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シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜  作者: 長月京子
第五話(最終話) 相称の翼

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第七章:一 悪意

(悪意を植えつけることは、なんと容易(たやす)いことか)


 自身の屋敷を出た紅於(かえで)を感じながら、華艶(かえん)はくつくつと笑う。誰しもが抱いている負の感情。

 哀しみ、怒り、嫉み、妬み、痛み、焦り、不安、嫌悪、否定、拒否。

 少し刺激するだけで良い。

 抗う術を持たぬ心は、すぐに華艶の放つ()の餌食となった。


 これまでに数多(あまた)の悪意を呑み込んできた存在。

 それが今の華艶だった。発端は(いにしえ)に受けた仕打ち。今となっては幾多(いくた)の憎悪と怨嗟(えんさ)、絶望によって、全てが混濁しつつある。ただ核となる深淵で呪詛だけが響く。


(この世界に、なんの意味があろうか)


 全身全霊をかけて、この世を否定する。


(「ーー(わたくし)がいったい何をしたというのですか」)


 華艶はふと可憐な声を聴く。

 黄帝陛下を信じていたころの声。自分の声。


(ーー(わたくし)は陛下を愛した。けれど、陛下はそうではなかった。)


 今も聞こえる。繰り返し消えることのない声。止まぬ絶望の悲鳴。


(ーー陛下は決して、(わたくし)翼扶(つばさ)をとして望まない。(わたくし)比翼(ひよく)をすらお認めにならない。わかっていた。(わたくし)が愚かだった)


 誰もが心を奪われる美貌。思いあがっていたのは自分だろうか。

 世に不穏を生み出す者として囚われた身。そんな自分が、陛下の想いを信じたことが、傲慢だったのか。

 違う。愛されないだけであれば、自分はーー古のあの女、華艶は耐えられた。


(「――陛下の御子? いまさら、そのような戯言(ざれごと)を誰が認めるというのだ」)


 なぜこれほどに虐げられなければならなかったのか。

 陛下の心にも、ただ不穏をもたらしただけだったのか。

 深淵にこだます。悲鳴が聞こえる。


(「吾子(あこ)がーー!(わたくし)のーー」)


 長く尾を引く、引き裂かれたような声。甲高い絶叫。

 数多の悪意にも紛れることのない、絶望の響き。


(わらわ)はそうして)


 すでに世の憎悪と怨嗟(えんさ)に身を捧げ、哀しみは見失ってしまった。自身の身を裂かれるよりも辛い仕打ちを映しても、悪意が増幅するだけである。


(そうして、(わざわい)になった)


 黄帝を、この世を呪う。

 つまらない、くだらない、悪しき世。

 ひたすら、世界を滅ぼす力を欲した。


(ようやく、(わらわ)の悲願は果たされる)


 悪意に触れ肥大する()によって、人は容易く判断を失う。

 ()に憑かれた紅於(かえで)は、まるで華艶の傀儡(かいらい)であるかのように、迷いのない足取りで緋国(ひのくに)内裏(だいり)に向かう。

 紅於(かえで)の身からあふれ出す悪意から、華艶(かえん)は思惑通りの成り行きを見つめていた。


 四神の一柱である朱雀(すざく)。地に憑く霊獣の結界はたしかに華艶の行く手をふさぐ力になる。赤の宮のめぐらせた防御は厄介ではあるが、心に闇を映す者があれば、華艶には障壁とはならない。紅於(かえで)の悪意とはすでに繋がっている。()の一端が紛れ込むだけで良いのだ。紅於(かえで)は伏兵として、今まさにその役割を果たそうとしていた。


紅於(かえで)様。いけません。内裏には誰も通すなというのが、赤の宮の命です。いくら橙家(とうけ)の長子とは言え、背くことは許されません」


 内裏(だいり)への門前で、紅於は門番に足止めをされている。放った()から伝わる様子を窺いながら、華艶はほくそ笑む。


(人の心は脆く、流されやすいもの)


「女王にお話しがある。紅蓮(ぐれん)の宮のことで」


 ()を操り、華艶は紅於の憎悪を包み隠す。新たに哀しみの仮面を被らせ、悲嘆に暮れる悲劇の者を演じさせる。

 泣きながら訴える紅於(かえで)に、門番が戸惑うのが分かる。じりじりと強引に門に迫るが、緋国(ひのくに)で権威を持つ子息に対して、手荒に追い払うこともできないようだった。


「お気持ちはお察しいたしますが、いけません。紅於様」


 じりじりと紅於の勢いに押されて、門番が一歩下がる。


「おさがり下さい」


 言葉とは裏腹に、一歩、また一歩と門番が後ずさる。紅於(かえで)でなければ門を守る者として許された実力を行使する所だろう。伏兵として紅於を選んだ甲斐がある。


「すべてのお叱りは私が受ける」


 言い募る紅於は前進をやめない。ついに閉じられた大きな門扉に、門番の背がぶつかった。


「ですが、女王は今取り込み中で」


 女王の命に背くことは許されないと、それ一辺倒だった門番の言い様が変化したのを、華艶は見逃さなかった。くくくっと(わら)いがこみ上げる。


「ではここで待機する」


 涙を流す頑な紅於に、門番が深いため息をついた。

 今内裏に何者が在るのか。何のために結界が儲けられたのか。伏せられた真実を門番が知る(よし)もない。


「では、こちらへ」


 正門の傍らにある小さな通用門へと導かれ、紅於はついに結界内に一歩を踏み出した。華艶は耐え切れず、哄笑する。


(ーー時は満ちた)


 結界内に開いた風穴を見逃さず、華艶はさらなる()を放った。

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