霊獣達は鬼門のある方角に視線を集中させている。
「この気配」
「麒麟? だけど、どこかで」
至鳳と凰璃のやり取りが終わらないうちに、翡翠の目にも、樹々の陰に何かが動いているのがわかった。
何者かが、こちらへやってくる。木立を抜けて近づいてくる影。
翡翠がそれが人影であると見極めた時、麟華が正体を口にした。
「東吾?」
「え?」
翡翠は思わず声を出してしまう。翡翠も異界で東吾の世話になったが、まだ顔を見分けられない。鬼門を抜けてきたのだろうか。異界の人間である東吾が、なぜこんなところにいるのか。
(いや、待てよ。たしか鳳凰が彼のことをーー)
状況を推し量っている間にも、人影は歩み続け、翡翠にも顔が見分けられる距離に近づいていた。現れた東吾は天界に相応しい和装を纏い、長く伸びた髪を一つに束ねている。雅な和装の影に隠れるように、人影があった。どうやら東吾の背後に、もう一人誰かがいる。
「何か探しものですか」
東吾は異界に在った頃と変わらない態度で、翡翠達との再会に驚くこともない。飄々とした調子で笑顔を向けてくる。
(でも、気配が違う)
翡翠の知る東吾の気配がない。ないというより、東吾に抱いていた得体の知れない違和感が強くなって変化したという方が相応しい。
東吾の背後の男も紫の法衣を纏っている。先守の衣装だった。
(もしかして、異界の天宮?)
はっきりと顔貌が見えると、男は端整な顔をしている。東吾と同様に、翡翠達との出会いに戸惑うことも、狼狽える様子もない。
男には天籍の者が持つ特有の気配が感じられないが、東吾と同じように黒髪は長く、天界の在り様をなぞるかのように結い上げている。すっと背筋の伸びた立ち姿は威風堂々としていた。男は腕に見事な布張りの箱を抱えている。上質な織物で飾られた箱。何が入っているのかは、翡翠には検討もつかない。
「東吾、あなたは一体」
珍しく麟華が戸惑っている。
「私は東麒。本性はあなたと同じ麒麟です。こちらが私の主、異界では天宮史郎を名乗っていましたが、紫瑯様ーー元黄帝陛下、と言った方がわかりやすいですか」
「だけど、あなた達は」
「そう。異界の者です」
にっこりとほほ笑む東吾の笑顔は、やはり得体が知れない。思わず翡翠が口を挟む。
「ちょっと待って。まったくわからない。元黄帝陛下? 先守じゃなくて?」
「我が君は先守です」
「え?」
間の抜けた声を漏らすと、翡翠を盾にするように背後に隠れていた鳳凰が声を震わせる。
「それ! その気味の悪い感じ! いったい何なの?」
「同胞が我らにかけた呪法のことですか」
「呪法!?」
翡翠は素っ頓狂な声が出る。次から次へと途轍もない事実が明らかになっているようだが、翡翠の常識ではとても理解できない。
「我が君のための苦肉の策です。同胞の命がけの行いを呪法と言い切るのも違う気がしますが、今となっては些細なことです」
「些細なことって」
問い詰めるのも恐ろしい気がして翡翠が言葉を詰まらせていると、麟華が一歩進み出る。
「もしかして、麒一の行方を知っているの?」
東吾だった者ーー天界に戻り麒麟を名乗った東麒は、おやと眉を動かす。
「ええ。存じていますよ。私ではなく我が君が、ですが」
麟華が東麒の傍らの男を見ると、彼はまっすぐに視線を受け止めて、はじめて口を開いた。
「金域で、全てが明らかになる」
大きくはないのに、心地よく通る声。声音は全く違うのに、なぜか翡翠は闇呪を思い出す。
今まで意識したことがなかったが、はっきりと自覚したことがあった。
(これが、黄帝の声)
そういうことだったのか、と翡翠はいまさら思い知る。
(闇呪の声も、天声だったんだ)
天声ーー黄帝だけが生まれながらに持つと言われている声色。
翡翠は項垂れる。猛烈に落ち込みそうだった。
はじめから闇呪には様々な片鱗が見えていたのではないか。
あれほどの逆境にありながら、失われなかった慈悲。
追い詰められながら、それでも誰かに心を移したり、思いやることは簡単なことではない。
禍となる。
その偽りの占いが、全てに目隠しをしていただけなのだ。
自分の思考がいかに歪み、偏っていたのか。翡翠ははぁっと自己嫌悪に陥る。
「碧の王子」
麟華に叱責されるかのように呼ばれ、翡翠は気持ちを立て直す。落ち込むより先にやるべきことが在る筈なのだ。
「とにかく、金域へ行くわよ!」
「うん。わかってる」
返答と同時に、すでに巨鳥に変幻していた至鳳に飛び乗る。東麒も本性に戻り、紫瑯を背に乗せると一目散に駆け飛んだ。




