第七章:一 悪意
(悪意を植えつけることは、なんと容易いことか)
自身の屋敷を出た紅於を感じながら、華艶はくつくつと笑う。誰しもが抱いている負の感情。
哀しみ、怒り、嫉み、妬み、痛み、焦り、不安、嫌悪、否定、拒否。
少し刺激するだけで良い。
抗う術を持たぬ心は、すぐに華艶の放つ鬼の餌食となった。
これまでに数多の悪意を呑み込んできた存在。
それが今の華艶だった。発端は古に受けた仕打ち。今となっては幾多の憎悪と怨嗟、絶望によって、全てが混濁しつつある。ただ核となる深淵で呪詛だけが響く。
(この世界に、なんの意味があろうか)
全身全霊をかけて、この世を否定する。
(「ーー妾がいったい何をしたというのですか」)
華艶はふと可憐な声を聴く。
黄帝陛下を信じていたころの声。自分の声。
(ーー妾は陛下を愛した。けれど、陛下はそうではなかった。)
今も聞こえる。繰り返し消えることのない声。止まぬ絶望の悲鳴。
(ーー陛下は決して、妾を翼扶をとして望まない。妾の比翼をすらお認めにならない。わかっていた。妾が愚かだった)
誰もが心を奪われる美貌。思いあがっていたのは自分だろうか。
世に不穏を生み出す者として囚われた身。そんな自分が、陛下の想いを信じたことが、傲慢だったのか。
違う。愛されないだけであれば、自分はーー古のあの女、華艶は耐えられた。
(「――陛下の御子? いまさら、そのような戯言を誰が認めるというのだ」)
なぜこれほどに虐げられなければならなかったのか。
陛下の心にも、ただ不穏をもたらしただけだったのか。
深淵にこだます。悲鳴が聞こえる。
(「吾子がーー!妾のーー」)
長く尾を引く、引き裂かれたような声。甲高い絶叫。
数多の悪意にも紛れることのない、絶望の響き。
(妾はそうして)
すでに世の憎悪と怨嗟に身を捧げ、哀しみは見失ってしまった。自身の身を裂かれるよりも辛い仕打ちを映しても、悪意が増幅するだけである。
(そうして、禍になった)
黄帝を、この世を呪う。
つまらない、くだらない、悪しき世。
ひたすら、世界を滅ぼす力を欲した。
(ようやく、妾の悲願は果たされる)
悪意に触れ肥大する鬼によって、人は容易く判断を失う。
鬼に憑かれた紅於は、まるで華艶の傀儡であるかのように、迷いのない足取りで緋国の内裏に向かう。
紅於の身からあふれ出す悪意から、華艶は思惑通りの成り行きを見つめていた。
四神の一柱である朱雀。地に憑く霊獣の結界はたしかに華艶の行く手をふさぐ力になる。赤の宮のめぐらせた防御は厄介ではあるが、心に闇を映す者があれば、華艶には障壁とはならない。紅於の悪意とはすでに繋がっている。鬼の一端が紛れ込むだけで良いのだ。紅於は伏兵として、今まさにその役割を果たそうとしていた。
「紅於様。いけません。内裏には誰も通すなというのが、赤の宮の命です。いくら橙家の長子とは言え、背くことは許されません」
内裏への門前で、紅於は門番に足止めをされている。放った鬼から伝わる様子を窺いながら、華艶はほくそ笑む。
(人の心は脆く、流されやすいもの)
「女王にお話しがある。紅蓮の宮のことで」
鬼を操り、華艶は紅於の憎悪を包み隠す。新たに哀しみの仮面を被らせ、悲嘆に暮れる悲劇の者を演じさせる。
泣きながら訴える紅於に、門番が戸惑うのが分かる。じりじりと強引に門に迫るが、緋国で権威を持つ子息に対して、手荒に追い払うこともできないようだった。
「お気持ちはお察しいたしますが、いけません。紅於様」
じりじりと紅於の勢いに押されて、門番が一歩下がる。
「おさがり下さい」
言葉とは裏腹に、一歩、また一歩と門番が後ずさる。紅於でなければ門を守る者として許された実力を行使する所だろう。伏兵として紅於を選んだ甲斐がある。
「すべてのお叱りは私が受ける」
言い募る紅於は前進をやめない。ついに閉じられた大きな門扉に、門番の背がぶつかった。
「ですが、女王は今取り込み中で」
女王の命に背くことは許されないと、それ一辺倒だった門番の言い様が変化したのを、華艶は見逃さなかった。くくくっと嗤いがこみ上げる。
「ではここで待機する」
涙を流す頑な紅於に、門番が深いため息をついた。
今内裏に何者が在るのか。何のために結界が儲けられたのか。伏せられた真実を門番が知る由もない。
「では、こちらへ」
正門の傍らにある小さな通用門へと導かれ、紅於はついに結界内に一歩を踏み出した。華艶は耐え切れず、哄笑する。
(ーー時は満ちた)
結界内に開いた風穴を見逃さず、華艶はさらなる鬼を放った。




